原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

何かでしょげた時は“自分を信じている!”事を思い起こそう

2016年06月26日 | 自己実現
 理性で考えると、取るに足りない実につまらない事象であることは十分理解出来ているのに、その出来事が起きたばかりに、後々意気消沈してしまうようなご経験が皆さんにもおありだろうか?

 実は一昨日、この強気で気丈な原左都子がその種の出来事に遭遇してしまった。
 もちろん、発想の転換を試み気を取り直す努力もしたのだが、どうしてもその取るに足りない出来事に頭が拘束され“本業”に身が入らない状態が続いている。
 (昨日公開した「英国EU離脱関連エッセイ」など、よくぞまあ、その心理状態で綴れたものと自分を褒めてやりたい思いだが…)


 本日のエッセイに於いてその「出来事」を公開したいものの、もしかしたら「出来事」の利害関係者が当エッセイ集を読む確率が少しながらあるのだ。(どうか読んでいませんように… 

 そこで、今回は我が30代に似たような経験をしたエピソードを公開しよう。 (参考のため、このエピソードに関しては、本エッセイ集バックナンバーにても披露している。)

 30代後半頃、高校教員をしていた頃の話だ。
 職場の飲み会のおそらく3次会で個人経営のスナックを訪れた。 我々も既に酔っ払っていたことは認めるが、その小さなスナックの先客グループ(会社員達の飲み会のようだが)は、我々に増して泥酔していた事は確かだ。
 その会社員グループの一人の女性が、酔っ払った勢いでグループ内で説教をし始めていた。 その説教の声がどうもうるさい。 (放っておけばよかったものの)こちらとて酔っ払っている勢いで、「“お姉さん”、一緒に歌いませんか?」と私が声を掛けるや否や事件が勃発した。
 “お姉さん”が叫んで曰く、「どっちが“お姉さん”よ! あんたの方が年上でしょうが!! その言葉許し難い、謝りなさい!!」 スナック中に響き渡る大声で、カラオケが一旦中断した。
 当然、スナックのママさんも、“お姉さん”と一緒に来ている会社員の仲間達も、私に「申し訳ないです…」等々と謝ってくれ、私側も「失礼しました…」等々と謝り返すのだが、どうしても“お姉さん”の怒りが収まらない。 結果としては、先に来ていた会社員グループが“お姉さん”を引き連れて店を出る事と相成った……
 酔いが一気に吹き飛ぶ出来事だったが、その後気丈に振る舞いつつも“恐怖心”に苛まれている私を教員仲間達が酔っ払いつつなぐさめてくれたとて、“お姉さん”が一瞬に発した暴言は我が胸に突き刺さったままだった。
 後に考察するに、確かに“お姉さん”の言葉は正論だ。 どっちが年上かは分かったものではない。 ただ自己弁護するならば、一瞬にして感じた女性に関する印象が“お姉さん”だったことは(周囲の対応も含めて)確かなのだ。
 
 あれから30年近い年月が経過し、世は個人情報・プライバシー保護に躍起だ。
 今現在、私があの時出会った女性に“お姉さん”と声を掛けたならば、こちらの法的責任が問われる事は間違いない。 
 それは重々わきまえて現在に至っている。

 話題を戻して、一昨日起った出来事とは決して酒の席にて発生したのではないのだが、私側としては上記の事件を思い起こさせられるべく出来事だった。
 何と言うのか、某営利企業体のメンバーであるあちら側(数人)は独裁政権の下にがんじがらめになっているがごとく、皆が無表情なのだ。 そんな雰囲気を彼らよりも年配者である私が少しでも和らげたいと考え取った行為が、どうやらお節介だったようだ。 
 おそらく相手側は、私が取った態度を今現在も陰で非難していることであろう。 (3本前のエッセイ「悪しき職場……」の冒頭で綴った文章が、今回の事件のヒントになるかもしれない。)


 ところで、昨日「原左都子エッセイ集」編集画面を見たところ、筆者である私が“唸る”バックナンバーが上位にランキングしていた。
 その表題とは、「あなたは自分が好きですか?」
 2011.11.16 公開の当該エッセイの一部を、以下に振り返らせて頂こう。

 原左都子が我が子育てにおいて最重要課題としているテーマとは、「自分の存在を肯定しつつ生きて欲しい」 という事である。   本エッセイ集のバックナンバーにおいて再三公開してきているが、何分我が子は若干(あくまでも“若干”の範疇だが)の事情を持ってこの世に生まれ出ている。  放っておいたら“いじめ”に遭い(サリバンの私が放っておく訳はない!のだが)、「変な子」と後ろ指を指される。 それを背後で感知しては、我が子が他者の心無い言動により傷ついて自己否定に走るようなことのないよう、積極的に対処してきた“お抱え家庭教師”の私である。 その甲斐あってか、どうやら娘は18歳を間近に控えた現時点では基本的に自分の事が嫌いではなさそうだ。
 話題を変え、朝日新聞“悩みのるつぼ”高校生女子の相談に答える形で(現在故人であられる)車谷長吉氏が回答された内容が素晴らしい。 その回答内容から一部を紹介するなら、  早い話あなたに恋人ができたとして、自分を大嫌いだと思っているあなたのことが素敵だと恋する少年がいるかもしれない。 そうしたらあなたは変わらざるを得ないでしょう。 だから悲観することなどない。   人生には様々なことがあるが、自分が阿呆になることが一番大事だ。 阿呆になることの一例として詩や小説を書いてみるとか、流行のお洒落や化粧をして町の中を歩いてみるとかすることだ。
 まさにこの原左都子も“阿呆”の人生を歩み続けていると言える。 ご覧のように、勝手気ままに綴った辛口エッセイ集をネット上に公開し、“踊る阿呆”を実現するべくダンスに興じ、いい年こいて流行のお洒落や化粧をして街を闊歩する日々である。  そんな“阿呆”の私は、そのくだらない趣味を娘の“サリバンお抱え家庭教師”稼業の合間に伝授しているのだ。 これは常日頃学習に切磋琢磨させられている娘が本気で活気付く瞬間でもある。 私の“阿呆”の伝授力こそが、娘の自己肯定に繋がっているとも結論付けられるのだ。
 さてさて、皆さんはご自身が好きですか?   原左都子自身はこんな“阿呆”の自分を自己肯定しつつこの世を生き抜いていますよ~~ ♪ 
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより、一部を引用したもの。)

 
 最後に私論でまとめよう。

 阿呆の私が、阿保なりに自分で綴った過去のエッセイバックナンバーに励まされ、“しょげた自分を励ませる”としたならば、これ程 “ノーテンキ馬鹿” はいない事であろう。
 それでも、私には自ら記したバックナンバーを読んで、今尚“阿呆になれる” 気質が内面に活きている事に安堵する。
 そんな、今尚ありのままの自分を信じられる“私”を肯定しつつ、今後も世と存分にかかわって行きたいものだ!

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