これを受け、日本側もいつまでも「不拡大方針」を続けることは出来ないと判断し、8月15日未明に「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」(膺懲ようちょう、こらしめる)との声明を発表し、第3師団と第11師団に動員命令が下り上海派遣軍が編成され、8月18日、19日と上海に到着しようやく6,300名ほどの戦力となった。しかし蒋介石軍は更に3個師団が追加され7万人あまりの戦力となっていた。
Wikipediaの「張治中」によれば、張治中は当時「南京上海防衛隊司令官」であったが8月15日に記者発表を行い、日本軍艦から上海へ艦砲射撃が行われ中国人への攻撃が開始されたとの偽情報を出している。そのため反日感情が高まり、蒋介石も攻撃命令を出さざるを得なくなった。しかも張治中は、その後の蒋介石の攻撃中止命令も無視して戦闘を拡大していった。このとき日本軍の増援部隊は未着で艦砲射撃は未だ行われていない。日本軍の艦砲射撃は、その増援部隊の上陸を支援するために、8月23日にはじめて実施されたものである。
8月19日以降も中国軍の攻撃は激しさを増し止むことを知らなかったが、我が海軍特別陸戦隊は10倍以上の敵を相手に、大損害を出しながらも日本租界を死守した。それと言うのもこのわずか3週間前の7/29には、北京郊外の通州で日本居留民地区が、蒋介石軍と結託した中国暴民が襲われ略奪・暴行・陵辱・虐殺されていたからである。邦人230名が虐殺された「通州事件」である。
8月21日には蒋介石はソビエト連邦と中ソ不可侵条約を締結した。ソ連は直ちに航空機500機ほどと操縦士、教官を送り込んで蒋介石を支援した。このためソ連が中国にとっての最大の武器供給国であり続けた、とWikipediaにも記述されている。そしてソ連は中国が日本を戦争に引きずり込んだことをこの上なく喜んだと言う。反対に蒋介石は上海での戦火の拡大に落胆し、張治中を共産党員でソ連スパイではないかと疑い9月には司令官から罷免している。
8月23日には、上海派遣軍の2個師団が日本艦船の艦砲射撃の支援の下、上海北部沿岸に上陸に成功。しかしながら蒋介石軍はドイツから支給された優秀な火器とドイツ軍事顧問団支援によるトーチカに立て篭もり、頑強に抵抗した。そして日本軍の数倍の勢力の蒋介石軍は、隙あらばと海軍特別陸戦隊を攻め立てた。
このため8月30日には海軍は、再度陸軍部隊の増派を要請せざるを得なかった。
9月9日には、台湾守備隊、第9師団、第13師団、第101師団に動員命令が下された。
そして日本軍は甚大な損害を蒙りながらも9月上旬までには、上海租界の日本人区域前面からは中国軍を駆逐することが出来たが、日本居留民の安全は、まだまだ完全なものではなかった。
Wikipediaによれば、9月末までの損害は次の通りであった。
第3師団、 死者1,080名、戦傷者3,589名、合計4,669名
第11師団、 死者1,560名、戦傷者3,980名、合計5,540名
一般的に言って師団の勢力は約25,000名と言われている。初期の海軍上海特別陸戦隊の6,300名程度戦力から9月末までにはどれ程の勢力となっていったかは詳(つまび)らかではないが、陸軍の第3師団と第11師団の何名が上海に派遣されたかはわからないが、仮に25,000名の総てが派遣されたとすると、合わせて50,000名の戦力のうち10,209名の戦死傷者を出す大損害となっている。2割を超える損害を出したことになる。
ドイツ軍事顧問団の指揮の下強固な陣地を構築し、更にはチェコ製機関銃やドイツ製の火器を装備した蒋介石軍は、頑強に攻撃してきたため日本軍は思うように蒋介石軍を撃破できなかった。
10月9日には、3個師団を第10軍として杭州湾から上陸させることを決め、第10軍は11月5日に上陸に成功している。上海の南60km程の地点である。
10月10日、上海派遣軍はいよいよドイツの作ったゼークトラインの攻撃を開始する。そして2日間の激戦の末、各所でゼークトラインを突破する。
ハンス・フォン・ゼークトはドイツ陸軍上級大将にまで上り詰めた人物で、第1次大戦敗戦後のドイツ軍備縮小の条約をかいくぐり主にロシアと協定を結びロシア国内でドイツの軍需工場を稼動させた人物である。退役後は、1933年から1935年の3年間にわたり蒋介石の軍事顧問を務め、上海周辺に「ゼークトライン」と称する防御陣地を構築している。ゼークトの帰国後は、共に軍事顧問を務めていたアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将がドイツ軍事顧問団団長となり、中国軍や軍需産業の育成に従事する。1937年の第2次上海事変の作戦計画を作成し実行したのは、この人物である。なぜ蒋介石がこんなことを始めたかは別途記述するが、実質的には国民党軍に潜んでいた共産党員によって引き起こされたものであった。
当時の中華民国とドイツは1910年代から軍事的・経済的な協力関係を強めていた。ドイツは中国からレアアースの「タングステン」を購入し、その見返りに中国軍の近代化と産業の興隆に投資していた。これを「中独合作」と言う。1930年代に入ると「中独合作」は更に進展し、世界恐慌のあおりで中国への資金提供は限りなく細っていたが、中独協定(1934~1936年)により中国の鉄道などの建設か大いに進んだ。これらの鉄道は日中戦争でも蒋介石に大いに活用された。このような流れの中で1935年より中国軍事顧問となったアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンは日本だけを「敵国」と看做して、他国とは親善政策を採ることを蒋介石に進言している。
10年ほど前の第1次世界大戦(1914/7~1918/11)では日本は日英同盟に基いて、ドイツの山東省租借地であったチンタオ要塞をイギリスと共に攻略し、更にはドイツ支配の南洋諸島を攻略している。なお日本軍の評価を高めたものは、この大戦中連合国の要請を受けて、地中海やインド洋に合計18隻の第二特務艦隊を派遣し、連合国の輸送船団の護衛をしたことである。この護衛作戦では、Uボートの攻撃により駆逐艦「榊」が大破し、59名が戦死している。合計78名の日本軍将兵の御霊を守るために、マルタ島のイギリス海軍墓地に日本軍将兵の戦没者のお墓が建立されている、とWikipediaには書かれている。
このように第1次世界大戦でのアジアではドイツは日本に攻められていたのだが、ファルケンハウゼンは多分にこんなことを根に持っていたのであろうか。どいつもこいつもドイツ人は、第2次世界大戦では共に敗戦国となった仲ではあるが、あまり親密に付き合える相手ではない、と思っていたほうが良い。事実この時代日本とドイツとは三国同盟の仲(1936年日独防共協定、1937年日独伊防共協定、1940年日独伊三国同盟)ではあっても、その裏では依然としてこのように中国を支援していたのであった。
(続く)
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