原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

PTAが“任意参加団体”である事を保護者は知ってた??

2012年04月12日 | 教育・学校
 表題のごとく本来学校のPTA組織とは、法的には全員強制加入ではなく“任意加入”団体の位置付けにある。

 それしきの事を、元々法学履修経験がある原左都子としては当然の事として心得ておくべきだったと今さらながら悔やまれる。 うかつにもその事実を認識したのは、我が娘が高校卒業直前の1ヶ月程前に見た朝日新聞記事に於いてであった。


 娘が幼稚園に入園以降、小中そして高校を卒業するまで、我が子の育児教育に関して一番苦手な対象だったのが「PTA」の存在だった。
 学校が主催する(特にクラス単位の)「保護者会」の出席も苦手で、高学年になるにつれ出席回数を減らしつつ中学高校においては数える程しか出席していない。

 要するに原左都子の場合、自分の意思に寄らない保護者との中途半端な付き合いを他者から強制されることに大いなる抵抗感があるのだ。 同様に近隣や地域等、単に住む距離が近いとの理由のみで“仲良くしろ!”と外圧により強要される事態にも嫌悪感を抱いてしまう。(人道上の常識として、挨拶はしますよ。) 
 もちろん、保護者の方の中には気の合う相手もいた。特に子どもが小さい頃程親子の距離が近いため、子どもを通じて知り合った保護者の方と意気投合して一時仲良くする時代は私にもあった。
 子どもの成長につれて親子の距離感が自然と遠ざかっていくものだが、それにもかかわらず見知らぬ親同士を学校に集めて「懇談会」へ出席させられたり、「謝恩会」パーティ等の学校行事に強制参加させられるのには辟易とした。

 原左都子が何故その種の会合が苦手かと言うと、それは現在の人間関係の希薄化現象、及び個人情報保護の観点が大きく影響を及ぼしているものと考察する。
 他者より強制された場に同席した不特定の相手と会話する場合、どうしても上記の“障壁”により会話内容が限定されざるを得ない。 差し障りのない会話内容を吟味しつつ挨拶程度の会話を交わすしか方策がない。 それでもバランスが取れているとの感覚が持てる相手とは希薄な会話も時間内において続行可能であるが、今の時代、その種の無難な会話を一切受け付けない保護者が存在するのも現実である。 あるいは(特に子どもが幼少時代は)初対面であるにもかかわらず自分の事を一方的にしゃべくりまくるバランスが取れない保護者も存在して、これに応じ聞き役を全うしつつも閉口させられたものだ。
 学校PTAのごとく不特定多数人種の集合体である集団内に於ける人間関係の構築とは実に困難であることを、我が子の教育上実感させられ続けたのが事実だ。


 さて、PTAは本来「任意加入団体」であるとの記事を呈示した朝日新聞が、3月25日朝刊に於いて、その続編の形で「(PTA)非会員の行事参加に課題」と題する話題を再び展開した。

 その題名のみ見た原左都子の感想とは、学校PTA側が法的に“PTAとは任意加入”である事に基づきもっと昔から「非会員制度」を積極的に導入してくれていたならば、私は絶対「非会員」を貫いたのに……、と残念無念な思いである。 それは上記のごとく学校行事に参加したくないからこその理由である。
 
 ところが、現在“PTA非会員”を希望している保護者の大勢は、何故か学校行事には親子共々参加したいとの意向のようだ。
 その辺の保護者の論理が原左都子には理解不能なため、早速上記3月25日付朝日新聞記事を以下に要約して紹介しよう。
 “PTAは任意加入”の原則に沿って昨春から入退会を自由にした岡山市に位置する公立小学校の事例を紹介する。 PTA会費を年2回に分けて集めたところ、前期は94%、後期は87%の家庭が納めた。 ところが、非会員希望者の中に「PTA行事に参加できるか?」との質問を呈示する保護者も存在したようだ。 
 それに対するPTAからの回答も賛否両論分かれたようだが、要するにこの議論の根源とは「PTA会費」にあることに原左都子は気付かされたのである。

 いやはや、PTA任意加入の記事の趣旨とは現在のこの国の市民の生活難を反映するがごとくの「お金」にまつわる話題だったことに、今回の朝日新聞記事で初めて認識した私である。
 そうであるとすれば少なくとも公立学校義務教育課程においては、PTA行事に参加したい児童生徒には参加できる機会を与えてあげるべきに決まっているではないか。
 原左都子のように、保護者側の我がまま思想で「PTA活動」は任意とするべきだと訴えている訳ではなかったのね…


 まあそれにしても、私学のPTA会費とは半端な額ではないことも確かだ。
 我が子が中高時代に通っていた私学の例を挙げると、年間にして数万円の会費負担であった。(原左都子の試算によれば学内PTA総額は年間数千万円に及ぼう!!)  その会費の家庭へのフィードバックの一例を示すと、「こどもの日」の柏餅、夏の頃の「ほおずきの鉢植え」、節分の「豆菓子」、3月のひな祭りの「節句菓子」、そして桜の季節には「桜餅」、卒業式には「紅白饅頭」等々……
 娘の話によると、私立中学1年生の頃よりこれらを学校から配られると「これは親のお金で成り立ってるよ!」と教師に訴える生徒もいたらしい。 私は「そう言った子の親はしっかりしてるよ」と娘に返答しつつ、「まさにその通り!」と応じたものである。 その後これらの“ご褒美”が学校から配布される度に、それは親の経済力で成り立っていることを我が娘に教育してきている。

 話題を変えるが、我が姉が数十年来米国に居住している。
 その姉の話を見聞するに、米国の義務教育課程におけるPTA活動とは至って合理化されているらしい。 例えば、姉が居住する米国某州の場合、十何歳か以下の子どもを外で一人で歩かせる事は法的に禁止されているとの厳しい現実のようだ。 それに対応するため親は我が子を学校に送り迎えする義務があるのだが、その親の義務に関して米国某州の学校PTAでは「時間制」との合理的方策が採られていると見聞している。 すなわち、仕事で多忙な親同士で日替わりで助け合って子どもを学校に送り迎えする等により個々の親が時間点数を積み上げて、子どもの卒業までに保護者個々に課せられている「時間」総数最低限をクリアするのが条件とのことだ。


 我が娘が既に大学に入学してくれている現在に於いて学校PTAの存在など二の次でよいのだが、朝日新聞記事を読んで尚、学校PTAとは様々な意味で鬱陶しい存在であることを実感させられる。
 上記朝日新聞2度目の記事のまとめに、「PTA活動とは保護者がボランティアでするもの」との記述があった。
 この見解を読んだ原左都子は大いなる反発心を抱かせられた。 その思想の背景とは、(子どもが学校にお世話になっているんだから、親はそのお礼として奉仕活動をするべき)との論理なのだろう。  学校教育が義務化されている現状においては、好む好まざるにかかわらず保護者は子どもを義務教育課程に入学させねばならない。 学校に子どもの世話を任せたい保護者もいれば、原左都子のように自分自身での教育指導を主眼としつつ、義務であるから仕方なく弊害も大きい学校現場へ心を鬼にして子どもを通わせた保護者もいるのだ。 

 それにしても学校PTAの存在がそもそも“任意加入団体”であるのならば、これ程国民の多様化が進展した現在において、その法的事実を(その会費が払えない市民には国や自治体が別枠で対応しつつ)全国民にもっと徹底し、PTA参加を各家庭の自由裁量とするべきではないのか!?? 
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