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世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本近代化の流れ(46)

2017-01-13 00:00:00 | Weblog
日本近代化の流れ(45)

通州で日本兵と語る楽しみ

長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。

私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさん(沈さん)が仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。

そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさん(沈さん)が通州に行くというのです。

通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさん(沈さん)に従って通州に行くことにしたのです。

通州事件の惨劇02

(削除2)

それは昭和九年の初め頃だったのです。

Tさん(沈さん)が言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。

しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。
今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

通州では私とTさん(沈さん)は最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。

私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。

私はTさん(沈さん)と結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさん(沈さん)があまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。

すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。

それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。

遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。
日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。

私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。

そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。
Tさん(沈さん)がやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。
だから買う人にとってはとても便利なんです。

(沈さん)に頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。
Tさん(沈さん)も北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。
私たちはTさん(沈さん)と一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。


(参考用に挿入した。)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-121.html より。

この通州と言う街にはその当時冀東防共自治政府がありました。これは殷さんと言う人が作った政府で軍隊も一万人以上居ったそうです。そして日本に対しては非常に親日的だったので、私も日本人であるということに誇りを持っていたのです。(文章が抜けていたので追記。)

(続く)


日本近代化の流れ(46)



日本の悪口を言いふらす朝鮮人

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさん(沈さん)が私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。

そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。

私は心の中に不満が一杯だったけどTさん(沈さん)に逆らうことは出来ません。

それで出来るだけTさん(沈さん)の言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん(沈さん)近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。

そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。
何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。
Tさん(沈さん)が私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。

そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。

私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。

そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。
だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。
いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。

私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。

そこへTさん(沈さん)が帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。
するとTさん(沈さん)はあなたも日本人じゃないかと申したのです。

するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。
日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。
そして安重根という人の話を滔々と語りました。
伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。
我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。

私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。
なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。
こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。

Tさん(沈さん)は黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。

私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさん(沈さん)は私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。

私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。

道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。

目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。
私が日本人であるということは通州で知っているのはTさん(沈さん)の友人二、三人だけになりました。

日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。


信用できない保安隊

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。

大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。

この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。

その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。

行商に歩いていると日本人に出会います。
私はTさん(沈さん)から言われているのであまり口をきかないようにしていました。

すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が、
「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。

最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。

特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。

私はあまり心配だから、あるときTさん(沈さん)にこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさん(沈さん)はびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。

それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。
(続く)
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日本近代化の流れ(44)

2017-01-11 00:00:00 | Weblog

(16) 何故通州事件の目撃証言が載っているのか。

   因通寺の住職であった調寛雅氏は、大分県にある西本願寺の別府別院で講和を担当する機会がありました。そこに熱心に通ってこられたのが、通州事件の目撃者である佐々木テンさんと言う女性でした。「あるとき思いあまったような表情で次のような身の毛もよだつ通州事件の真実を語ってくれたのです」と著者は書き、そこから証言者の一人称の、長い告白文が続くという構成になっています。」とそれには書かれています。

(17) 佐々木テンさんは、1932(S7)年2月に請われて沈さんと言う支那人と結婚。
   1934(S9)年の初めころに通州に移住し、1937(S12)年7月29日にその沈さんと共に、通州事件の現場をまじかで目撃したものでした。

佐々木テンさんはその後支那人への嫌悪感から沈さんとは離婚して、S15年に故郷に戻り、晩年には別府に居を移し、西本願寺の別府別院によく参詣するようになったものです。しかし通州で目撃した凄惨な日本人皆殺しの地獄絵は、片時も忘れることが出来なかってものと思われます。
それも教導総隊の学生の青竜刀で切り刻まれた老婆の今際の一言が忘れなかったものと思われる。それは「くやしい、かたきをとって、なんまんだぶ」と言って息絶えた老婆の声であった。

そして佐々木テンさん西本願寺の別府別院で、調寛雅氏に通州事件の一部始終を語ったのである。

(18)
佐々木テンさんの証言は、こうしたいくつかの場面から成り立っています。それらの場面を列挙してみます。

➀十五~十六歳くらいの娘さんとこれを助けようとした父親を凌辱、惨殺
②十数名の日本人男性を数珠つなぎにして虐殺
③二人の女性を引き出し、凌辱して殺害
➃路上で念仏を唱えて事切れた老婆
➄木刀で抵抗した妊婦の夫の頭皮を剥ぎ、目玉を抉(えぐ)り取り、腸を切り刻む
⑥七、八ヶ月の妊婦の腹を割き、胎児を掴み出して踏みつける
⑦五十人以上の日本人を集団で銃殺、日本人は「大日本帝国万歳」を叫ぶ
⑧四、五十人の日本人を近水楼の池で虐殺、池を真っ赤に染める

これらの出来事を、テンさんは中国人の夫の肩越しに日本人と気取られないかという恐怖にもおびえつつ、震えながら目撃していたのです。

(自由社ブックレット5「通州事件 目撃者の証言」 藤岡信勝編著の21~22頁より)


(19) その佐々木テンさんの目撃証言が、

【通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)・日本人皆殺しの地獄絵】http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1    としてあるので、次にそれを示します。


【通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)・日本人皆殺しの地獄絵】
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1 

[この以下の佐々木テンさんの体験談に対して、自由社ブックレット5「通州事件 目撃者の証言」 藤岡信勝編著 と照らし合わせて、必要な追記や一部修正・説明の追記を行っている。
追記部分は青色。一部文字を赤色にしている。通州城内見取り図は説明用に挿入した。なお写真は元のままである。表題の丸数字は先の藤岡氏の列挙している場面の番号である。]


昭和12(1937)年7月29日、北京の西50キロにある通州市において、数百人の日本人居留民が虐殺されました。
大東亜戦争のきっかけのひとつになったともいわれる「通州事件」です。

通州の日本人居留民は、日本軍守備隊の留守をねらった支那の保安隊、学生によって、世界の残虐史上類例を見ないほどの残虐行為を受け、虐殺されました。
支那人達は、殺した日本人に対して一片の同情も哀れみもなく、屍体までもいたぶった。
ようやくかけつけた日本軍がそこで見たものは、言語に絶する惨状でした。

通州事件を、私達日本人は決して忘れてはいけません。
なぜなら、この事件は、一から十まで全て事実だからです。

以下は、その通州事件の体験者であるSさんの体験談です。(佐々木テンさんです。)

~~~~~~~~~
【Sさんの体験談】

支那人と結婚し支那に渡る

私は大分の山の奥に産まれたんです。

すごく貧乏で小学校を卒業しないうちにすすめる人があって大阪につとめに出ることになりました。
それが普通の仕事であればいいのですけど、女としては一番いやなつらい仕事だったので、故郷に帰るということもしませんでした。

そしてこの仕事をしているうちに何度も何度も人に騙されたんです。
小学校も卒業していない私みたいなものはそれが当たり前だったかも知れません。

それがもう二十歳も半ばを過ぎますと、私の仕事のほうはあまり喜ばれないようになり、私も仕事に飽きが来て、もうどうなってもよいわいなあ、思い切って外国にでも行こうかと思っているとき、たまたまTさん(沈さん)という支那人と出会ったのです。

このT(沈さん)さんという人はなかなか面白い人で、しょっちゅうみんなを笑わしていました。
大阪には商売で来ているということでしたが、何回か会っているうち、Tさん(沈さん)が私に「Sさん(テンさん)、私のお嫁さんにならないか」と申すのです。

私は最初は冗談と思っていたので、
「いいよ。いつでもお嫁さんになってあげるよ。」と申しておったのですが、昭和七年の二月、Tさん(沈さん)が友人のYさん(楊さん)という人を連れて来て、これから結婚式をすると言うんです。

そのときは全く驚きました。
冗談冗談と思っていたのに友人を連れて来て、これから結婚式というものですから、私は最初は本当(本気)にしなかったんです。

でも、Yさん(楊さん)はすごく真面目な顔をして言うのです。
「Tさん(沈さん)は今まで何度もあなたに結婚して欲しいと申したそうですが、あなたはいつも、ああいいよと申していたそうです。
それでTさん(沈さん)はあなたと結婚することを真剣に考えて、結婚の準備をしていたのです。
それで今日の結婚式はもう何もかも準備が出来ているのです。」とYさん(楊さん)は強い言葉で私に迫ります。

それでも私は雇い主にも相談しなくてはならないと申すと、雇い主も承知をして今日の結婚式には出ると申すし、少しばかりあった借金も全部Tさん(沈さん)が払っているというので、私も覚悟を決めて結婚式場に行きました。

支那の人達の結婚式があんなものであるということは初めてのことでしたので、大変戸惑いました。

でも、無事結婚式が終わりますと、すぐに支那に帰るというのです。
でも私も故郷の大分にも一度顔を出したいし、又結婚のことも知らせなくてはならない人もあると思ったのですが、Tさん(沈さん)はそれを絶対に許しません。

自分と結婚したらこれからは自分のものだから自分の言うことを絶対に聞けと申すのです。

それで仕方ありません。
私はTさん(沈さん)に従ってその年の三月に支那に渡りました。
(続く)
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日本近代化の流れ(43)

2017-01-10 00:00:00 | Weblog

すると、女の子は


「お父さん」と呼ぶのです。



多くの人たちは、言葉無く佇みます。



新聞記者までが、言葉を無くし一緒に涙を流したのです。





孤児院から出られるとき、子ども達が陛下の袖を持ち、
「またきてね、お父さん」と言います。

陛下は、流れる涙を隠そうともせず
「うん、うん」とうなずかれお別れになられます。


そして後に、一首の歌が届けられました。
「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」
調住職はこの昭和天皇陛下のお言葉をみなに響き聞かせようと、この御製を寺の梵鐘に鋳込ませました。今でも因通寺に行くとこの梵鐘の響きが当たり一帯に響き渡るそうです。


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::



洗心寮を出られたあと、長い坂の下でたくさんの人々が陛下を出迎えます。

陛下は遺族などと一人一人お話になり、進まれます。

その中に若い青年と思われる数十人が一団となり陛下をお待ちしていました。
シベリア抑留の時に徹底的に洗脳され、共産主義国家樹立の為に共産党に入党した者達でありました。

すごい形相でむしろ旗を立てて待ち構えていたのです。

恐れていた事が起こる気配です。

周りの者が陛下をお守りしなければと駆けつける前に陛下は、
その者達とお話になられます。

陛下はその者達に深々と頭を下げられます。


「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して深く苦しんで大変であっただろうと思うとき私の胸は痛むだけではなくこのような戦争があったことに対し、深く苦しみを共にするものであります。」

「皆さんは、外国においていろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として、新しい方向に進むことを、希望しています。皆さんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います。」


非常に長いお言葉を述べられます。

陛下の、表情は自愛に溢れるものでした。

陛下は、彼らの企みをご存知ない。




陛下の前に、一人の引き揚げ者が、にじり寄ります。

「天皇陛下さま、ありがとうございました。
今頂いたお言葉で、私の胸の中は、晴れました。

引き揚げてきたときは、着の身着のままでした。
外地で、相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで丸裸。最低の生活に落ち込んだのです。

ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったと、思ったことも何度かありました。そして、天皇陛下さまを、恨みました。

しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかったのです。

天皇陛下さまも、苦しんでいらっしゃることが、今、わかりました。
今日から、決して、世の中を呪いません。人を恨みません。
天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります。」


と言ます。



その時、むしろ旗を持ってすごい形相の男が

不意に地面に手をつき泣き伏しました。

「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。
 俺が間違っておった。俺が誤っておった。」


と号泣するのです。

その男の懐には短剣が忍ばせていたのです。



泣きじゃくる男に、他の者達も号泣します。


じっと、皆を見詰めて動こうとされない陛下。


陛下の、まなざしは深い慈愛に溢れ、お優しい目で見つめられます。


三谷侍従長が、ようやく陛下のおそばに来て促され


ようやく陛下は歩を進められたのです。



:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::



陛下が涙を流された時、人々は知りました。

陛下も苦しまれ、悲しまれ、お一人ですべてお抱え込んでいらっしゃる事を。

陛下は、危険を顧みず全国を御巡幸され続けます。

そのお姿に、国民は「一丸となって、共に頑張ろう」と思うのでした。

戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれたのです。





晩年、昭和天皇は病床で
「もう、駄目か」と言われます。

医師たちは、ご自分の命の事かと思いましたが、
実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。


最後の最後まで、国民を御思いになられる陛下でした。


その昭和天皇の御心は、平成5年に今上陛下によって果たされます。


今上陛下は、歴代天皇初の沖縄ご訪問をなさいました。

その時、原稿なしで遺族を前に5分間にわたって、御心のこもったお言葉で語りかけられました。


そのお言葉に、険しい表情であった遺族も
「長い間ご苦労様でした、というお言葉をもらったので満足しています。
お言葉には戦没者へのいたわりが感じられました。
陛下のお言葉でまた一生懸命やろうという気持ちが湧いてきました。」

「なぜか泣けて言葉にならなかった。沖縄のことを愛しているのだろうという気持ちがこみ上げてきた」





:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


こうして昭和天皇が昭和21年2月から始められた御巡幸は

45年もの月日を経て一区切りがついたのです。

http://ameblo.jp/hoshusaisei/entry-10857487913.html


(15) さて、調寛雅(しらべかんが)氏の『天皇さまが泣いてござった』の中に、通州事件の目撃者の、驚くべき証言が載っているのです。
(続く)
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日本近代化の流れ(42)

2017-01-09 00:00:00 | Weblog

子どもへ伝える大切なもの

先祖代々伝えられそして培ってきた文化と心 我々の世代で失くしてはならない、大切なモノ
(http://ameblo.jp/hoshusaisei/)

昭和の日 「天皇さまが泣いてござった」
2011-04-29 00:30:59  
(http://ameblo.jp/hoshusaisei/entry-10857487913.html)
テーマ:歩んだ歴史  

慶祝 昭和の日

本日は「昭和の日」です。日の丸t02200146_0260017310639643815改




4月29日は、昭和天皇がお産まれになった日です。
昭和天皇を偲びつつ、書かせて頂きます。
(不勉強ながら不敬な表現があるかもしれませんが、ご容赦下さいませ)


戦後、日本は何故奇跡の復興を可能にしたのか?
それは昭和天皇の足掛け8年半、約3万3000キロに及ぶ全国への御巡幸により、
国民が一つにまとまった事から始まりました。


昭和天皇t02200153_0500034811192786938
昭和天皇とマッカーサーとの感動秘話は有名なので、
当ブログでは書かないことにします。



御巡幸については調寛雅(しらべかんが)氏の
「天皇さまが泣いてござった」を参照させて頂きました。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
佐賀県への御巡幸のお話




佐賀県に因通寺というお寺があります。

この寺には、戦争罹災児救護教養の、洗心寮が設置されていました。
洗心寮には、44名の引き揚げ孤児と、戦災孤児がいました。

この寺の住職:調寛雅(しらべかんが)氏と昭和天皇はあるご縁がありました。


調寛雅t02200165_0800060011192786939

そのご縁もあって、九州行幸には「行くなら、調の寺に行きたい」との昭和天皇のご意向から、因通寺のご訪問が決定しました。

この地域は、共産主義者がたくさんいる地域で、
特に敗戦後ですので暴動が起きる可能性がかなりありました。

因通寺のある町では
陛下の行幸を歓迎する人と反対する人で対立が起きました。

歓迎するのにも命がけの雰囲気です、反対派から何をされるか分からない。

お迎えするのは町長や知事などもである。

ある町長は知事にこう言います。
「知事さん、あなたも、おわかりだろうけど、
このたび一天万乗の大君でいらっしゃる天皇陛下がここに来られるんですよ。

私も息子を今度の戦争で亡くしましたけれど、
おそらく息子は天皇陛下万歳といって死んだにちがいありません。

その息子のことを思ってみても、天皇陛下がおいでになるとき、
父親である私がどうしてじっとしていることが出来ましょう。

せめて陛下がお出で頂くとき、気持ちよくして下さるよう、
みんなでこうして掃除をしているんですよ。
知事さん、心配しなさられでもいいですよ。至誠天に通ずですよ。」





5月24日、いよいよ因通寺に昭和天皇の御料車が向かわれます。

いろんな想いの群集から、
「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」の声が自然と上がります。
それは、地響きのようでした。

天皇万歳t02200153_0378026311192865859
陛下は、群集に帽子を振って応えられます。

そして陛下は門前から洗心寮に入られます。

子ども達は、それぞれの部屋でお待ちしていました。


陛下はそれぞれの部屋を丁寧に足を止められます。

「どこから」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました」

「ああ、そう」

「おいくつ」
「七つです」
「五つです」


「立派にね。元気にね」


一人一人にお声をかけられます。

ひと部屋、ひと部屋と。

そして一番最後の部屋の「禅定の間」に進まれます。




陛下は、その時突然、ある一点を見詰めて佇まれます。

侍従長以下は
「何事があったのか」と足を留めます。


しばらくして、陛下は一人の女の子へお顔を近づけられます。
「お父さん。お母さん」
と、お尋ねになる。

女の子は、二つの位牌を胸に抱きしめていたのである。

女の子が
「はい。これは父と母の位牌です」
と、返事します。

「どこで」

「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。
母は、引き揚げの途中で、病気で亡くなりました。」


「お淋しい」

「いいえ。淋しいことはありません。私は仏の子どもです。

仏の子どもは亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土にまいったら、
きっともう一度会うことが出来るのです。
お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。

そして、そっとお父さんの名前を呼びます。そっと、お母さんの名前を呼びます。
するとお父さんも、お母さんも、私のそばにやってきて、
私をそっと抱いてくれるのです。私は淋しいことはありません。
私は仏の子どもです。」


と答えました。


陛下と女の子は、じっと見つめ合います。


さらに陛下は部屋の中に入られ、
右の手に持っていた、帽子を左に持ち替えられ、
右手を女の子の頭において、撫でられたのです。



陛下は
「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」

と申され大粒の涙をハラハラと流されました。


(続く)
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日本近代化の流れ(41)

2017-01-06 00:00:00 | Weblog

(9) 七月二十九日早暁、通州保安隊は先ず殷汝耕(インジョコウ)を拉致して、通州の日本兵を攻撃してこれを全滅させる。
  それから日本人の大虐殺を始めたのである。

  その無類の残虐さは、米国人ジャーリストが「日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供らの虐殺は、古代から現代を見渡して最悪の集団として歴史に記録されるだろう」(ウィリアムズ『中国の戦争宣伝の内幕』2009年、芙蓉書房出版)と評したほどたった、とその「正論」七月号には記載されている。

(10) 通州に日本軍が駐屯していたのは、義和団の乱による北京議定書で、駐屯が認められていたものであり、左翼勢力からよく言われる様に侵略して駐屯していたものではない。ちゃんとした条約によって、定められた形で日本軍は駐屯していたのである。

その日本人と日本軍が、中国軍により虐殺・侵略されたのである。

(11) もう一つ。通州の保安隊は、通州の日本側の兵力や武器の内容を綿密に精査し、慎重に状況偵察を行い、十二分の兵力でもって一気に襲い掛かったものであった。
  その証拠に、天津方向からの日本軍の救援を防ぐために、通州-天津間の道路を五、六十箇所も破壊し通行できないようにしていた。北京方面は支那軍が駐屯しているので、問題はない。

(12) そして南京政府は7月29日に反日決起を促すの密命を、北支一帯に出していたのである。
   そのため通州以外にでも、天津、豊台、廊坊、順義などでも反日決起が起こっている。

(13) 支那人特有の残虐性
   「今回この通州事件の残虐行為を見ると、やはり支那人の持つ残虐性と言うものを極めて明白に知らしめられるのです。それは殺した相手に対して一片の同情もなく憐みの心もなく、殺すということに、屍体をいたぶるということに、これ以上ない興味を持っているのです。日本人はこうした死んだ人に対して残虐行為を行うということは習慣上ありえないのです。よく南京事件のことどもが問題になり、日本人兵が支那人三十万人を殺戮したというように言われておりますが、このことは全くのデッチ上げであり、妄説であります。これについては東大教授の藤岡氏が極めて明快に論じていられるのであります。更にこの南京三十万虐殺が全くの嘘であるということには二つの面から伺われるのです。

これは浄土真宗本願寺派因通寺住職であった調寛雅(しらべかんが)氏の、東京の教育社から発行されたA5サイズの著書『天皇さまが泣いてござった』の一文である。

(14) 因通寺は、佐賀県三養基郡基山町宮浦815に位置する。
   (https://hakataboy.com/temple.php?dirpath=temple/Saga/MiyakiGun/IntsuuJI/)

   戦後このお寺に戦争被災児救護教養所として、「因通寺洗心療」というものがあり戦争孤児40余名が収容されていた。このお寺はご皇室と縁があり、昭和天皇の全国巡幸の際に、佐賀県では第一番目の行幸地と、ご指定なされている。

佐賀行幸を終え宮中にお帰りになられた昭和天皇は、このときの訪問のことをこう詠まれた。 「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」。この御製(ぎょせい)は因通寺の梵鐘に刻まれている。」(上記URLより。)

昭和24年5月22日、引き上げ孤児四十名を収容した洗心寮で、昭和天皇は、一人の女の子が二つの位牌を胸に抱きしめているのに目をとめ、お尋ねになりました。案の条、二つの位牌は両親のもので、その子は、「父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引き上げの途中病のため亡くなりました。・・・・・私は寂しいことはありません。私は仏の子供です」と立派に答えました。
 天皇陛下はその子の頭に何回もなでておられましたが、そのとき、天皇陛下のお目からはハラハラと数滴の涙がお眼鏡を通して畳のうえに落ちていきました。書名はこのエピソードから取られているのです。


これは先に挙げた株式会社自由社の自由社ブックレット5、「通州事件 目撃者の証言」 (藤岡信勝編著)の12頁に書かれているものである。

さてここで「天皇さまが泣いてござった」の内容を伝えるブログを紹介しよう。
2017年平成29年の正月二日、小生も感涙の涙しながらこれを読んだ。ぜひ皆様にもご一読いただきたい。
(続く)
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日本近代化の流れ(40)

2017-01-05 00:00:00 | Weblog
明けましておめでとうございます。さて、続きを始めますか。
(8)通州事件


第二次上海事変に話題を移す前に、通州事件に触れなければならない。
さてその通州事件とは一体どんな事件であったのであろうか。

通州事件とは、1937(S12)年7月29日に中国の通州で起こった日本人虐殺皆殺し事件である。

通州事件については、当ブログ「通州事件」(2007.5.11、GOOブログ)や「通州事件についての詳細」(2007.10.27、ハテナブログ)にて掲載されているし、かなりショッキングな事件であるので、すでにご承知のことと思う。

しかし今回「正論」(2016.7月号)にて藤岡信勝氏(拓殖大学客員教授)が「民族の受難 通州事件の研究」と題して寄稿し、7月号、8月号、10月号と3回に渡って連載しその詳細を述べられておられるので、その通州事件の実情が詳細に把握できるものである。
(また株式会社自由社の自由社ブックレット5として、「通州事件 目撃者の証言」 藤岡信勝編著、500円 としても出版されている。)

そのためそれらをもとに、ここにその詳細を、紹介しよう。

(1) 先ず通州とはどこにあるのか。
  北京の東20kmほどに位置する当時は城砦に囲まれた街であった。北平は今の北京。
  
http://dogma.at.webry.info/200708/article_3.html より

(2) 冀東(キトウ)防共自治政府とは。
  昭和十年に、殷汝耕(インジョコウ)と言う親日家とされる人物が、国民党の南京政府から離脱して創設した政権で、一万人からなる保安隊と言う武装組織を持っていた。

(3) この保安隊が、国民党軍の教導総隊と共に、「日本人皆殺し」を計画し、実行した。
  教導総隊とは、蒋介石の育てた学生からなる精鋭部隊である。

(4) 通州事件(日本人皆殺し)は、事前に計画されたものであって、単なる暴発的なものではない。
  1937年7月16~17日頃、中国人巡査(のような仕事をする人)が、通州の各戸を回って日本人の戸籍調べをしていた。日本人の住む家にはそれらしい印(しるし)をして回っている。通州では日本人街なるものはなく、日本人はバラバラに住んでいた。
この事件は、突発的に起こったものではなく、何らかの意図のもとに周到に計画されていたものである。

(5) 中国二十九軍の一部が、通州近くの宝通寺に駐屯していた。
  蒋介石軍の中には多数の共産党員が配置されていた。1936.12.12 西安事件により蒋介石は監禁され、北伐(対共産党攻撃)を止めコミンテルンにより反日政策をとらされていた。
そして共産党員が主導するこの二十九軍が、日本軍に威圧的な行動をとってきた。

(6) このため日本軍は、宝通寺より撤退することを二十九軍に要請したが、聞く耳を持たなかった。
  しかも当時の南京放送が「支那軍大勝利、日本軍敗退、日本人全滅」と毎日放送していた。
更には、通州の朝鮮人たちが一斉に日本人の悪口を言いふらして回っていた。通州には険悪な空気が蔓延しだしていた。保安隊は、蒋介石側につく方が利益になると、欲にも駆られて寝返ったものであった。

(7) 通州保安隊と中国二十九軍の宝通寺部隊は、ずっと早くから内通し合っていた。
  事件翌日反撃に出た日本軍が捕獲した保安隊の武器類の中には、中国二十九軍の所属部隊名の書いてある「青天白日旗」があった。

(8) その日7月29日には、通州の日本守備隊は作戦のため通州から出ていた。わずかな手勢しか通州にはおいていなかった。
(続く)
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