「白河の清き流れにすみかねて 元のにごりの 田沼恋しき」
時は江戸、寛政年間
老中 松平定信が行った幕政改革。
その厳しさから大奥、はたまた民衆からも嫌われたようで・・・。
「濁り」があるうちは清流にすべき!と声高に叫ぶが
「清流」になると「濁り」が恋しい。
知識人のコメントやら、世論動向が取りざたされる度に冒頭の川柳を思い出す。
時は平成
改革真っ只中の民主党。
歴史は繰り返す。
さて前例から人は何を学ぶのでしょうか?
先日、TVを見ていたら興味深い内容がありました。
「西宮冷蔵 奇跡の復活」
自社で行われた雪印食品の偽装事件を実名で告発した社長の話。
壮絶とはまさにこのことです。
正しいことをしたのにその代償はあまりに大きなものでした。
偽装を告発することで雪印は倒産。
大きな得意先をなくすことだけでなく自社さえも倒産の憂き目にあう。
主力先はなくなりその他の先にも倦厭されてしまえば立ちいかなくなるのは必然です。
なぜ、西宮冷蔵からお客が去ってしまったのか。
透明度の高すぎる水には住みにくいということなのでしょうか。
ついでにある報道によると市橋容疑者逮捕に貢献した建設会社が窮地にたたされたのだという。
原因は市橋容疑者のような人を雇ってしまったこと。
素性や身元をしっかり確認せず雇用する会社の雇用に問題があるんだそうだ。
確かにこれには一理ある。
白河の清きもいいがそれをもっともらしくいうと正しいことをした人、この場合は情報提供をした人達が嫌な思いをすることになってしまうんだろうかね。
水を浄化する人がいて、濁りを好む人もいる。
濁り水を清流にする方法もいろいろある。
消毒薬を大量につかばキレイな水ができるかもしれないけど生物すら存在できない水なんてね。
それも問題。
清き流れも必要
時には「にごり」も必要なのか。
答えがでないね。