長年この世に生きていると、天才文豪・思想家ドストエフスキーのファンと出会うことがたまにある。
その一人が、我が亭主なのだが。
我が亭主に関しては、本エッセイ集バックナンバーに時折小出しにしているが。
亭主の本業は、物理学研究者である。 過去にネイチャー論文も提出したとの業績のある人物なのだが。
この亭主が、ドストエフスキーファンであることを私は見合いの席にて最初に聞いた。
見合いと言えどもお互い既に40歳前後の年齢に達していたこともあり、見合いにて知り合った後は二人で飲み屋で語り合う機会が多かった。
その際にお互いの学問上の共通趣味である、「量子力学的実在論」や「プラトン哲学」の話題が出た合間に、亭主が「ドストエフスキーファン」であると言う。
亭主が何故ドストエフスキーファンになったのかと言うと、高校時代の家庭教師だった東京外大生(男性)の影響を大きく受けた結果だと語ったものだ。
この東京外大生、亭主から聞くところによるとどうやらご本人が“天才肌”だった様子だ。 物理学にも詳しかったようで、この人物の恩恵により我が亭主は大学にて物理学を専攻し、その後物理学研究者として成功できたと言って過言では無かろう。
そして、今回の話題であるドストエフスキーに関しても、当該東京外大生より大きな影響力を受けたとのことだ。
最近の話題に移ると。
亭主が言うには、そのドストエフスキーが実は「てんかん」を患っていたらしいのだ。😲
そして亭主付け加えて、「どうやら天才が『てんかん』を患っている事例が多いらしい。」
そう言われてみると。
この私も、子供の頃は“天才肌”だったかもしれないなあ。 幼稚園4歳児の時点で園で受けたIQ検査にて、園創設以来最高得点であるIQ168を記録したし。😁
ただ、私は“てんかん”は患っていないぞ!😶 😷
ここで、ネット上で見つけたドストエフスキー・てんかん説の一つを引用しよう。
てんかん発作は脳内の神経細胞網に異常な電流が流れて起きる症状。脳をもっている限りどんな人にもてんかん発作は起こり得る。「人間はてんかん発作を起こす生き物である」と定義したてんかん学者もいるそうで、全人口の10%程度が、自覚はなくても、誰でも一生のうちで一回以上はてんかん発作を起こすと推定されている。 重いものでは意識を失うことも多く、ムイシュキンがラゴージンのナイフを見てホテルの階段で起こした発作やマルファが目撃したスメルジャコフの発作がこのタイプ。
一方、部分てんかんは局在関連てんかんとも呼ばれ、脳の特定の場所から異常放電が起こる。場所とその広がり方によって、さまざまな症状が現れる。(中略)
てんかんの診断は、脳波ではっきりするが、発作はいつ起こるか予測できないものなので、発作の起きる時をねらって脳波を記録することはできない。
ドストエフスキーほど、自らの記録や目撃証言が後世に残っている著名人は他にいない。なによりも、作品の中で多くのてんかん者を描いた。てんかん学者や神経科医がドストエフスキーに注目するのは当然のことだ。
ドストエフスキーのてんかん
子どものころの病歴は、弟のアンドレイの回想にわずかに残るだけ。「フョードルは、これといった原因もなしに喉頭の病気にかかり声が出なくなった。病気はかなりしつこく、あらゆる方法が試みられたが効き目はなかった。この病気の跡がふつうよりも奥のほうからだす声に残った」と回想している。
下級生だったコンスタン・トルトフスキーは、回想記に1849年(逮捕の年)にドストエフスキーが来て泊まったとき、「もし昏睡状態になっても三日間は埋葬しないでほしいと頼まれた。昏睡状態に陥るかもしれないという思いが、たえずかれを不安にさせ、おびやかせていたのである」と書いている。
ドストエフスキーのてんかん発作の最初の目撃証言とされる記述を、工兵士官学校の友人グリゴローヴィッチが回想に記している。「かれといっしょにトロイツキー横丁を歩いていて、葬式の行列に出会ったことがある。ドストエフスキーは急いであとに引き返そうとしたが、数歩も行かないうちに発作に襲われてしまった」(1844~45年ごろ)。
同じころ、ドストエフスキーを診たヤノーフスキイ医師の回想記には、当時のドストエフスキーの風貌が医師ならではの正確さで描写されている。また、「彼は特別な頭痛をともなった眩暈がすると言い、それを卒中の一種と思いこんでいた。神経症の現象が幼年時代からしばしば現れていたという話をたびたび聞かされていたので、彼の体質や体格を考慮に入れて、神経症の一種にちがいないと想像していた」と書いている。 ヤノーフスキイ医師は1847~1849年の間にドストエフスキーの発作を3回目撃している。ドストエフスキーは、しばしば主として脳や神経系の病気や精神病関連の医学書を借りていったと回想している。
シベリア時代の記録として残っているのは、1854年にオムスクから兄のミハイルにあてた手紙の中に「ぼくはよく病気になって入院しました。神経の不調のためにてんかんが起こったのですが、しかし、時たまです」とある。
重要とされる記録は、1857年12月16日、シベリアの第七歩兵大隊の医師エルマコフ が作成した診断書で、「1850年の初てんかん発作以来4か年間、発作の都度治療を受けたが、依然おさまる気配がない。このゆえに勤務続行は不可能と認める」とある。
その後のドストエフスキーの生涯についてはおおまかには次のとおり。
最初の結婚(1857)、ペテルブルグに戻って雑誌「時代」創刊(1861)、妻の死・兄の死(1864)、二度目の結婚(1867)、外国旅行(1867~1871)、スターラヤ・ルッサに滞在(1872~1875)、ペテルブルグに戻って「作家の日記」創刊(1874)、エムスでの療養(1874~1879)、呼吸器疾患による死(1881.1.28)。
ドストエフスキー自身が残した記録のほとんどはメモ程度の短いものだが、その中にめずらしく長いものがある。それは、複雑部分発作の代表的症状の一つとされる自動症の記録だ。 自動症というのは、無意識のうちに様々な動作を行ってしまう症状で、てんかん患者にみられる症状。ドストエフスキーは後世の研究に資するために記録したのだと思いたくなる。
(以上、ネットよりドストエフスキーの“てんかん”に関する記載を引用したもの。)
てんかんは、主に「脳波」検査により“てんかん波”が出現することが確定診断となるようだ。
幼少の頃“天才肌”だった(!??)この私も、一度脳波検査を受けてみるのもいいかも??!?