(冒頭写真は、原左都子2度目の大学にて受講したA先生による「自然科学概論」の講義ノートより転載したもの。)
哲学者A先生による「自然科学概論」の講義は、中世ヨーロッパへ移ります。
最初に、用語の説明をしておきましょう。
エピステーメー とは。
エピステーメー(英:episteme, 仏:épistémè)とは、ギリシャ語で「知」や「認識」を意味する用語です。 フーコーはこの用語を「ある時代と社会における知の枠組み」として用いました。
フーコーの議論は『言葉と物』(1966)で提示されたものです。やや乱暴な言い方が許されれば、この著作は西欧史において人間が世界をどう理解したのかという認識論を扱っており、フーコーを一躍有名にした代表的な研究の一つです。
その際に登場する概念が「エピステーメー」ですが、この概念は科学史における「パラダイム」という用語と混合されがちですので注意が必要です。
(ネット情報より引用したもの。)
それでは、A先生の講義に入りましょう。
エピステーメーは、scientiaと訳された。
予測性は重要ではなく、原因を挙げて説明することを重要視した。
四原因説により説明するのが科学。
光学 optic、機械学muchanics、天文学は、無条件には科学でなく、低い位置づけにあり、“中間科学”と呼ばれた。
天文学情報こそが貴重であり、必要だった。
星表、 アストロラーベ論、 『アルマゲスト』などが存在したが、
あまり真面目に取り組んだようではない。
ヨーロッパのArts学部に 自由七科があり、この中に天文学が位置した。
この天文学の中で何を教えたか?
教科書『天球論』Johannes de Sacrobosco (John of Holywood 1230-1255)
教科書『天球論』Johannes de Sacrobosco (John of Holywood 1230-1255)
これはエレメンタリーな本であった。
これに対し、『惑星論』は付加的な教科書であり、現在でも400冊以上保存されている。
参考だが、『アルマゲスト』は40冊以下しか保存されていない。
アラビアの天文学に比してレベルは低く、大天文学者も存在しない時代だった。
そのままの状態で近代へ突入する。
何故、ヨーロッパ近代が始まったか?
これに関しては、イタリア・ルネッサンスとの関係が不可欠であり、
科学革命に繋ぐ接点になるような人物の存在が不可避だった。
それこそが、レオナルド・ダ・ビンチ。
ルネッサンスでは教会か世俗かが問題となるが、世俗権力こそがパトロン的役割を果たした。
そこでは、人間中心的な見方が出て来る。
人間の活力が高く、好奇心が強い時代だった。
発見の時代、新大陸の発見であり、経済的投機がなされた。
「科学革命」と古代の再発見がどう結びついているかにつき、
プラトンは『ヘルメス文書』を記した。
そこに、エピクロス、ルクレティウス も加わってくる。