原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

三越に再び春は来るか

2008年04月06日 | 時事論評
 我が身内は東京日本橋の生まれで、幼少時代を日本橋で過ごしている。近所のお店というと百貨店の三越日本橋本店であったらしく、買い物と言えば日常的に三越本店を利用していたそうで、三越本店の思い出が今なお深いと言う。

 私が現在デパートを利用する機会と言えば、料理の手抜きのためにデパ地下の惣菜売り場をあさり歩く程度で、普段は滅多に訪れない。

 近年のデパートは昔とはすっかり様変わりしている。テナントが多くなっているようで、あの“ユニクロ”でさえ出店している。全体的に薄利多売傾向となり、人員も削減されほとんどが外部委託されている様子で、店員の対応もそっけない。レジではスーパーのような順番待ち方式が採用されているのも、すっかり見慣れた風景となった。全体的に経営の効率化が急速に進められ、昔ながらのデパートならではの高級感や徹底したサービス等の風情がなくなりつつある様子だ。


 話がそれるが、入学式シーズンにもちなみ、デパートでのうれしいハプニングをひとつ披露してみよう。
 ちょうど2年前の今頃の季節の話になるが、我が子の中学校の入学式がまもない頃のことである。学校指定のローファー靴がどうしても我が子の足に合わない。無理して1日試し履きをさせてみたら、かかとの豆が裂けて両足共血だらけである。これじゃあどうしようもないと判断し、デパート(東京池袋西口の東武デパート)へサイズの合う同種のローファーを探しに出かけた。親切な担当者(正職員と思われる。)があちこち当たってくれたが、取り寄せでないと入手できず、しかもその日程が入学式に間に合わない。そこで担当者がおっしゃるには、「インソールで調整してみましょう。入学式までに是非そのローファーを持参して下さい。」 お言葉に甘え、後日当該ローファーを持参し親子で再び靴売り場のその担当者を訪ねた。その担当者は私達親子のことをきちんと憶えていて下さり、インソールの専門家(?)を早速呼び、二人であれやこれやと持参した靴に合わせて下さる。ところが、子どもの靴にちょうど合うインソールが販売されていないのだ。そうしたところ、インソール専門家(?)が大人用のインソールをはさみで切り始めたのだ。そして2枚のインソールを組み合わせ重ねて子どもの足にピッタリ合うように靴の中を仕立て直してくれたのである。さすがのプロ技だ。その腕前に驚くと同時に、デパートならではのサービス精神に直面することとなった。しかも、サンプルのインソールを利用したので代金も不要と言う。子どもの足のサイズ測定から始まり、仕上がりまでの約1時間、2人の担当者が一銭のもうけにもならない仕事にかかりきってくれたのである。そして、入学式に間に合って良かったことを二人して家族のように喜んで下さったのだ。最後は、これからも靴に困ったらいつでも来て下さい、とおっしゃって見送って下さる。親としては涙が出るほどうれしいサービスであった。 デパートのサービス精神が、子どもにとって最高の入学祝いとなった出来事である。(池袋東武デパート靴売り場のご担当のお二人には、遅ればせながらこの場で改めて御礼申し上げます。あれ以来、我が子は足に合う靴を履くことが体の成長にとって重要であることが身にしみて理解できたようです。靴の履き心地に関心を持つ子どもに成長しております。)


 話を表題の三越に戻すが、報道によると、この4月1日に三越と伊勢丹が経営統合し持ち株会社「三越伊勢丹ホールディングス」が誕生した。連結売上高国内最大級のホールディングスの誕生である。ファッションに強い伊勢丹のノウハウを移植して三越が軌道回復を目指す目論みである。営業実績においては伊勢丹に勢いがあり、三越は低迷気味であるため、統合後の営業は伊勢丹幹部が握る、とのことであるが。
 この三越伊勢丹ホールディングスの誕生で、百貨店業界は4強時代に入るらしい。今後は地方の百貨店もこの4強の傘下に入り、百貨店業界の再編、系列化は一層加速すると言う。

 個人的にはデパートはほとんど利用しない人種であるため、関係ないと言えば関係ない話なのだが、消え去りつつある古き良き時代のデパートのサービス精神にも価値はあったような気もするのだが…。
  
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年は取ったが頭は負けん!

2008年04月04日 | 医学・医療・介護
 “年は取ったが頭は負けん”、このタイトルがすっかり気に入っちゃいましたので、朝日新聞記事より丸ごと拝借しました。朝日新聞さん、無断転載をどうかお許し下さいませ。


 さて、3月31日(月)朝日新聞朝刊科学面に同タイトルの記事が掲載された。
 これによると、お年寄りは体力勝負だと若手に負けるが、脳のはたらきは若手に負けていない、そんな事実が京都大学の桜井芳雄教授(心理学)によるネズミの実験でわかったとのことである。

 以下に記事の内容を要約する。
 実験対象は、人間でいえば30~40歳にあたる若手ネズミと80歳くらいの高齢ネズミ。実験内容は“体力”と“脳のはたらき”の「若手」と「高齢」両者間の比較である。
 体力勝負の実験においては両者の体力差は歴然で、明らかに「若手」優位の結果となった。
 一方、脳の実験にはこの研究室独自開発の装置を使用し、脳の記憶をつかさどる海馬に細い針を刺し、脳が何かを思い出すなどして脳神経の信号が検知されたらエサが出る仕組みを利用した。その結果、「高齢」は最初の10分間は1分間に3個しかエサが取れなかったが、エサを出す方法を脳が学習し40分後には1分間に9個のエサを取れるようになった。「若手」も最初の10分間は平均3個で、40分後には同11個という結果となった。脳実験の結論としては、両者の脳のはたらきぶりには体力差ほど大きな差はなかった。
 桜井教授曰く、「お年寄りがリハビリで体力を回復させることは、脳の力を十分に引き出せるようにするという意味でも大変重要だ。」
 

 例えば、脳梗塞で倒れ半身不随になった後、リハビリにより社会復帰できるまでに回復した事例は今や少数ではなく、医学分野においてリハビリの有効性は既に実証されてきている。

 特別な病気をした後のリハビリの有効性に限らず、普段より頭を使えば使うほど脳が活性化されることは周知の事実である。
 私事で恐縮だが、私の半生は日々勉学の積み重ねである。30歳代半ばで修士を取得し、その後も高校教員として教材研究に勤しみ、出産後は我が子のお抱え家庭教師として君臨しつつ税理士試験勉強にも励み、そして現在はほぼ1日置きにブログでオピニオンを綴る日々である。おそらく、平均的一般人よりも頭を酷使してきている人種であろうと思う。頭を使う事が長年の日課となっており、頭が使えない状況になると禁断症状が出てきて落ち着かない気分にさえなる。そんな私でも、頭の老化を実感する今日この頃である。もっと冴えた頭脳が欲しい、維持し続けたいとの願いが常にある。

 加齢と共にどんどんガタがくる体と、しわだらけでよれよれになっていく外見…。気に入らないけれど受け入れざるを得ない。今後更なる加齢と共にますますそのスピードが加速していくことであろう。
 だが、頭だけはいつまでもクリアでいたいものだ。やはり、人間肝心かなめは脳のはたらきである。たとえ、外見の醜さに若い世代から“ババア”と呼ばれ後ろ指をさされようとも、脳のはたらきさえしっかりしていれば世の中相手が誰であれ対等に渡っていける。

 もちろん、脳のはたらきを支えているのは体全体であるため、体を鍛えバランス良く栄養、休養を取り体力を維持することも肝要である。
 「年は取ったが頭は負けん!」この勢いを失わず、脳の活性化に日々精進したいものである。
   
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学校が嫌いで何が悪い

2008年04月02日 | 教育・学校
 いきなり結論から書くが、学校が嫌いな君、大丈夫だよ、安心して。学校なんか嫌いなくらいの人間でないと、将来大物にはなれないよ。 学校に迎合する必要など何もないんだよ。学校が嫌いだという気持ちを今は大切にして。

 先だって、小学校の卒業式での挨拶で学校が嫌いである旨表明した小6の男の子が、卒業式当日に自殺に追い込まれてしまった。何とも痛ましい事件である。
 事件の詳細は把握していないのだが、周りの大人は卒業式の後、この少年に何を言い、何をしたのか。何とか自殺を食い止めてあげられる理解者は周りにひとりとしていなかったのか。 誰だって嫌いなものは嫌いだ。ましてや、まだ小学生の子どもが素直に嫌いなものを嫌いだと言って何が悪いのか。本当に腹立たしくてやるせない事件である。今はただ、命をかけて学校が嫌いであること表明した君の冥福を祈るばかりである。
 

 4月と言えば新しい年度のスタート月であり、学校や職場では新人を向かえ、新たな1年が始まる月である。
 学校嫌いや職場嫌いの人間にとっては、この時期は何とも憂鬱な季節である。

 かく言う私も、学校嫌い、職場嫌いの部類である。 私の場合は、基本的に組織に所属することが苦手な人間である。 組織の何が嫌なのかというと、そもそも集団行動、共同作業が性に合わない。 私は基本的に一匹狼タイプの人間だ。物事を独力で成し遂げたい思いが強い。そういう人間にとって集団や組織からの管理、干渉は足かせでしかない。

 義務教育過程に在籍する子どもを持つ親の立場からも、この4月は憂鬱な季節だ。子ども本人にとってはクラス替えのメンバーが一番の関心事のようだが、親にとっての一番の関心事は子どもの新担任である。担任如何で1年間の明暗が大きく分かれるのだ。
 運悪く担任に恵まれないと、保護者としては1年間が苦労の連続である。我が子の場合、大体3年に一度は“はずれくじ”を引いてくる。この人格でよくまあ教員になったなあ、よくまあ首にならないなあ、という担任に3年に一度は当たってしまう。要するに3人に一人はそういう教員が平気な顔をして教育現場にはびこっているというのが学校の実態なのであろう。 私の年齢になると大抵の教員は私より年下であり、これがまた扱いに難儀する。人生の先輩としての包容力がこちらに要求されるのだ。何分、子どもを人質にとられている身でもあり、担任をあやす、という無駄な労力が1年間の負荷としてのしかかってくる。家庭での子どものフォローも大変な仕事だ。担任の言動を子どもを通じて見聞きしては、子どもの健全な成長のための軌道修正の負担も増える。
 逆に担任が信頼できる人格者である場合は、親としては1年間心底楽をさせてもらえるものである。
 子どもが中学生になっている今はこの負担も軽減されているが、幼稚園と小学校在校中は苦労したものだ。我が子の場合、学校等の集団や組織が嫌いなタイプの子でないのだが、担任はじめ教員のせいで学校嫌いになることを避けるために、親は苦労するものだ。


 話を子どもの学校嫌いに戻そう。

 本当は皆にとって楽しく、有意義な学校であることが一番望ましい。でも、その実現までにはまだまだ時間がかかる。 

 学校が嫌いな君、それでも勉強はしようね。たとえ学校が嫌いでも勉強は大事だ。その後の人生につながる。例えば、大学とは学問を修める機関だ。ここは今までの高校までの学校とはまったく異質の学び舎であり、自分でカリキュラムを組んで自分が学びたいだけ学べる場である。大人になっていくとそんな楽しみもある。だから今、勉強はしておこう。

 学校が嫌いな君、それでいいよ。学校が嫌いな自分を責める必要など何もない。学校が嫌いである自分を認めよう。どうしても学校へ行くことが辛いのなら“不登校”という選択肢だってある。(当ブログの教育・学校カテゴリーの「不登校という選択肢」を参照下さい。)
 学校へ通う期間なんてまだまだ人間としての成長過程で未熟な時期であるし、後で考えたら自分の人生において取るに足りない一時に過ぎないのだ。 
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