原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

感情移入が記事の生命の源

2009年02月18日 | 自己実現
 本ブログの前回の記事「ネット友達は成立し得るか?」に対し、3日間に渡りご覧のように多数のコメントを頂戴しました。ここで、この大いなる反響に改めて感謝申し上げます。
 その総数は(筆者である私よりの返答も含めて)30を超過し、おそらく本ブログにおける過去最高タイ記録だったのではないかと思うほどの勢いでした。しかも、皆様との議論の内容が濃厚でもありました。

 これは、ネット上の人間同士の付き合いのあり方に関する皆様の関心の高さを物語るものであり、そのような現状を再認識させていただくことができました。


 さて、今回の某ブログコミュニティのリニューアルには当初少なからず驚かされた私ではありましたが、これがきっかけとなって、原左都子なりのブログライフのあり方を再考する機会を与えていただけたようにも思います。

 自己のオピニオンの公開を趣旨として私は既に1年半の期間に渡り本ブログを綴り続けている訳ですが、「原左都子エッセイ集」が今後どうあるべきか、はたまたその筆者である私は自分の分身とも言えるこの「エッセイ集」に如何なる生命を宿したいのか…、 皆様より前記事に怒涛のごとくコメントを頂戴し、それに返答させていただくことに集中したこの3日間の経験を通じて、この自らの問いに対する現時点での結論が少し見えてきたように思えます。


 私はこの「原左都子エッセイ集」を綴るに当たり、当初より“自分自身が感情移入できる”ということを一番のモットーとしております。そして一記事一記事に生命を宿らせることにより、ブログに「公開力」を持たせる事が可能となると考えております。
 そのためには、テーマの設定から関連資料の収集、そして記事の全体的バランスや文章の展開等の技法、加えて記事の内容の正確さや専門用語の監修作業等々が欠かせません。それら記事作成のすべての過程において自分自身が熱くなって感情移入できないと、記事に生命が宿らないと考え、おそらく皆様の予想をはるかに上回る集中力で一記事一記事を書き上げております。
 (その割には私の能力不足故に、愚作記事ばかり披露させていただき恐縮なのですが…

 時には実際に書き進めていくうちに当初趣旨としたテーマからどんどんずれていき、途中でテーマ自体を変更することもあります。 またある時には、全文を書き上げたもののどうしても満足感が得られず、結果として“没”にして削除することもあります。
 とにかく、結果として原左都子自身が“合格点”を出せない記事は基本的には公開しない方針を貫いております。

 これにより、私は(あくまでも自己満足の世界ではありますが)大いなる達成感を得ております。自己評価による記事に対する点数が高い程、当然ながらその達成感は大きくなります。
 ですので記事を書き上げた後の私はいつも、大なり小なりその達成感がもたらしてくれる満足感に浸れます。これは、ブログを開始して以来、私(この場合の私とは生身の私本人でありますが)が日々を生きていく上での大きな糧となっています。


 今回の某ブログコミュニティのリニューアルへの混乱から派生して、私は本来のブロガーとしての初心に戻る事ができたように思います。
 このブログの一記事一記事を綴り終えた後の達成感そして満足感が味わいたいがために、私は「原左都子エッセイ集」を綴り続けている訳でありまして、それが記事に生命力を与える源となっていることを再認識させていただくことができました。
 この達成感そして満足感を味わう感性や能力を失わない限り、私は原左都子として「原左都子エッセイ集」を今後も綴り続けることでしょう。


P.S.  ブログ記事の公開性の使命は常に心得ておりますので、前回の記事「ネット友達は成立し得るか?」へのコメントも引き続き何なりとお寄せ下さいますように。必ず返答申し上げます。
       
Comments (12)

ネット友達は成立し得るか?

2009年02月15日 | 人間関係
 私は本ブログ「原左都子エッセイ集」を、某ブロガーコミュニティに登録させていただいている。

 先週、39度の発熱で“鬼の霍乱”をしている間に、このブロガーコミュニティが“リニューアル”されシステムが大幅に変更されていて、私は現在大いに戸惑っている最中である。

 その戸惑いの第一点は、「読者登録制度」が廃止されたことである。
 この制度のお陰で、大変ありがたいことに、私の拙いブログに対して現在までに400名を超えるコミュニティ会員の方々から読者登録をいただいていた。そして毎記事毎記事にご訪問いただき、ご覧の通りの内容の濃いコメントを下さる会員の方も少なくない人数であった。
 加えて、それら読者の皆様より心温まるブログの紹介文も沢山頂戴していた。私はこのブログ紹介文に大いに励まされ、ブログを綴る原動力ともなるほどのエネルギーを与えていただいていた。 今回の“リニューアル”により、この紹介文がブロガー本人や読者の方々への承諾もないまま、すべて跡形も無く消し去られているのだ。この措置には驚かされると同時に大いに遺憾な事態である。
 ブログあってのコミュニティであるはずなのに、肝心要のブログに対する「読者登録制度」を廃止したり、ブログ紹介文を断りも無く削除するとは、一体全体如何なる趣旨の“リニューアル”であるのか。


 上記のごとく「読者登録制度」を廃止して、このブログコミュニティが今後何を目指すのかというと、それは“友達作り”なのである。
 今回の最大の“リニューアル”ポイントは、「友達申請制度」を導入したことにあるようだ。
 そしてこの私も既に多くの会員の方々より“友達申請”を頂戴し、私はさらに頭を痛めている。この“友達申請”に対し、Yes か No かの回答を強要するシステムとなっているためである。 そしてYes回答を出して双方が友達の“契り”を交わさないと友達関係がシステム上反映されず、他会員に関する何らの情報も届かないシステムとなったようだ。要するに、この「友達申請制度」を利用したくない会員は形骸会員と化し、事実上コミュニティから“村八分”扱いとなるようである。(申請を頂戴している皆様には大変申し訳ございませんが、現在そのすべてを保留状態とさせていただき未だ返答を申し上げておりません。何卒ご容赦下さると共に、是非直接ブログ本体をお訪ね下さいますように。)
 このように、私のこのコミュニティにおける目指すべき方向と、コミュニティ側の趣旨との間に大きなギャップが生じてしまった現状である。


 さて、そもそもネット上で友達関係が成立するのかどうかについて考察してみよう。 私の場合、ネット上の人との付き合いとはこのブログを通じてのみなのであるが、この経験に基づいて私論を述べさせていただくことにする。

 人間という全人格の中の“一部分”において、それは成立し得るかもしれない。それが証拠に、この私もブログに頂戴する有意義なコメントを通じてコメンテイターの方と議論をさせていただくことにより、その人物像の一部に触れさせていただける思いがする。お会いした事はないけれど、何らかの“繋がり”を感じさせていただくことができる。それは、私の生活の一部分として活力を与えてくれていることも確かである。
 こういった関係が短期間で消え去る場合が多いのがネットというバーチャル世界の特徴であろう。そんな中、私の場合はこの関係が長続きする方々も多く、そこには“友達関係”が成立していると考えてよいのかと思う。

 要するに、たとえネット上とは言え、“友達関係”とはある程度の時間的持続を要するのではなかろうか。すなわち、最初から「あなたとはお友達ね」とか、いきなり「友達になって下さい」という制度にはやはり無理が大きく、違和感を抱かざるを得ない。
 友達とは、仲良しの契りを交わして相手に友達でいることを強要するものではなく、2人でよい関係を創り上げていった結果として、“友達関係”が自然と出来上がってくるものではなかろうか。
 

 それにしても、やっぱり私はバーチャルよりも、肉体も伴っていて五感で相手を感じて受け入れることのできる“生身”の人間との関係の方が好きだなあ。  
Comments (32)

くたばっています…

2009年02月11日 | お知らせ
          本ブログの筆者 原左都子 は



          発熱のためダウンし


          現在、休養中です。





          回復し次第、ブログを再開致しますので、


          今しばらく、お待ち下さいますように。




          皆様もお風邪など召されませんよう


          お気をつけて。



Comments (16)

超ミニの群像

2009年02月08日 | 人間関係
(写真は昨年の秋頃の私。いつも代わり映えのしない“足出し”スタイルでスミマセン…)


 私も昔からミニスカートが大好きな人間である。

 ギスギスに痩せたミニスカートの元祖スーパーモデル“ツイッギー”が世界を一斉風靡した頃から、私もミニスカートに慣れ親しみ、既にウン十年の年月が流れている。参考のため、ツイッギー氏は現在59歳でご健在のようだ。

 私の年齢になると、日頃出歩いている街中を超ミニで公衆の面前を闊歩するのはさすがに気が引ける。そこで私が普段愛用するのは、膝上数センチ程度の控えめな丈のミニスカートに限定される。

 そんな私も海外旅行などに出かけると、周囲の迷惑を顧みず、今尚上記写真位の超ミニ姿を披露させていただいたりする。
 先だってのインド旅行における美術賞の受賞式典にも、超ミニのドレスで出席させていただいた。ホテルを出発前に、受賞当事者である女性の美術家先生が、同行者である私のその超ミニ姿を見るなり、「本気なの???」と唖然とされたものである。(美術家先生、その節はお騒がせ致しました。何事も無く式典が終了し何よりでした。


 話が大きく変わるが、先だって2月6日(金)の朝日新聞夕刊に「雪道新潟 超ミニの謎」と題する、女子高校生の制服の超ミニ現象について取り上げた記事があった。 この記事には真冬の雪道を歩く超ミニ制服の女子高生の後姿の写真が添付されているのだが、そのあわらに露出された生身の太股を見るだけで、寒そうなのと、大変失礼ながら一種の“不快感”で震え上がった私である。

 では、さっそく朝日新聞記事を以下に要約してみよう。
 現在、女子高校生の制服のスカート丈が全国一短いのは“新潟県”であるらしい。女子高生の多くが今も太股をあらわに歩くのを見かね、新潟県内の全高校は、今月一斉に生徒指導に乗り出したと言う。
 ある新潟の女子高生は、男性からのちらちら視線は平気なのだが、同性の視線は気になると話す。そして、「スカート丈が長い女子もいるけど、そういう子は別グループ。一緒に行動するのは短い子」とのことだ。
 “短い”のが定説だった東京でも00年頃から、私立を中心にスカート丈が少しずつ伸びている。学校毎に制服文化が生まれ、多様化が進んでいるのだという。「今の子は、近くの友達におしゃれに見えるかどうかが重要になっている」ということだそうだ。
 「スカート丈が短いのは高校の時だけ」と見る大学教授もいる。「人間には『役割獲得』の心理があり、母親になれば母親らしく見られたいと、それらしい服装にぱっと切り替えるんです。」
 以下は略すが、以上が朝日新聞記事の要約である。


 では、私論に入ろう。

 個人が自由感覚としてのお洒落志向でミニスカートを楽しむのと、女子高校生が集団内で制服のスカートを短くするのとは、まったく異質の意思や感覚に基づく行動であると私は捉える。
 女子高生の制服の超ミニ志向を支配しているのは、集団従属心理に基盤を置く“同調心理”であると私は考察する。 彼女達は自分には似合ってもいないことを重々承知の上での“太股露出”行動なのであろう。その行動で、自分が存在し得る「共同体」創りを精一杯することにより、そこで安穏としたい一種の“生き残り”心理のせめてもの表現なのだと推測する。
 もし私の考察が正しいならば、彼女達のその健気な“生き残り心理”の表現の仕方が幼稚過ぎるがばかりに、自らの“太股”を曝け出さざるを得ない哀れさも漂うようにも思えてくる。
 そんな思春期の壊れやすい少女の心を周囲の大人は“生徒指導”という規律により頭から潰そうとするのではなく、対話により救う手立てを考慮するべきではなかろうか。


 それにしても、今回取り上げた朝日新聞の記事内で「スカート丈が短いのは高校の間だけ」との私見を述べている大学教授の先生、それはあなたの貧弱な人生経験に基づくご自身の勝手な都合や好みで女性を捉えているだけの話ですよ。
 えっ?? 女性とは母親になったら母親らしく見られたい生き物だから、それらしい服装にぱっと切り替える、ですって???

 一体、どこの誰が??? 

 そんな女性、私の周囲には今時皆無ですけどね。
 あなたの周囲にはそういう女性しか存在しないのかもしれませんが、世間一般においては今時そういう女性は少数派ではないですか? そのような一種男尊女卑の思想に基づくコメントを、全国紙である朝日新聞がこれみよがしに取り上げたセンスも疑いますけどね。
 あなた方のように、自分の個人趣味的な女性に対する嗜好を女性に強要しようとする男性が社会において今尚大きな顔をしてるから、今時の女子高生が超ミニ現象に歪んで走ってしまうのではないですか?

 とんでもない話です。 私は個人の自由意思で80歳になってもハイヒールで超ミニを着るつもりでいますよ。 それには日々の体型維持の努力が欠かせないと常々思っています。
 見ようが見まいが、あなた方の勝手なのですけどね……  
Comments (15)

滞った家賃収入

2009年02月06日 | お金
 税務署の確定申告期間が近づいている。
 この私も不動産賃貸収入の所得税の申告を控え、毎年この時期は何となく憂鬱な季節である。

 そろそろ確定申告書の作成に着手しなければと思っていた矢先、当該不動産物件の今月の家賃収入が滞っているのを発見した。
 賃貸料が振り込まれる銀行口座の残高を2月4日に確認したところ、先月末までに入金されているべき賃貸料の記録がないのだ。

 現在入居中の賃借人は、昨年9月に入居した。某企業の“契約社員”として採用されたばかりの独身女性で、転職と共に我が所有不動産物件に転居して来たのだ。
 入居の際の賃貸借契約時に、賃借人が“契約社員”であるとの個人情報は把握していたのだが、勤務先は一応大手企業であるし、保証人も付けているし、まずはトラブルはないであろうと予測していた。


 嫌な予感が私の脳裏をよぎった。

 昨年来の世界の経済不況のあおりで、まさに今現在この日本でも大手企業も含めた民間企業において、“派遣社員”や“契約社員”等正規採用社員以外の労働者の首が大量に切り捨てられている現状である。
 もしかしたら、我が不動産物件の賃借人も、今回の不況のあおりで解雇処分を余儀なくされているのかもしれない。その可能性は大いにある得ると私は推測した。

 こうなると、私のような零細不動産賃貸人にとっては大打撃である。
 昨年9月に入居、そして私の推測どおり職場解雇によりもしも今年1月で退室の申し出となると、賃貸期間はわずか5ヶ月…。こんなに短期間で出入りされたのでは、退入室に伴って発生する費用負担ばかりが賃貸人である私に大きくのしかかってくる。 もちろん賃借人が負うべき費用負担部分もある。だが、現在は不動産賃貸借契約において、賃借人保護の観点から賃貸人の法的立場が相対的に弱くなっていて、賃借人に入居中の大きな瑕疵でもない限り費用負担の大部分は賃貸人が負うこととなるのだ。


 今年の確定申告に備えて、既に私は昨年度の不動産賃貸に伴う所得金額をざっと計算してあるのだが、「基礎控除金額」を控除すると結局納税額は「0」となる。これが何を意味するのかと言うと、私が自己所有不動産を賃貸した結果、儲かった収入額は「基礎控除額金額」(38万円)以下であるということだ。
 昨年も賃借人がわずか9ヶ月の入居で退室し、退入室に伴う室内クリーニング代やリフォーム費用、次の賃借人募集のための“入居促進費”等がかさんだためである。
 「骨折り損のくたびれ儲け」とはまさにこのことである。

 不動産賃貸には“全面借受け”という制度があることを私は重々承知している。この制度を利用すると、賃貸借に伴うすべての手続きを賃貸借仲介会社に一任して賃貸人は安定収入を得る事ができる。ところがこの制度を利用する場合、当然ながら賃料査定は低く抑えられ、退入室費用もボラれる(言い過ぎでしたら申し訳ありません)危険性もあると推測するため、私は利用する気はない。今後共、必ずすべての契約にオーナーである私自らがかかわり、自分の判断を最優先したいと考えている。


 昨日(2月5日)、再び不動産賃貸の銀行口座の残高を確認したら、遅ればせながら賃借人から2月分の賃貸料が振り込まれていた。 賃借人にはまだ引き続き入居の意思はあるものとみなして一応安堵した私である。
 今回は、賃貸料納入遅延を責めることは踏みとどまろうと私は考えた。
 だが、やはり不安感は拭い去れない。この賃借人は、自分の住処を確保するべくやっとこさの思いで2月分の賃借料を工面したのかもしれない。
 来月になれば、ある程度の方向性が明るみになるのであろう。


 それにしても今回の賃借人による家賃滞納によって、この私も現在の深刻な世界経済不況の一端を垣間見た思いである。  
Comments (10)