前回の記事「若田さんの帰りを待つ女」において“閉所恐怖症”について取り上げたところ、複数の読者の皆様よりご自身にも同様の症状や“高所恐怖症”らしき症状がある等のコメントを頂戴したため、今回はこの「恐怖症」について改めて取り上げることにしよう。
世には様々な「恐怖症」が存在する。
その一例を挙げると、上記の“閉所恐怖症”“高所恐怖症”に加えて“広場恐怖症”“低所恐怖症”“暗所恐怖症”“先端恐怖症”“身体醜形恐怖症”“疾病恐怖症”“不潔恐怖症”、それから“対人恐怖症”(“視線恐怖症”“赤面恐怖症”)“女性恐怖症”“男性恐怖症”“植物恐怖症”“クモ恐怖症”…… まだまだ存在するかもしれない。
この「恐怖症」とは、ある一定の物や状況に対して“恐怖”に陥る理由がないことを自覚しつつも不安感や気がかりな気持ちが強くはたらき心理学的、生理学的な心身的異常反応を起こす状態を言い、一種の精神疾患と位置づけられている。 その精神症状が日常生活にまで支障をきたすのが「恐怖症」の定義でもある。 また他人から見るとその“恐怖心”が不可解であることが大きな特徴であり、そのような周囲の無理解が当人の苦しさ、辛さに追い討ちをかけるというのが「恐怖症」のさらに厄介な特徴でもある。
生まれ持って“神経質”であることを自覚している私の場合、おそらく「恐怖症」とまでは診断されないであろうものの、子どもの頃より数種の事象に対して“恐怖心”を抱く場面を経験してきている。
例えば、上記にある“不潔恐怖症”的恐怖心などは我が幼き頃より内在していたことを記憶している。 親の育て方等の生育環境等の影響も大きいとは考察するが、子どもが好む“砂遊び”や“泥んこ遊び”等は洋服や身体が汚れることが幼心に我慢ならず、義務感で嫌々ながらこなしたものである。 小学校低学年の頃から、いつもスカートのひだがピシッと入っていないと気が済まなかったエピソードは、当ブログのバックナンバーでも記述させていただいている。
思春期の頃“赤面恐怖症”も経験している。 恐怖症とはそのすべてにおいて共通項があるのだが、気にすればする程その精神状態に取り付かれ、がんじがらめに陥ってしまうのだ。 例えばの話“赤面恐怖症”に陥った元々のきっかけは、ほのかに思いを寄せる異性の相手に見つめられたら恥ずかしいなあと感じるごとくの、何とも可愛らしい感性から発したものであったのかもしれない。 ところがそんな思いはとうの昔に冷めているにもかかわらず、“赤面反応”だけがどういう訳かいつまでも恐怖心の形で残存してしまうのである。
“暗所恐怖症”的症状も若かりし頃に経験している。 皆さんは一点の明かりもない完璧な暗黒空間に閉じ込められたご経験がおありであろうか?
我が学生時代の話であるが、大学附属病院の耳鼻科に於いての実習中にその“一点の明りもない暗室”の密室に数分間一人で入ることとなった。 そこで“暗黒”の世界を初体験した私は、医学的実習をこなす以前の問題として、自分が暗黒の世界に耐えられない精神構造である事実を悟ったものである。
それらの恐怖心の延長線上に、私の“閉所恐怖症”が発症したものと自覚している。
病院嫌いの私は医療機関を受診して専門医による診断を受けた訳ではなく、あくまで自己診断として“閉所恐怖症”を認識している。
事の始まりは、ホルモンバランス的に不安定とならざるを得ない“プレ更年期”の頃の話である。 私の“プレ更年期”の症状が進行するにつれ、世の様々な事象に対する恐怖心が急激に増大していったのだ。
その恐怖心が度を超えて異常であることに気付いたきっかけは歯科医受診であった。 元々歯がとことん悪い私は常に歯のトラブルが多い。 そんな折、歯の詰め物が取れるアクシデントに見舞われた私は歯科医を受診するはめになるのだが、その頃理由なき不安定感に苛まれていた私は、受診する以前よりあの診察台の“拘束感”に恐怖心を抱いていたのである。
「“まな板の鯉状態”恐怖症」とでも表現すればよいのだろうか。 受診中はそこから逃れられない恐怖心に受診以前より襲われていた。
案の定、主治医が歯を削っている最中に私はパニック状態に陥り「申し訳ありませんがトイレに行かせて下さい!!」 これ以上この台に拘束されていたのでは、私は発作を起こして死ぬ!!!と“本気”で悟った私は、全身全霊の力を込めて“解放”を訴えたのである。
それに驚いた若き女性歯科医は私をその場から“解放”してくれたものの、我を取り戻して受診台に戻った私に対して不可解感をあらわにした。その女性歯科医の冷徹な横顔が、私のその後の歯科医嫌いに追い討ちをかけたものである。
前回の私の記事中の“閉所恐怖症”へ同感いただいたコメントを、同年代の“アラゴー”女性より頂戴している。
実はこの私も、その女性がお書き下さった「美容院」でのシャンプー中のパニックも経験しているのだ!! あれも上記の歯科医でのパニック以上に辛かった出来事として今尚忘れえず私の脳裏にあるのだが、それは後日記載させていただくその女性への返答コメントで参照いただきたく思っている。
それにしても、「恐怖症」とは自ら経験することなくしてはまったく“不可解”な事態であろうことは想像がつく。 それ故に、「恐怖症」などとは一生無縁の人生を歩んでいる“強靭な精神力?”をお持ちの人種の皆様の存在は、生来“神経質”な気質を余儀なくされている私にとって羨望の対象である。
その上で「恐怖症」を自ら経験してみると、人間の精神構造の奥深さや、その困難を克服することにより得られる更なるパワーも捨て難いものがあると感じるのも事実だ。 その克服のエネルギーがまた明日の喜びをもたらしてくれるとも実感できるから、とりあえず自分が持って生まれた精神構造を自分自身が受け入れることだよね。
世には様々な「恐怖症」が存在する。
その一例を挙げると、上記の“閉所恐怖症”“高所恐怖症”に加えて“広場恐怖症”“低所恐怖症”“暗所恐怖症”“先端恐怖症”“身体醜形恐怖症”“疾病恐怖症”“不潔恐怖症”、それから“対人恐怖症”(“視線恐怖症”“赤面恐怖症”)“女性恐怖症”“男性恐怖症”“植物恐怖症”“クモ恐怖症”…… まだまだ存在するかもしれない。
この「恐怖症」とは、ある一定の物や状況に対して“恐怖”に陥る理由がないことを自覚しつつも不安感や気がかりな気持ちが強くはたらき心理学的、生理学的な心身的異常反応を起こす状態を言い、一種の精神疾患と位置づけられている。 その精神症状が日常生活にまで支障をきたすのが「恐怖症」の定義でもある。 また他人から見るとその“恐怖心”が不可解であることが大きな特徴であり、そのような周囲の無理解が当人の苦しさ、辛さに追い討ちをかけるというのが「恐怖症」のさらに厄介な特徴でもある。
生まれ持って“神経質”であることを自覚している私の場合、おそらく「恐怖症」とまでは診断されないであろうものの、子どもの頃より数種の事象に対して“恐怖心”を抱く場面を経験してきている。
例えば、上記にある“不潔恐怖症”的恐怖心などは我が幼き頃より内在していたことを記憶している。 親の育て方等の生育環境等の影響も大きいとは考察するが、子どもが好む“砂遊び”や“泥んこ遊び”等は洋服や身体が汚れることが幼心に我慢ならず、義務感で嫌々ながらこなしたものである。 小学校低学年の頃から、いつもスカートのひだがピシッと入っていないと気が済まなかったエピソードは、当ブログのバックナンバーでも記述させていただいている。
思春期の頃“赤面恐怖症”も経験している。 恐怖症とはそのすべてにおいて共通項があるのだが、気にすればする程その精神状態に取り付かれ、がんじがらめに陥ってしまうのだ。 例えばの話“赤面恐怖症”に陥った元々のきっかけは、ほのかに思いを寄せる異性の相手に見つめられたら恥ずかしいなあと感じるごとくの、何とも可愛らしい感性から発したものであったのかもしれない。 ところがそんな思いはとうの昔に冷めているにもかかわらず、“赤面反応”だけがどういう訳かいつまでも恐怖心の形で残存してしまうのである。
“暗所恐怖症”的症状も若かりし頃に経験している。 皆さんは一点の明かりもない完璧な暗黒空間に閉じ込められたご経験がおありであろうか?
我が学生時代の話であるが、大学附属病院の耳鼻科に於いての実習中にその“一点の明りもない暗室”の密室に数分間一人で入ることとなった。 そこで“暗黒”の世界を初体験した私は、医学的実習をこなす以前の問題として、自分が暗黒の世界に耐えられない精神構造である事実を悟ったものである。
それらの恐怖心の延長線上に、私の“閉所恐怖症”が発症したものと自覚している。
病院嫌いの私は医療機関を受診して専門医による診断を受けた訳ではなく、あくまで自己診断として“閉所恐怖症”を認識している。
事の始まりは、ホルモンバランス的に不安定とならざるを得ない“プレ更年期”の頃の話である。 私の“プレ更年期”の症状が進行するにつれ、世の様々な事象に対する恐怖心が急激に増大していったのだ。
その恐怖心が度を超えて異常であることに気付いたきっかけは歯科医受診であった。 元々歯がとことん悪い私は常に歯のトラブルが多い。 そんな折、歯の詰め物が取れるアクシデントに見舞われた私は歯科医を受診するはめになるのだが、その頃理由なき不安定感に苛まれていた私は、受診する以前よりあの診察台の“拘束感”に恐怖心を抱いていたのである。
「“まな板の鯉状態”恐怖症」とでも表現すればよいのだろうか。 受診中はそこから逃れられない恐怖心に受診以前より襲われていた。
案の定、主治医が歯を削っている最中に私はパニック状態に陥り「申し訳ありませんがトイレに行かせて下さい!!」 これ以上この台に拘束されていたのでは、私は発作を起こして死ぬ!!!と“本気”で悟った私は、全身全霊の力を込めて“解放”を訴えたのである。
それに驚いた若き女性歯科医は私をその場から“解放”してくれたものの、我を取り戻して受診台に戻った私に対して不可解感をあらわにした。その女性歯科医の冷徹な横顔が、私のその後の歯科医嫌いに追い討ちをかけたものである。
前回の私の記事中の“閉所恐怖症”へ同感いただいたコメントを、同年代の“アラゴー”女性より頂戴している。
実はこの私も、その女性がお書き下さった「美容院」でのシャンプー中のパニックも経験しているのだ!! あれも上記の歯科医でのパニック以上に辛かった出来事として今尚忘れえず私の脳裏にあるのだが、それは後日記載させていただくその女性への返答コメントで参照いただきたく思っている。
それにしても、「恐怖症」とは自ら経験することなくしてはまったく“不可解”な事態であろうことは想像がつく。 それ故に、「恐怖症」などとは一生無縁の人生を歩んでいる“強靭な精神力?”をお持ちの人種の皆様の存在は、生来“神経質”な気質を余儀なくされている私にとって羨望の対象である。
その上で「恐怖症」を自ら経験してみると、人間の精神構造の奥深さや、その困難を克服することにより得られる更なるパワーも捨て難いものがあると感じるのも事実だ。 その克服のエネルギーがまた明日の喜びをもたらしてくれるとも実感できるから、とりあえず自分が持って生まれた精神構造を自分自身が受け入れることだよね。
今度は茨城県へ出張だったのですね。
きっと、単身生活でますますお料理の腕前を上げられたことでしょう。
携帯電話で「原左都子エッセイ集」を相変わらずお読み下さっているとのこと、大変うれしく思います。
uba3さんも引き続きお身体に気をつけつつ、またご訪問下さいね。
2週間前に一年ぶりで2度目の出稼ぎから自宅に帰って来ました。
去年は同じ時期に千葉県に3ヶ月出稼ぎに行き
今年は茨城県に4ヶ月間行ってました
引き続きブログの記事は、毎回楽しみにしていて
携帯電話で読んでます
これからも身体に気を付けて
ほどほどに頑張って下さい
局部麻酔の場合、意識があるため恐怖心をそそられますよね。
isseiさんがご経験された「目」の手術に思いを馳せるだけで、その恐怖心たるもの、この私にも想像がつきます。
視覚に訴える恐怖心とは物凄いものがありますよね。
とにかく、ご無事で何よりでした!!
我が仲間の医学関係者にもそういう人物が存在しておりまして、ほんの少量でも採血すると青白い顔をして寝込んでいたことを思い出します。
「血液採取」と「点滴」とは体に針を刺すという点では共通していますが、その内容はまったく異質なものですので、恐らくドカドンさんの場合「点滴」ではショック状態は起きないと思います。
もちろん今後共主治医の指示に従って、健康を維持して下さいね!
私の恐怖心体験は自慢できるものではありませんが、数年前、まぶたに脂肪が溜まり、それを部分麻酔でメスで切除手術したときです。目が見えている状態で目の付近を切られるのは、怖かったです。べってにしがみ付きました。体は看護師さんが両サイドから押さえつけていました。メスを入れた途端に血が吹き出て目の前が真っ赤になるのは怖いです。恐怖の極限は失神なんだと思いますが、まだその経験はありません。このような事を考える時に人間の脳の不思議を考えずにはおれません。
病院で打ってもらう「注射」で、「血液採取」など、最悪です。
顔面が蒼白になり、気分が悪くなります。
40代後半だが、献血は、高校時代に一度っ切りしただけで、全てパスしてきました。
点滴など、誰があんな恐ろしい物を考え付いたのやら?
針を体に入れ、30分も40分も・・・、考えただけでも気分が悪い。(点滴経験はあります、「病気を治すため仕方がない」とあきらめています)
ただ、検査用の「血液採取」だけは、恐い。