世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(80)

2011-05-25 11:04:38 | Weblog

日本軍は、第1軍が確保した安東(九連城など、今の丹東地区)から本渓胡に至る経路、ここには手押しの軽便鉄道を建設中であった。朝鮮半島では京釜線が1904/11に開通し、京城→義州を建設中であった。更には東清鉄道支線の大連→遼陽間に狭軌用に一本線路を1904/9までに追加して利用可能とした。そして第3の補給ルートは営口から遼河の水運を利用するものであった。
これは「日露戦争 沙河会戦と戦機」(http://ww1.m78.com/russojapanese%20war/shaho.html)に詳しく記述されているので参照されるとよい。ロシアはハルビン→大連の東清鉄道支線がシベリア鉄道とつながったのは、1904/9であった。しかしロシア本国から約7,000km、しかもシベリア鉄道は単線であったため、それほど余裕のある能力でもなかったようで、それなりの不便・苦労があり兵站については日本軍の方が有利であったと言う。

そんな中クロパトキンのほかにもう一人将軍、10歳年上のグリッペンベルクが1904/11に派遣されることが決まり、満州軍総司令官クロパトキンは大いに気を悪くした。そのため彼の着任前に日本軍を撃退しておこうと、1904/10/8ロシアから攻撃を開始してきた。ロシア軍の攻撃は、日本軍右翼を攻撃し、日本軍を東から西に包囲しようとする意図であった。日本軍もそれを察知し、右翼の梅沢道治少将率いる近衛後備混成旅団(予備役兵士たちによって構成された2線級部隊だった。Wikipediaによる)を配置させていたが、そこへロシア軍は3倍以上の兵力で攻め立ててきた。しかし梅沢はこの2戦級の旅団を見違えるような戦闘部隊に変貌させていた。しかしこの梅沢旅団と第十二師団第十二旅団第十四連隊は寡兵ながらロシア軍の攻撃に対して必死に反撃し、激闘3時間見事これを撃退することが出来た。しかし翌日は更に大規模な攻撃を受ける。梅沢旅団は再度苦境に立たされるが、援軍が差し向けるまで見事この本渓湖陣地を持ちこたえていた。そしてこの本渓湖陣地が勝敗の鍵を握ると見た第1軍司令官の黒木為 が援軍として派遣した日本騎兵第2旅団は、ロシア軍の側面に回り機関銃で攻撃した。このためロシア軍は大混乱に陥り、退却した。このためクロパトキンの包囲作戦は失敗する。反対に今度は、日本軍の第4軍と左翼の第2軍が、ロシア軍を包囲しようと反撃に出る。しかしロシア軍の反撃も猛烈で、度々日本軍も敗走する。しかし本渓湖での激戦に、ロシア軍が兵を集中させたため間延びし、第4軍が要衝の三塊石山を占領し中央突破を企てたため、ロシア軍は後退し10/18に沙河北岸に撤退する。日本軍は弾薬も欠乏し沙河南岸に陣地を構築して、お互いが塹壕に篭って次の春までの3か月間対峙することとなる。これが「沙河会戦(さかかいせん)」である。

なお本渓湖陣地で奇跡的な奮戦をした梅沢道治少将率いる近衛後備混成旅団は、その奮戦振りから「花の梅沢旅団」と全軍に知れ渡り、その後、後備歩兵連隊を増強され、歩兵三個連隊編成と言う異例の大旅団となった、とWikipediaに記述されている。彼は、それまでは泣かず飛ばずであったが、もともと能力は高くいくさ運びはうまかった。いわゆる逆境に強い人物であったのであろう。しかしもしこの本渓湖陣地がロシアに突破されていたとしたら、その後の展開はどうなっていたか、予測は付かったであろう。ましてや6/15常陸丸が沈められ当てにしていた千余名の将兵の補充もなく、旅順には第3軍が張り付いて当座は身動きできない状況を鑑みると、この「梅沢旅団」の活躍によるロシア軍の包囲作戦の阻止には、相当な意義があったことであろう。何はともあれ、後備旅団を第一線に投入しなければならなかったことは、日本軍もそろそろ手一杯のところまで来ていたと言うことなのか。何はともあれ、梅沢旅団に感謝!

しかし日本軍の最大の危機は、この沙河会戦ではない。次に控える「黒溝台会戦」が日本軍の最大の危機であった。

(続く)
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