原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

一生に渡り “チャラい女” をさせてもらえない怨念

2017年09月04日 | 自己実現
 先だって、義母が暮らす高齢者介護施設にてケアマネ氏と今後の義母の介護計画を話し合った時のことだ。

 本筋の話がほぼ終了した後に、ケアマネ氏がおっしゃるには……、
 「実は私の父母はずっと仲が悪かったのです。 にもかかわらず父が80代で他界した暁に、何とあれだけ父を嫌っていた母が自己を失う程に喪失感を抱いた様子で、その後の母の介護が大変でした。 特に母の場合、姉ではなく下の娘である私への依存心が強い人間だったため、実質私一人がそんな母の最期を看取るのは大変な作業でした。」

 同様の思いは私にもある。
 我が父の場合、60代との若さで突然死に至った。 我が家の場合“父母の仲が悪い”と表現すると少しニュアンスが異なるのだが。 とにかく、母は扱い易い次女の私にだけは言いたい放題のくせに、父と姉の生まれ持ったDNA素質の独善的態度故に、この二人には言いたい事が何一つ言えず、苦労する人生を歩む姿を私も認識していた。
 ただそれならば、そんな独善父が早死にした事実をこれ幸いと喜び、未だ60代半ばの今後の自分の人生をエンジョイすればよいものを……。  何と実母が採った行動とは、まさにケアマネ氏の御母上同様に、父亡き後周囲に「寂しい」と泣きつく事だった。 (それを “ウソこけよ。何演技してるんだ!”と傍で白けて見ていた私だ。)
 ただ我が家の場合幸いだったのは、父の死時に母が未だ60代と若かった事だろう。 時が数年経過した時点で実母が「あの人(父の事)は早死にするべく運命付けられていたように思う。」と私に対し告白し始めたのだ。  それに応えて私曰く、「父も姉も、母である貴女を苦しめていた事実を私は幼き頃よりずっと傍で見ながら育っている。 そんな貴方が父の死により開放感を得て良いのは当然の事だ。 それを責める人など誰一人いないよ。」と肯定し続けている。


 このケアマネ氏と義母の保証人である私との付き合いは5年程になるのだが、とにかくいつお会いしてお話しても“ツーカー感”が得られる人物だ。
 その大本の理由が分かった気がした。
 要するに、お互いに幼き頃からずっと母親の“心の受け皿”の役割を強要されて育っているようだ。 決してそれを肯定しながらその業を担当していた訳ではなく、(何で下の娘の私ばっかり…)なる母に対する反発心を知らず知らずに蓄積してストレスを溜め込んでいたのだろう。

 そんな私は就職の際、実家も郷里も捨てて単身上京した。 一方でケアマネ氏も専門職に就き自立され、御母上を含めたご実家を去られた様子だ。 (ケアマネ氏の場合、現在尚現職にて活躍されておられる事実が私には羨ましい限りだが。)


 表題のテーマに入ろう。

 世に生まれ出た子ども達の中には、生まれ持って“母より精神的に依存される”運命を背負わされる人生が待ち構えている立場の人間が存在するようだ。
 その種の子供達はその“生業”が運命付けられているが故に、自分を大事にするためにはそんな家庭から逃れねばならない。 それを実行し自立して真面目に仕事に励んでいるにもかかわらず、尚執拗に親孝行を全うさせられる運命にあるような気がする。

 片や、親に“依存心を抱かれない”子供達は一生に於いて自由が保障され、自分勝手に“チャラチャラ”と暮らしているような実感もある。 (米国在住の我が実姉の人生も、まあそんなものだ。 ケアマネ氏のお姉様のご様子は存じないが。)


 ここで余談だが、ネット情報より “チャラい女” の特徴を記した文章を紹介しよう。

 チャラいと言うと尻軽な女性であったりする場合が多く、男性としてはそのような女性に引っかかりたくはないと思う傾向もあります。 そこで今回はチャラい女の特徴をご紹介しましょう。
 服装やヘアスタイルが派手な女性 。
  髪の毛の色が茶色や金髪などといった明るい色であったり、服装やアクセサリーを派手に着飾っている女性は、男性からチャラいという印象をもたれてしまいやすくなります。 これらの特徴は、男性にとって水商売系の女性を連想させやすいためです。 水商売の女性は男性相手の商売ですから、男性のイメージは本命の女性という印象はなく遊び相手というイメージが直結します。
 言葉の遣い方が雑な女性 。
男性・女性や年齢の上下を問わす、言葉使いが雑であったり、敬語が苦手な女性もまた、チャラいと思われてしまう大きな要因です。 た特に女性に対しての男性のイメージとして、美しさを求める傾向は根強くあります。 この美しさの中には言葉の美しさを求める男性も少なくありません。このような男性の女性に対する願望にも似たイメージによって、言葉遣いが雑な女性はチャラいというイメージを持ちやすくなるのです。
 男友達が多い女性 。
女友達よりも男友達と遊んでいる事が多い女性もまた、男性にとってはチャラいというイメージを持ちやすくなります。 交友関係に男性が多い女性は、周囲に自分と同じ男性がいつも存在している事を意識させるため、独占欲が満足できないと言うイメージを持つ事となり、かつ他の男性と浮気しやすいのではないかと言うイメージが働きます。
 最終的に、男友達が多い=遊んでいると言うイメージを持つことになり、そのような女性はチャラいという判断をしてしまうのです。 (以下略。)
 (以上、ネット情報より、「チャラい女」に関する記述の一部を紹介したもの。)


 最後に、原左都子の私見でまとめよう。

 いやはや、どうしたんだ?!?  最後に紹介した「チャラい女」に関するネット情報のレベルの低さは!  (それをわざと狙って引用したのだが。)

 などと言いつつ、私など上記ネット情報の「チャラい女」を地で行っていないか?!?  
 外見は派手。  言葉遣いも雑。  男友達が多い。 
 郷里に行く都度、実母から「派手過ぎ!!」と非難され続ける歴史も長いし…。

 親(特に最後に残る親)の人生最期を看取る役割を親から期待される子どもとは、決して “チャラいキャラ” ではないから頼られてしまうのだろう。
 上記のケアマネ氏にしても私にしても、その期待に応える能力ある子供と親本人が判断したからこそ託される生業任務であろう、との思いもある。

 それにしても、一生に渡り“チャラい女”をさせてもらえない人間とは、幸せなのか不幸なのか?? 今は分からず、仕事(親の介護や死後の後始末)ばかりが降りかかってくる現実を嘆きたいのが本音だ。

「原左都子エッセイ集」の名刺が欲しいと言われて…

2017年09月02日 | 人間関係
 (写真は、私がネット名刺業者ページ上で自分で作成し、業者が印刷した商品を購入した名刺。 個人情報保護のため、あえて不明瞭に掲載しています。)


 上記の「原左都子エッセイ集」名刺は、2弾目の制作品だ。

 1弾目を作成したのは、おそらく既に7,8年前だっただろうか?
 ワード画面か何かで文字を書き込み大本を作成し、市販の名刺用紙を購入して来て自宅のプリンターにて50枚程印刷した。
 その後、「原左都子エッセイ集」表紙の緑の樹の絵柄に合わせ、当時美大受験を目指していた娘に“葉っぱの絵柄”をデザインしてもらった。  印刷した一枚一枚の名刺に、娘にも手伝わせつつその絵柄を描き込んだ、“オリジナル手書き”限定配布ものだった。
 約40数枚を配り、後は記念に保存してある。


 次なる名刺が、上記写真のものだ。
 
 これは200枚印刷したが、現在手元に半数の100枚程残っているということは、既に100枚程を配布したとの計算となろう。

 一体何処で配布したのかと振り返ると、その一例は同窓会会場だったと記憶している。
 同窓会の場で「今現在何をしているのか?」と問われた場合、現役の職業人時代は当然ながらその名刺を配布するのが常だろうが。
 一旦職業から離れた暁に「今何をしているのか?」を証明する手段として、私にとっては「原左都子エッセイ集」を前面に出したいと考えたのだ。  そうして、第一弾、第二弾と「原左都子エッセイ集」の名刺の作成行動を採った。

 メディア方面の人達に配布した事もある。
 何らかの所用の場で偶然出会った報道関係の人物達にも配布した。(NHKや地方放送局、あるいは 芸能プロダクション等々) その反応を語るならば、正直なところ皆無状態。 世の中、そんなものだろう。


 さて、話題を変えよう。

 私の場合「原左都子エッセイ集」の名刺を配布する事に関し、現在に於いては、特に現実世界の知り合いに対しては慎重の上に慎重を期している。

 と言うのも、そもそも「現実世界での知り合い」と「ネット世界での知り合い」とは、大きく隔てて対応するべき人物対象と心得ている故だ。

 「現実世界での知り合い」と一言で表現したところで、これも千差万別だ。
 昨日今日知り合った相手とは、「ネットで知り合った人物」と大差は無いだろう。 それらの人々は私の生き様を知るすべもない故だ。 故に、突然「原左都子エッセイ集」を名刺により知りそれを読んだからと言って、「ああ、こういう奴ね」との感想を抱かれ、嫌なら去って行ってくれれば済む話だ。

 ところが、一旦現実社会での関係を蓄積している相手とは、そうはいかない。


 昨日、とある我が家の御用聞き業者の方から、私のブログの名刺が欲しいと嘆願された。
 これには、数年来のその方との付き合い積み重ねの歴史があるのだ。 
 相手はたかが御用聞きである事には間違いない。 だが、いつも一回の御用聞きタイムに玄関口にて数分であるが必ずや共通項の会話が続いたと言えるだろう。 要するに、確かに私とその人物の人間関係が蓄積されている感覚は私の方にもあったのだ。

 私がネット上でエッセイ集を公開している事実を、昨日初めてその御用聞き氏に伝えるなり。 
 すぐさま返って来たのが、「是非読みたいから、そのエッセイ集のURLかペンネームを教えて欲しい!」との嘆願だった。
 私応えて「有り難いお話ですし、名刺もあるのですが、現実世界の方々に我がエッセイ集の存在を伝えた場合、トラブルが発生する事態も大いに考えられるのです。 と言いますのも、エッセイの題材として現実世界で発生した出来事等の論評もしているのですが、特に身近に発生したトラブルの場合、それを私が書いた事が世に発覚する懸念もあります。 身勝手ですが、そうした場合の軋轢を避けるためにも個人情報を守りたいとの意味合いでも、名刺は差し上げられません。」

 それでも、どうしても私が書いたエッセイを読みたい! と御用聞き氏が訴えて下さった事実には感謝感激だが…。


 同じく世にブログを展開されている数多くの方々にとって、“現実世界とネット世界を別枠で考えるべき” なる同様のご経験は無いだろうか??

 これは、世に発生する社会問題に対する「辛口(毒舌)論評」公開を主眼とする原左都子の立場としての、あくまでも個人的かつ特異的な現象なのだろうか?!?