世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

支那事変の真相(15)

2013-02-25 11:17:34 | Weblog

まあ日本もお人よしであった。溥儀なんぞを安易に担いだことが大いなる間違いであったかもしれない。
やるんなら、しっかりと謀反を起こされないように歯止めを作っておくべきであった。ここら辺が日本人がお人好しであることの証拠である。と言っても戦争に負けてしまっては、これも詮(せん、意味、効果)無いことではある。

しかも中国はこの満州事変を「九・一八事変」何ぞと呼ばせて、反日抗日のシンボルとして毎年9月18日を国辱記念日として騒いでいるが、中国には騒ぐ理由が無いのである。

と言うのも、それまで古来より中国は一度も満州を支配したことがなかったのである。柳条湖事件は満州の軍閥の張学良対策であって、蒋介石対策ではない。もともと中国は夷テキ(荻の草冠のない文字)の国として万里の長城以北へは移住しなかった。満州人(女真族)として中国を支配した清国は、満州を「封禁の地」として漢人の移住を禁止していた。だから孫文が、山縣有朋に満州の売却話を持ちかけたのである。だから満州事変は、いわば、中国の近くで起きた事件であって、中国の事件ではないとも言える。そうでなければ、満州の治安を、中国は真剣に維持しなければならなかったのである。事実日本政府は遼寧省政府(張作霖)と共に南京政府(蒋介石)へも、満州の治安維持真剣に依頼していた('13.2.14のNO.9参照のこと)。

満州は清国や中華民国の支配が及んでいなかったので、中原の混乱により流民などが大量に流入した。もともと馬賊・匪賊地帯だった満州は、一層混乱していったのである。日本は日露戦争に勝利しポーツマス講和条約でロシアの満州権益を譲渡され中国もそれを承認していたものであるが、今まで述べてきたように中国側の排日・侮日運動が起こったため、何とか防御・防衛しなければならなかったのである。それが満州国の建国であった。

今一度満州国建国までの事跡を追ってみたい。

(13)
満州事変・満州国建国から塘沽停戦協定へ


1931.9,18 関東軍の柳条湖事件発生、満州平定作戦開始
1931.9.22 関東軍満州領有計画を独立国家案へ変更
1931.9.24 反張学良の有力者達が奉天地方自治維持会を組織
1931.9.26 吉林省臨時政府樹立
1931.9.27 ハルビン東省特別区治安維持委員会発足
1932.1.27 上海市郊外に中国共産党第十九路軍が進出
1932.1.28 第十九路軍が攻撃開始、激戦続く(第一次上海事変
1932.2.-- 奉天、吉林、黒龍江省要人が関東軍を訪問、満州新政府協議開始
1932.2.5 関東軍ハルビンを占領、ほぼ満州を平定
1932.2.16 奉天に張景恵ら四巨頭が集い、東北行政委員会を組織
1932.2.18 張景恵ら、満州の中国国民党政府から分離独立を宣言
   「党国政府と関係を脱離し、東北省区は完全に独立せり」
1932.3.1 四巨頭と熱河省・内モンゴル首脳らの東北行政委員会が満州国の建国を宣言
   清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を満州国執政、新京(長春)を首都
1932.3.1 日本軍背後に上陸、第十九路軍撤退開始
1932.3.3 戦闘中止、第一次上海事変終了(1.28~3.3)
1932.3.-- リットン調査団、派遣される
1932.5.15 五一五事件発生、犬養敦首相暗殺
1932.6.-- リットン調査団、視察完了
1932.6.14 衆院本会議にて満州国承認決議案、満場一致で可決
1932.6.15 日満議定書調印、「満州国承認、既得権益の維持、関東軍駐留承認」
1932.7.17 関東軍嘱託の石本権四郎が、熱河省内にて張学良軍拉致され殺害される
1932.10.2 リットン調査団、報告書公表
1933.1.1 山海関の日本軍守備隊、張学良軍に攻撃されるも撃退(~1.3、略奪し逃走)
1933.2.4 熱河作戦認可される
1933.2.24国際連盟総会、満州国不承認決議採択
1933.2.9 張学良軍が熱河省に攻め入る、
1933.3.4 日満連合軍熱河省を平定するも、執拗攻撃収まらず
   熱河省は満州の一部で山海関に隣接、中国軍は関内のらん東から熱河攻撃
1933.3.27 らん東作戦発令、らん河近辺から熱河への中国軍の攻撃を抑える
1933.3.27 日本が国際連盟脱退を表明(正式脱退は1935.3.27)
1933.5.3 関内作戦発令、日本軍が撤退すると中国軍がらん東に進出するを防ぐ
1933.5.31 塘沽停戦協定締結、満州事変の軍事衝突の停止
  ・中国軍はある1線(ほぼ北京・塘沽線の北方地点)より出ない
  ・日本軍はこれ を確認する
  ・日本軍は確認後長城線まで撤退する
1934.3.1 溥儀が皇帝に即位、満州国・帝政となる
----------- 略
1945.8.15 大東亜戦争終了
1945.8.18 溥儀皇帝を退位する、満州国消滅する



以上の年表を見ると、中国軍は満州国建国後も、執拗に日本軍に対して挑発、攻撃を繰り返していたことがよくわかる。日本居留民への攻撃、虐殺も心配された。南京事件や済南事件を思い起こしてほしい('13.2.14のNO.9参照のこと)。
(続く)
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