昨日最高気温が34℃まで上昇した東京地方では、予想通り本日気象庁より“梅雨明け宣言”が発表され、いよいよ真夏の到来である。
毎年この季節になると騒々しく聞こえてくるのが、自宅に程近い小学校のプールからの児童達の歓声と教員の指導の叫び声の喧騒音である。(バックナンバー「先生、落ち着きましょうか」を参照下さい。)
ところで、我が子は6年間(幼稚園も含めると9年間)にも及ぶ公教育におけるプール指導の甲斐もなく、結局泳げずじまいである。
そういうこの私も、海の近くの出身のため子どもの頃は毎夏海水浴を楽しみ、中高生の6年間においては全員強制でプール指導を受けたにもかかわらず、“背泳ぎ”しかできない。(ただし、まっすぐには進めない。トホホ…)
なぜ“背泳ぎ”なのかと言うと、腹ばいになったら浮けないからである。 顔をつける“バタ足”のみは出来るのだが、どういう訳か顔を水面から上げた途端に全身が沈み始めるのだ。 そこで思いついたのが、仰向きに浮くことである。この発想が大正解で、とりあえずは浮けたため“背泳ぎ”一辺倒でプール指導を凌ぐことになる。
高校のプール指導修了時に、生徒全員がプールの中に“ぶち込まれ”何の泳ぎでも何時間かかってもいいから底に足はつけずに25mの対岸へ“生還”する課題を課せられた。私は“背泳ぎ”で何とか無事に“生還”をクリアしたものである。
我が子が泳げないことに話を戻そう。
日本全国津々浦々の小学校において、6月から9月上旬までの約3ヶ月間、6年間もの長きに渡り、毎年毎年“プール指導”を教育行政の一環として全国の全児童に課すのであれば、教える側こそが全員を“泳げる”ように指導できる体制作りにも同時に着手したらどうなのかと、一保護者としては言いたくもなる。
我が子の場合ある事情を抱えていることもあって、特に小さい頃は何事にも習得に時間がかかる子ではあった。 それにしても、6年間を通して誰一人として我が子に“泳ぎ”の指導が出来ないとは、たかだか“プール指導”とはいえ公教育においては一体全体如何なる指導が行われているのか不信感のみを抱いたものである。
泳ぐ趣味など一切ない親子であり家庭環境であるため、別に一生泳げなくとも何ら差し支えはないのだが、公教育において“正規の課題”としてプール指導を取り入れているのであれば、(“背泳ぎ”でも“まっすぐ”でなくても何でもいいから)せめて5mでも泳げるように指導した上で児童を卒業させるのが公教育の責任というものではないのか??
このプール指導のために、年々体型的に成長を遂げる子どものサイズに合わせてスクール水着と“ボタン付きタオル”(なぜかそれが学校指定なのだが、こんな後々不用なものが「高価!」なのにも合点がいかなかったものだ)等の買換え負担が毎年親にのしかかってくる。しかも、あのゼッケンを縫い付けた“ダサい”スクール水着などレジャーではみっともなくて着せられないため、レジャー用は別購入となる。
しかも親として何より心が痛んだのは、泳げない児童を邪険に扱う教員が存在したことである。 その教員は泳げない児童を捉まえて「何でお前らは泳げないのか!」と叱り、全員をプールに“ぶち込んで”「泳げ!」とのみ言い放ち、後は泳げる児童をより早く泳がせる指導に没頭していたらしいのだ。 ところが我が子など泳げないためプールの隅っこでつっ立つことになる。 6月のまだ肌寒い日など、プールの中で2時間つっ立っていると体の芯まで凍えるそうだ。
その話を我が子から耳にした私は、(これは“いじめ”でしかない…、しかも初潮を既に迎えている女の子にとっては体を冷やすことは大敵でもあり、体の母性の将来に渡る発育の観点からもこれは許し難き過酷な“仕打ち”である!)との思いで居ても立ってもいられず、その非常識教員と“プール指導”自体の存在を恨んだものである。 我が子には「せめてプールの中で“ウォーキング”でもして体を温めていなさい」と助言するしか母の私に力がないことが何とも辛かった…
ところがその後、この辛さにさらに追い討ちをかける教員の言葉が待っていたのである。 母の私の助言に従い我が子が体を温めるべくプール内でウォーキングを始めたところ、すぐさまその教員から叱咤の罵声が飛んだのだという。
「歩いてないで、泳げ!!」
(こういった公教育現場の“弱者虐待”とも捉えられる非常識な指導の実態を作り上げている“教育行政”を今からでも遅くないから叩き直すべく訴えたい思いで、一保護者である“原左都子”が保護者を代表して?? この記事を綴っているのが本音だぞ!!)
そもそも何故に、“プール指導”などという、私に言わせてもらうと“至って特殊”な体育の一分野の種目を教育行政は全国の小学校において全員強制の課題としたのであろうか。
一説には、オリンピック等の国際競技における「競泳」で活躍する“スーパースター”を作り上げることにより国力の活性化に繋げるためだ、という見解もあるようだ。
他方、水難事故等に備えて子どもの頃から“泳力”を育成することは有効だとの見解もあろう。
私論は上記2説共に、その根拠は「乏しい」と捉えている。
確かに近年、オリンピック等国際舞台における「競泳」競技における日本選手の躍進には目覚ましいものがある。 残念ながら私はそれら名立たる選手らの現在の活躍と小学校時代のプール指導との関連に関してはまったく情報を持たないため、その情報に詳しい方には伝授願いたいところである。
片や“水難事故”説に関しては、これは教育行政が全国の全児童強制課題として取り上げるには、人間の一生において水難事故に遭う確率が微細過ぎる。加えて、水難事故に遭って“九死に一生を得る”のは、必ずしも泳ぎに秀でているためではない現状は報道で伝え聞く通りである。
極論であるかもしれないが、どうも政府とゼネコンとの癒着が怪しいと私は以前より捉えているのだ。
全国津々浦々の全小学校にプールを設置することにより、誰と誰が一番ホクホクしたのかは、皆さんも少し考えて下されば一目瞭然の話であろう。
別にそれでもいいんですよ。“プール”を全国の小学校に作りまくった以上、せめて有効利用するべきだとは私も思いますよ。
だがそれ以前の問題として、教育行政が公教育において「プール指導」を義務化している以上、その現場の学校でどのような指導が行われているか等のフォローは欠かせないはずだ。
この「プール指導」によって教育行政が今後何を目指したいのかは、私は今尚摑み切れないままであるが、過去において教員の管理不行き届き等の理由で複数の児童の死者さえ出している公教育における「プール指導」を、一部の子どもが単純に喜ぶからと言って、教育行政は今後もこのまま続行する思惑なのだろうか??
毎年この季節になると騒々しく聞こえてくるのが、自宅に程近い小学校のプールからの児童達の歓声と教員の指導の叫び声の喧騒音である。(バックナンバー「先生、落ち着きましょうか」を参照下さい。)
ところで、我が子は6年間(幼稚園も含めると9年間)にも及ぶ公教育におけるプール指導の甲斐もなく、結局泳げずじまいである。
そういうこの私も、海の近くの出身のため子どもの頃は毎夏海水浴を楽しみ、中高生の6年間においては全員強制でプール指導を受けたにもかかわらず、“背泳ぎ”しかできない。(ただし、まっすぐには進めない。トホホ…)
なぜ“背泳ぎ”なのかと言うと、腹ばいになったら浮けないからである。 顔をつける“バタ足”のみは出来るのだが、どういう訳か顔を水面から上げた途端に全身が沈み始めるのだ。 そこで思いついたのが、仰向きに浮くことである。この発想が大正解で、とりあえずは浮けたため“背泳ぎ”一辺倒でプール指導を凌ぐことになる。
高校のプール指導修了時に、生徒全員がプールの中に“ぶち込まれ”何の泳ぎでも何時間かかってもいいから底に足はつけずに25mの対岸へ“生還”する課題を課せられた。私は“背泳ぎ”で何とか無事に“生還”をクリアしたものである。
我が子が泳げないことに話を戻そう。
日本全国津々浦々の小学校において、6月から9月上旬までの約3ヶ月間、6年間もの長きに渡り、毎年毎年“プール指導”を教育行政の一環として全国の全児童に課すのであれば、教える側こそが全員を“泳げる”ように指導できる体制作りにも同時に着手したらどうなのかと、一保護者としては言いたくもなる。
我が子の場合ある事情を抱えていることもあって、特に小さい頃は何事にも習得に時間がかかる子ではあった。 それにしても、6年間を通して誰一人として我が子に“泳ぎ”の指導が出来ないとは、たかだか“プール指導”とはいえ公教育においては一体全体如何なる指導が行われているのか不信感のみを抱いたものである。
泳ぐ趣味など一切ない親子であり家庭環境であるため、別に一生泳げなくとも何ら差し支えはないのだが、公教育において“正規の課題”としてプール指導を取り入れているのであれば、(“背泳ぎ”でも“まっすぐ”でなくても何でもいいから)せめて5mでも泳げるように指導した上で児童を卒業させるのが公教育の責任というものではないのか??
このプール指導のために、年々体型的に成長を遂げる子どものサイズに合わせてスクール水着と“ボタン付きタオル”(なぜかそれが学校指定なのだが、こんな後々不用なものが「高価!」なのにも合点がいかなかったものだ)等の買換え負担が毎年親にのしかかってくる。しかも、あのゼッケンを縫い付けた“ダサい”スクール水着などレジャーではみっともなくて着せられないため、レジャー用は別購入となる。
しかも親として何より心が痛んだのは、泳げない児童を邪険に扱う教員が存在したことである。 その教員は泳げない児童を捉まえて「何でお前らは泳げないのか!」と叱り、全員をプールに“ぶち込んで”「泳げ!」とのみ言い放ち、後は泳げる児童をより早く泳がせる指導に没頭していたらしいのだ。 ところが我が子など泳げないためプールの隅っこでつっ立つことになる。 6月のまだ肌寒い日など、プールの中で2時間つっ立っていると体の芯まで凍えるそうだ。
その話を我が子から耳にした私は、(これは“いじめ”でしかない…、しかも初潮を既に迎えている女の子にとっては体を冷やすことは大敵でもあり、体の母性の将来に渡る発育の観点からもこれは許し難き過酷な“仕打ち”である!)との思いで居ても立ってもいられず、その非常識教員と“プール指導”自体の存在を恨んだものである。 我が子には「せめてプールの中で“ウォーキング”でもして体を温めていなさい」と助言するしか母の私に力がないことが何とも辛かった…
ところがその後、この辛さにさらに追い討ちをかける教員の言葉が待っていたのである。 母の私の助言に従い我が子が体を温めるべくプール内でウォーキングを始めたところ、すぐさまその教員から叱咤の罵声が飛んだのだという。
「歩いてないで、泳げ!!」
(こういった公教育現場の“弱者虐待”とも捉えられる非常識な指導の実態を作り上げている“教育行政”を今からでも遅くないから叩き直すべく訴えたい思いで、一保護者である“原左都子”が保護者を代表して?? この記事を綴っているのが本音だぞ!!)
そもそも何故に、“プール指導”などという、私に言わせてもらうと“至って特殊”な体育の一分野の種目を教育行政は全国の小学校において全員強制の課題としたのであろうか。
一説には、オリンピック等の国際競技における「競泳」で活躍する“スーパースター”を作り上げることにより国力の活性化に繋げるためだ、という見解もあるようだ。
他方、水難事故等に備えて子どもの頃から“泳力”を育成することは有効だとの見解もあろう。
私論は上記2説共に、その根拠は「乏しい」と捉えている。
確かに近年、オリンピック等国際舞台における「競泳」競技における日本選手の躍進には目覚ましいものがある。 残念ながら私はそれら名立たる選手らの現在の活躍と小学校時代のプール指導との関連に関してはまったく情報を持たないため、その情報に詳しい方には伝授願いたいところである。
片や“水難事故”説に関しては、これは教育行政が全国の全児童強制課題として取り上げるには、人間の一生において水難事故に遭う確率が微細過ぎる。加えて、水難事故に遭って“九死に一生を得る”のは、必ずしも泳ぎに秀でているためではない現状は報道で伝え聞く通りである。
極論であるかもしれないが、どうも政府とゼネコンとの癒着が怪しいと私は以前より捉えているのだ。
全国津々浦々の全小学校にプールを設置することにより、誰と誰が一番ホクホクしたのかは、皆さんも少し考えて下されば一目瞭然の話であろう。
別にそれでもいいんですよ。“プール”を全国の小学校に作りまくった以上、せめて有効利用するべきだとは私も思いますよ。
だがそれ以前の問題として、教育行政が公教育において「プール指導」を義務化している以上、その現場の学校でどのような指導が行われているか等のフォローは欠かせないはずだ。
この「プール指導」によって教育行政が今後何を目指したいのかは、私は今尚摑み切れないままであるが、過去において教員の管理不行き届き等の理由で複数の児童の死者さえ出している公教育における「プール指導」を、一部の子どもが単純に喜ぶからと言って、教育行政は今後もこのまま続行する思惑なのだろうか??
そもそも人間はお母さんのおなかの中で泳いでいた筈です。だからまともな指導をしていれば泳げるようになれるのです。
生徒が萎縮してしまうような先生の興奮した指導法とか、問題があるように思います。空気を吸って両手を開いて大の字に身体を前に投げ出せば浮きます。浮かなかったら空気が足りないか、強度の萎縮などがある場合だと思います。リラックスされる事から始める必要があります。恐怖心を亡くすのです。そうすれば必ず浮きます。ツギニバタ足、続いて手だけの「カキ」を練習し、・・・順序良く練習すれば泳げます。指導要領が出来ていない。私の子供も結局土日を利用して私が教えました。全員泳げるようになっています。
水泳の必要性については、やはり必要派です。海でも川でも楽しいですし、水難時にも助ける側に回れるし、と言ってもゼネコンとの結託を否定するものではありません。大いに関係すると考えています。
10メートルの合格ラインで、去年は、目的を達成できずに、泣きました。
もちろん、休日の水泳指導を、私がしましたが、ダメでした。
今年は、15メートルが合格ラインですが、早々と、合格です。
私の水泳指導は、テスト前に、1回だけ・・・、ほとんど指導せずに、「泳ぎを繰り返してやれ!」だけ言ったのですが・・・。
小3になった子供の体の成長が、ものを言う感じですね!
学校では泳げるようにならないというか、泳がせる気ない・・・・と私は見てます。
親が水泳を習わせていない子は、対象外なんですよ・・・・
癒着はしてないと思うけど、スイミング塾はホクホクだと思います。
私自身小学校の指導じゃ泳げるようになれませんでした。中一の時の先生の指導でなんとか「泳ぎに似た動き」を水中で行えるようになっただけです。多分小学校の先生は制約が大きすぎて、できる指導もできないんじゃないかと思います。
うちはスイミング行かせる余裕はないので、学校がもっと機能してくれるといいんですけどね・・・・・
私も頑張ったけど、3人のうち二人はなんとか泳ぎに似た動きができますが、一人はうまく行ってません。
けどまあ、たった三人のわが子すらうまく泳がせられなかった私なので、35人指導してらっしゃる先生にどうのこうのと言う気はありません。原様のおっしゃる通り、これは先生個人じゃなく教育システム全体の問題だろうからです。
私ごときでは水泳能力別クラス編成くらいしか思いつきませんが、こんなことしたら抗議殺到でしょうしね…・
それにしても、先生のなんでお前たち泳げないんだ発言は許せんです。
スイミングにやれる家ばかりじゃないんですよ・・・・私も悲しくなってきました。
でも、子どもが大きくなれば変化はありますよね、きっと。
努力家の我が子が小学生時代にどう努力しても達成できなかったことが2つあります。
それは“自転車”と“プール”です。
我が子のお抱え家庭教師である“サリバン母”の私は、当然ながら我が子にこの2つに関しても身を持って教え込みました。
話せば長くなりますので端的に申しますと、どう考察してもこの2種目に関して我が子はその適性がないと私は判断しました。
もちろん、私の“指導力”の問題もあります。両者共に私自身が得意分野ではありませんのでその指導力に限界があったことは認めます。
こんな事に時間を割くよりも、母としてもっと我が子にやらせたい事があったのも事実です。そういった我が子が興味を持つ分野に関しては、サリバン母として情熱を注ぎ込んで現在に至っています。
学校のプール指導においては、非常勤のプール指導専門の補助講師もいたと我が子より聞いています。
正規教員との力関係もあって、そのせっかくの補助教員が自らの力を発揮できない事情もあったのかもしれません。
それはともかく、もう“プール指導”を金輪際受けなくていい我が親子は現在では至って“清々”しており、我が子が本来目指したい目標に向かって突き進んでいる現状においてはもうどうでもいい話なれど、何故に中途半端な指導”を公教育において続けているのか、私はどうしても解せないのです。
科学や文化が目覚ましく発展しているこの時代に、人間の個性や多様性を真に尊重する教育行政であって欲しい思いの原左都子です。