世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(83)

2011-05-31 10:17:09 | Weblog

この間ロシア側でも大いなる間違いが発生していた。沈旦堡と間違えてその北に位置する小樹子を攻撃し占領し、沈旦堡攻略をグリッペンベルクに報告しこれを喜んだグリッペンベルクはクロパトキンに電話で報告している。しかしそれが間違いだと判ってからはロシア軍の士気は低下した。しかし黒溝台前面(東南)から沈旦堡にかけては、激戦が続いていた。

そして1/28朝にはロシア軍も疲労が目立ち始めていた。そして日本軍も援軍が戦線を構築し始めていた。日本軍は「明29日」を期してロシア軍を撃破すべく計画されていた。しかしクロパトキンは、日本軍第2軍からの支援砲撃の報告を受け、日本軍中央部隊の第2軍、第4軍の中央攻撃ではないかと憶測をした。もともとグリッペンベルクの第2軍の攻撃には、消極的だった上にこの中央突破の不安に駆られ、1905/1/28の午後4時ごろグリッペンベルクの第2軍に対して攻撃中止と退却を訓電した、と「日露戦争 5」(児島襄のぼる)は述べている。この結果として、黒溝台は第八師団の夜襲により取り戻すことが出来たが、ロシア軍が自ら手放しただけであった。

ここに辺の事情を、司馬遼太郎の「坂の上の雲4」では次のように述べている。

「なるほど大山・児玉は、中央に兵力をほとんど左翼の火事場に移したため、それを敵に気づかれぬように偽装攻撃をわずかながらクロパトキンの中央に対してかけた。この陽動作戦(ともいえぬほどの微弱な攻撃)にクロパトキンの過敏な神経は見事に反応したのである。だから、”ひきあげて来い”と、第2軍10万を率いるグリッペンベルクに命じだのだが、しかし素人が総司令官であってもクロパトキンのような命令は出さないであろう。日本軍がロシア軍中央に攻撃をしかけてくれば、逆にそれに対して攻撃をかければ、紙を突きやぶるような容易さで日本軍の中央を潰乱カイランさせることができたのである。となれば、日本軍は自分の左翼へ駆けつけさせた数個師団を呼びもとさねばならず、それによって左翼の秋山支隊は全滅し、グリッペンベルクは一瀉千里の勢いで日本軍の本営を衝けるところであった。」

この黒溝台会戦は、日本軍53,800人(死傷9,324人)、ロシア軍105,100人(死傷11,743人)と、上記「日露戦争 5」(児島襄のぼる)には記載されているが、火砲などはロシア側が3倍近い兵力を要していたようで、まともに戦えば日本軍に勝ち目はなかった。だからこの危機は日本軍将兵の奮戦とクロパトキンとグリッペンベルクの仲違いによって辛うじて救われたものであり、グリッペンベルクはこの後1/31病気と皇帝に申請して、2/4に帰国してしまった、と「日露戦争 5」(児島襄のぼる)は述べている。

クロパトキンには、日本軍をハルビンまで引っ張り込んで壊滅させると言う案を持ち続けていたために、この退却命令に対しては、それほど残念とも思っていなかった。日本軍もそのことは十分に弁(わきま)えていた。満州軍総司令部の児玉源太郎はハルビンまで引っ張り込まれる前に、次の戦いの奉天(今の藩陽)で決定的に叩いておくことは必須であると認識していた。すでにその作戦計画は彼の手元において成案になっていた、と「坂の上の雲4」は結んでいる。

このように黒溝台会戦は、1905/1/25に始まり、1905/1/29に形の上では終了している。この頃ロシアの首都サンクトペテルスブルグでも、多くの市民がロシア軍によって殺されている。

いわゆる1905年1月22日の「血の日曜日事件」である。(ロシア暦1/9)

事の起こりは、プチロフ機械金属工場の労働者4人の解雇問題に対する抗議行動であった。

当時ロシアでも産業革命が進行し、多くの工場が作られていた。そしてペテルブルグの(日露戦争5児島襄によると)第2青十字孤児院教会兼オリガ救貧院聖書教師として、1900年に司祭ガボンが採用されている。そしてガボンは、ロシア当局の資金援助を得て、労働者サークル結成に乗り出す。これは労働組合ではなく、いわゆる「文化サークル」であった。そのため当局にとっても、好ましいものであったが、それゆえに組織は一万人規模と大きくなって「ガボン組合」と呼ばれるようになる。

(続く)
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