原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

発達障害の子を下手に褒めるより、親こそが共に歩もう

2019年06月23日 | 教育・学校
 (写真は、本エッセイ集昨日2019.06.22公開のバックナンバー「ウィーン・プランター大観覧車とドナウタワー」をスマホで閲覧すると、必ずや画面上に掲示される“広告”の一部を撮影したもの。)


 遅ればせながらスマホを購入した後、我が「原左都子エッセイ集」本文記載内容をスマホにて確認する作業を実行している。
 その際に、必ずや記事文章内の“キーワード”を拾ったと思しき各種様々な広告が、本文エッセイの上下に所狭しと表示される。
 実に鬱陶しいのだが、パソコン同様にこれもスマホの宿命と諦めつつ、それら広告を上手く避けながらエッセイ本文を読むことにすっかり慣れてきている今日この頃だが。


 冒頭にて紹介した昨日公開のエッセイに関しても、スマホのそのページを開く都度、“とある広告”が必ずや現れる。
 これぞ冒頭の写真だが、、どうやら「発達障害児対象の教育テキスト」販売目的業者の広告のようだ。

 おそらく、我が前回公開エッセイのこの箇所より“キーワード”を拾ったのだろうと思しき部分を、以下に再掲載しよう。

 << あるいはやはり昨夏米国旅行時のごとく、私のペース中心に行動を続けていると娘の反発を食らったりもするのだ。 何分生まれ持って自分の心理状態の表出が苦手な娘である。 不平不満があろうがそれが極限に達するまで内心に秘め、決して口に出さないとの特質を抱えている。 とどのつまり“凍結状態”とのストライキを起こすのだが、これに気が付くかその予感がした時点で改善策を提案するのがサリバン(私の事)の使命である。(誤解無きよう記載しておくが、決して甘やかしている訳ではない! 娘が持って生まれた事情故に、丁寧な配慮と対応が必須なのだ。)>>
 (以上、昨日公開の我がエッセイ集バックナンバーより一部を引用したもの。)


 ところで、本エッセイ集に於いて私は少なからず「発達障害」に関する話題を取り上げ、私論を公開している。 その一つである2018.09.25 公開の「発達障害の多様性」と題するエッセイの一部を以下に再掲載させていただこう。

  娘のサリバン業を幼少の頃より主体的に担当している我が身にして、今までの人生に於いて数々の「発達障害児」と接する機会があった。 故に、発達障害児(者)達と一言でいえどもその実態には大いなる“多様性”があることは熟知している。
 「発達障害児」の中で何と言っても一番問題なのは、他者に迷惑を及ぼす特質を持つ人材だろう。 例えば、ADHD などは多動性があり落ち着きがない事で著名だが。 この児童が教室に一人存在するだけで教室内の風紀が乱れ周囲に迷惑を及ぼすため、教育現場ではその対応に困惑することであろう。
 あるいは、暴力気質がある発達障害者も困りものだ。 当然ながら女子にもこの部類の子が存在するが、我が娘も某発達障害研究所内で人目が無い時に、この気質を抱える少女に殴る蹴るの被害を受けている。
 そうではなく他者に全く迷惑が掛からない「発達障害児」は、その存在が放置されてしまう危険性がある。(まさに我が娘がこの部類だ。 世には、他者に迷惑が掛からないのならばそれは「障害」ではないとの見方もあるようだが…。 ところが「発達障害」と一旦名が付けば、それを放置しておけば脳が“退化の一途”を辿るのみであり、早期発見、そして幼少期からの支援は絶対に欠かせない。 脳医学分野の話をここで少し披露するならば、ヒトの脳とは生来的な要因に左右されるのはもちろんだが、発達期に於ける外部からの刺激(働きかけ)により目覚ましいまでの発展を遂げる可能性も秘めていて、既にそれが証明されてもいる。 要するに、人間の脳とは育つ環境により更なる「発展」を遂げ得るのだ! だからこそ、「発達障害児」の支援は今後も必須である!)  (途中大幅略)
 我が娘の話題は控えると冒頭で宣言したものの……   我が娘に関しては、我がサリバン指導に従い何のコネも無くして大学進学まで従順に歩んでくれた。 それが現在の娘自身の就職にも繋がった事は絶大なる事実だが。 それもサリバンの私が娘の“真面目かつ勤勉”なる特質を幼少の頃より見抜きつつ方向性を指南し、二人三脚で共に歩んで来たからに他ならないと自負している。 (以下略)
 (以上、本エッセイ集バックナンバーより一部を引用したもの。)


 さて、冒頭写真のスマホ広告である某営利企業による「発達障害児教育テキスト」に話題を移そう。

 この広告内では随分と長~~~い漫画が掲載されている。
 その要点をかいつまんで説明するならば、「親は発達障害の子供を怒ってはいけない、とにかく褒めよう!」とのスローガンの元にテキスト購入までの段階を辿るストーリー展開となっている。

 この種の広告の共通項だが、どうやら親(特に母親)とは“子供を直ぐに叱る愚かな動物”との揺るぎない前提がある様子だ。
 “愚かな母親”であれども、発達障害の我が子を叱り続けるのではなく、とにかく褒めつつ我が社のテキストに従って子供に学習させれば必ずや道が開ける、なる内容だっただろうか……

 くだらな過ぎる広告には間違いないのだが、せっかく我がエッセイのスマホページに掲載されていた事を契機に、少しだけ元教育者である私からもアドバイスさせていただこう。

 “子どもを褒める”ことが“頭ごなしに叱る”よりも良い効果を生み出す、との事実は間違いないだろう。
 ところがこの広告が大きく勘違いしているのは、“発達障害児”の中には高度のIQに恵まれている人材等々も存在するとの、多様性分析がすっかり抜け落ちている点ではなかろうか。
 加えて、母親側の教育資質とて千差万別だ。 これに関しては、広告主としてはおそらく世の“平均的母親”(誤解を呼びそうな表現だが)を想定して漫画制作したものと想像する。

 それにしても広告漫画制作のお粗末なこと、この上無い。
 一体全体、この業者が如何なる顧客マーケットを対象として当該テキストを売らんとしているのか、私には計り知れないが、このテキストを利用して我が子の“発達障害”が改善した事例があるならば、教えて欲しい程だ。

 
 最後に原左都子から、発達障害児を抱え日々困惑している親の皆様に一つだけアドバイスをしておこう。
 褒めるのはもちろん結構だ。 ただ子供とは大きく成るにつれ“褒め方”が困難になって来る存在でもある。 特に親の能力を見据える力がある子供に対しては“褒める”との行為はむしろ反感を呼ぶ恐れもあろう。 
 我が経験からのアドバイスだが、とにかく子供さんが小学校程度までの幼いうちは「共に歩んでは」どうだろうか?
 私自身がそうして来た。 いつ何時も子供の学習机の“横”(これが肝心、決して指導者のごとく“前”に座らないように!)に座り、日々一緒に学習に付き合った。 要するに、科目にかかわらず親の自分も一緒に問題を解くのだ!) 
 音楽とて体育とて一緒に歌ったり演奏したり、公園で走ったり、ボール投げや縄跳びをしたりして子供と一緒に楽しんだものだ。

 その甲斐があったのか、我が子はその後何らの縁故にも頼らず、上述のごとく自力で大学を卒業し現在就職4年目だ。 (その間娘が蓄えた貯蓄額をここで公開する訳にはいかないが… それも“幼き頃より貯蓄趣味があった”母である我が影響力に過ぎないのだろうが。)
  
 この子、今後も自力でこの世を渡って行ける! と今現在確信させてもらえそうな程に我が教育方針は間違っていなかった!、と今更ながら感慨深いものがある。

 だからこそ、娘と2人旅のウィーン旅行を今から楽しみにしているのよ。

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