日々草

「つれづれなるままに・・」日々の事を記す。

予定日はジミー・ペイジ

2015-10-31 | リブレリア
「講談師、見てきたような、嘘をつき」


あたしはこの川柳が好きだ。
講談と落語の違いは前者が日時、場所が特定されている物語なのに対して、後者はいつ、どこでおきたかわかんないけど日常のあるあるを題材にしているときいて、その絶妙な現実と空想の加減に膝を打つのであった。

ドキュメンタリーが落語なら
小説は講談であろう。


「小説家 見てきたような 嘘をつき」

夢枕獏然り、浅田次郎然り、よくここまで見てきたように話が進むものだと行間の空白をみて関心する。
食べ物ならその味を、
毛布の手触り
朝の清々しさ
冷笑の冷ややかさから、喜びの声色まで
まさに見てきたように、再現されたイメージはどれもあたしの経験値と重なって、鮮やかに再生されるのだ。



「予定日はジミー・ペイジ」
角田光代のこの小説はまさに小説家の嘘の骨頂だと思う。
あとがきにかいてあったのだけど、著者に出産祝いが次々に贈られてきて、実際に出産してないから贈り物はいりませんみたいなことが書かれていて、「えっ、まさかの疑似体験?」と驚愕した。
恋愛は疑似で、想像でもできなくないかもしれないけど、あんなリアルな妊婦体験ができる小説家という生態に畏怖しか覚えない。
本当に妊娠して、お子様が生まれて、母になったのかと思いました、ワタシ。

恋愛をきっちり描ける小説家は角田光代以外にはいないとなにかのコラムに紹介されていて、恋愛が、家族を作り、子供ができて、物語が繋がれいくのはあまりに当たり前すぎて
恋愛の細やかな心情が描けるのなら、妊婦におこる不安や喜びもきっちり描き出せるのは
当然のこととおもいながら、まさかの想像の産物であったとは。
あたしには子供がいないし、
子供が欲しいという感覚を想像するには難しい状況だから、子供が生まれるということの重さに重責と恐怖しかないのだけど、子供を産むという神々しさと喜びについてしみじみと感じ入ってしまったのだ。
たまたま、周囲の第2次出産ブームと重なったからかもしれないけど。



赤ちゃんのむっちりした腕
つるつるのかかと
ぽんと張ったおなか


産んでいないあたしですら、愛おしいとおもう目の前の生命なのだから
ふうふうと10ヶ月、自分の体内で育み、苦労して生み出す母の慈しみを目の当たりにして目がくらむ想い。


予定日はジミー・ペイジ。





妊娠したことに右往左往する妊婦の目指す、出産予定日は有名ギタリスト ジミー・ペイジの誕生日。
大きなおなかを見るたびに小説家の嘘を反芻する。
こんなに赤ちゃんがいる生活を羨ましく思ったことはないから、せめて母に会いにゆく。
あたしの。
ついでに母になったばかりの彼女に。