世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本近代化の流れ(46)

2017-01-13 00:00:00 | Weblog
日本近代化の流れ(45)

通州で日本兵と語る楽しみ

長い船旅でしたが、支那に着いてしばらくは天津で仕事をしておりました。

私は支那語は全然出来ませんので大変苦労しましたが、でもTさん(沈さん)が仲を取り持ってくれましたので、さほど困ったことはありませんでした。

そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりましたとき、Tさん(沈さん)が通州に行くというのです。

通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私はTさん(沈さん)に従って通州に行くことにしたのです。

通州事件の惨劇02

(削除2)

それは昭和九年の初め頃だったのです。

Tさん(沈さん)が言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。

しかしこの支那人の人達の本当の心はなかなかわかりません。
今日はとてもいいことを言っていても明日になるとコロリと変わって悪口を一杯言うのです。

通州では私とTさん(沈さん)は最初学校の近くに住んでいましたが、この近くに日本軍の兵舎もあり、私はもっぱら日本軍のところに商売に行きました。

私が日本人であるということがわかると、日本の兵隊さん達は喜んで私の持っていく品物を買ってくれました。

私はTさん(沈さん)と結婚してからも、しばらくは日本の着物を着ることが多かったのですが、Tさん(沈さん)があまり好みませんので天津の生活の終わり頃からは、支那人の服装に替えておったのです。

すっかり支那の服装が身につき支那の言葉も大分慣れてきていました。

それでもやっぱり日本の人に会うと懐かしいので日本語で喋るのです。

遠い異国で故郷の言葉に出会う程嬉しいことはありません。
日本の兵隊さんの兵舎に行ったときも、日本の兵隊さんと日本語でしゃべるととても懐かしいし又嬉しいのです。

私が支那人の服装をしているので支那人と思っていた日本の兵隊さんも、私が日本人とわかるととても喜んでくれました。

そしていろいろ故郷のことを話し合ったものでした。

そして、商売の方もうまく行くようになりました。
Tさん(沈さん)がやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。
だから買う人にとってはとても便利なんです。

(沈さん)に頼んでおけば何でも手に入るということから商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。
Tさん(沈さん)も北門のあたりまで行って日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。
私たちはTさん(沈さん)と一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。


(参考用に挿入した。)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-121.html より。

この通州と言う街にはその当時冀東防共自治政府がありました。これは殷さんと言う人が作った政府で軍隊も一万人以上居ったそうです。そして日本に対しては非常に親日的だったので、私も日本人であるということに誇りを持っていたのです。(文章が抜けていたので追記。)

(続く)


日本近代化の流れ(46)



日本の悪口を言いふらす朝鮮人

ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさん(沈さん)が私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。

そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。

私は心の中に不満が一杯だったけどTさん(沈さん)に逆らうことは出来ません。

それで出来るだけTさん(沈さん)の言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん(沈さん)近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。

そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。
何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。
Tさん(沈さん)が私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。

そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。

只、朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです。

私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。

そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。
だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。
いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。

私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。

そこへTさん(沈さん)が帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。
するとTさん(沈さん)はあなたも日本人じゃないかと申したのです。

するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。
日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。
そして安重根という人の話を滔々と語りました。
伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。
我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。

私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。
なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。
こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。

Tさん(沈さん)は黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
でもそんなことを日本の軍隊や日本人は全然知らないのです。

私は早くこんなことを日本人に知らせねばならないと思うけれど、Tさん(沈さん)は私が日本人と話すことを厳重に禁止して許しません。

私の心の中にはもやもやとしたものがだんだん大きくなって来るようでした。

道を歩いているとき日本の兵隊さんに会うと「注意して下さい」と言いたいけれど、どうしてもその言葉が出てまいりません。

目で一生懸命合図をするけど日本の兵隊さんには通じません。
私が日本人であるということは通州で知っているのはTさん(沈さん)の友人二、三人だけになりました。

日本の兵隊さん達もだんだん内地に帰ったり他所へ転属になったりしたので、殆ど私が日本人であるということを知らないようになりました。


信用できない保安隊

そうしているうちに通州にいる冀東防共自治政府の軍隊が一寸変わったように思われる行動をするようになってまいりました。

大体この軍隊は正式の名称は保安隊といっておりましたが、町の人達は軍隊と申しておったのです。

この町の保安隊は日本軍ととても仲良くしているように見えていましたが、蒋介石が共産軍と戦うようになってしばらくすると、この保安隊の軍人の中から共産軍が支那を立派にするのだ、蒋介石というのは日本の手先だと、そっとささやくように言う人が出てまいりました。

その頃から私は保安隊の人達があまり信用出来ないようになってまいったのです。

行商に歩いていると日本人に出会います。
私はTさん(沈さん)から言われているのであまり口をきかないようにしていました。

すると日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が、
「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。

最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。

特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。

私はあまり心配だから、あるときTさん(沈さん)にこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさん(沈さん)はびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。

それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。
(続く)
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