原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

恋の結実と別離の狭間 ー vo.l.3 ー

2021年02月23日 | 恋愛・男女関係
 冒頭表題の原版は、今から12,3年前の「原左都子エッセイ集」2008年10月バックナンバーに同題目にて公開している。


 その ー vo.l.2 ー版を、ちょうど今から1年前の2020.02.23に公開した。
 それが昨日のPopular entries にランクインしていて、少なからずの閲覧を頂戴している様子だ。

 今回は ー vo.l.3 ー版 として、三度(みたび)このテーマを取り上げよう。


 以下に、2008.10月公開の初版と ー vo.l.2 ー版の一部を引用させて頂こう。

  (2008年の)朝日新聞朝刊、沢木耕太郎氏によるコラム記事「銀の街から」の今回のエッセイ “ロミオたちの哀切な「その後」” に私はついつい惹き込まれた。
 早速、沢木氏によるこのエッセイの続きを、抜粋・要約して以下に紹介しよう。
 結ばれたか、別れてしまったか。 だが、それ以外の道は考えられないだろうか?
 中国映画「初恋の想い出」は、生き残ってしまったロミオとジュリエットの「その後」の物語だと言えるかもしれない。 この中国版のロミオとジュリエットが結果的に選択することになる「第三の道」は、そこに至る心の軌跡が十分に理解できる哀切な「その後」となっている。   (  中 略  )
  これによく似た同監督による映画「故郷の香り」では、その結果それぞれが別の家庭を持つ事になるのだが、この「初恋の想い出」ではそのような単純な展開になっていかない。 なぜなら、そこには「家」というより「肉親」が介在してくるからだ。 異性への「愛」と肉親への「情」がせめぎ合うことによりさらに複雑さを増していく。
 最後は二人が夢のような儚い行為をするところで終わっている。 これをある種のハッピーエンドと取るか、究極のアンハッピーエンドと取るか。 そこには、観客の側の「愛」と「情」というものへの考え方をあぶり出す、試験紙のようなものが含まれているようにも思われる。
 (以上、沢木氏のコラム記事より抜粋、要約)

 私(原左都子)は、フォ・ジェンチイ監督によるこの「初恋の想い出」も、同「故郷の香り」も観ていないのだが、この二人のその後が気にかかる。 二人が最後にした夢のような儚い行為とは一体何であったのか。 映画を観ずして私なりに二人の「その後」、ひいては一般的な人々の恋愛の行方を追ってみることにしよう。
 恋愛の結末とは多様であろうと私も考える。
 ロミオとジュリエットのように、宿命に翻弄された結果「死」に陥ってしまうような究極の悲恋もあろう。
 この世紀の大恋愛物語は別としても、沢木氏が述べられているように、恋愛の結末とは結ばれるか別れるかのみではなく、それ以外の選択肢があってもいい。 そして現実的に、恋する二人が無意識のうちにその二者以外の道を選択している事例は実は現世でも多いのではなかろうかと私は思うのである。

 あまりよい例ではないのだが、例えば「結婚」などというものは、“恋愛”としてはとうの昔に終焉している場合が多いのではなかろうか。 それでも形の上での二人の関係は続いている。 これなども一種、“結実と別離の狭間”に位置する関係と考えられる。
 もっと話にロマンを持たせて、ホウジアとチーランのような若い二人の純粋な恋愛関係における、結実でも別離でもない恋の結末に思いを馳せてみよう。
 結ばれもせず、別れもせず、恋愛感情を維持し続けたまま二人の関係を続ける事は可能だと私も思う。 例えば、友人として人間としての付き合いを続ける等…。 私自身、過去から現在に至るまでこういう経験は何度もありそうなのだが、これは恋愛感情が消え失せていないうちは相当の欲求不満を伴う業でもあろう。

 ホウジアとチーランの「その後」は“哀切”であるとのことらしいため、こういうよくあるような単純な話ではなさそうである。
 肉親の介在、「愛」と「情」とのせめぎあいの中でホウジアとチーランの二人が選んだ恋の結末とは…。 

 (以上、本エッセイ集2008.10バックナンバーを要約して引用したもの。)


 このエッセイには当時数多くのコメントを頂戴しているが。 その中から、最後に私自身が返信として書かせて頂いたコメントを以下に紹介しよう。

 〇〇さん、逃避行は今からでも遅くない!?? (原左都子) 2008-10-24 14:25:58
 すったもんだした挙句の果てに駄目になった恋ほど心に鮮烈に残っていますよね。
 ほのぼの幸せだった恋なんて私の場合皆無に等しかったのかもしれませんが、思い出しもしません。
 〇〇さん、逃避行はまだまだ遅くないですよ。
 燃えるような恋をして、地の果てまでも行かれてはいかが??



 このエッセイを綴った頃の私は、未だ50代初期だった。 (その時期の写真を最近見直す機会があったのだが、いやいやこれ程若かったのか! と自分自身が驚き羨望する始末だ…)
 正直言って、まだまだ“恋心”旺盛だったように振り返る。(参考ですが、“内心の自由”は法的にも保障されています。) かと言って、それにより家族に迷惑を掛けるなどとの不謹慎者でもなかったのだが…。

 とにかく独身時代が長かった私だが。
 上記コメント返答記載通り、私の場合“すったもんだした挙句の果てに駄目になった恋”しか経験しておらず、その思い出しかない。 ほのぼの幸せだった恋なんて、我が独身時代には実際皆無に等しかったのだろう。

 そんな私だからこそ、「恋の結実と別離の狭間」に関する私なりの結論が出せそうにも思う。

 上記の沢木氏による論評は無視させて頂くとして。

 「恋の結実と別離の狭間」を彷徨い続けるがごとくの恋愛時代を、長い独身時代に謳歌した私にもたらされたものは。 
 誤解を恐れず述べるならば。
 “豊かな想像力”と、 “我が人生に於いて係わりを持つ他者を受け入れるハート ” だったのではなかろうか??

 このエッセイを記して後、(昨年時点で)11年4ヶ月が経過している私だが。 
 そのような経験を通り過ぎて来たからこそ、現在そこそこ幸せに暮らしてるとの自負もある… 

 (以上、昨年2020.02.23公開の同題目ー vo.l.2 ー版より一部を再掲載したもの。)



 そして、上記 ー vo.l.2 ー版 を公開して更にちょうど1年が経過した2021.02.23の今。

 「介護保険証」が手元に届く程の高齢域に達している我が身ではあるものの。
 まだまだこの種のテーマの分析を続行したい!、と欲する私である事を嬉しく感じる日々でもある…


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