原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“ひとり” って開放感があるなあ

2018年01月11日 | 自己実現
 自宅で“ひとり”になれるのは何年ぶりだろう。


 亭主が定年退職して以降、いつもほぼ自宅に居る亭主の世話をして既に6年近くの年月が流れている。

 特に娘が就職して以降は娘の帰宅が遅く、日中は亭主と二人の生活が長くなった。
 特段邪魔な人種ではなく、元々私の自由度は高いのだが、それでも、やはり配偶者として亭主の面倒をみる責任感が強い私は、昼になれば不本意にも昼飯を作らねばならない。 
 掃除をするにせよ布団を干すにせよ、亭主の生活を乱さないように気を配りつつの作業になるし、宅配便が到着すれば「貴方、何か頼んだ? だったらあなたが出て。」等々の押し付け合い小バトルも発生する。 トイレも混むし(どうもいつもトイレに入るタイミングが一緒になり嫌になるが)……。
 
 一人で旅にでも出てくれればよいが、亭主にはその趣味がまったく無く、いつも旅に出るのは私ばかり。
 等々の理由により、我が家の場合、まさに自宅で私ひとりになれる機会が滅多にないのだ。


 実は、本日より亭主が手術入院した。
 こんな時に不謹慎なエッセイを綴って罰当たり者かもしれないが、亭主が病院へ出発した直後より実際私は開放感に浸っている。

 とは言えども、この開放感は本日午前中限りかもしれない。 午後には手術担当医師と面談して、手術に関する説明を受け質疑応答の後同意書にサインせねばならない。
 ただそもそも私の診断では、極端な表現をすれば、亭主は“不必要な手術”を自ら好んで受けようとしている。  医師側も亭主の手術を受けたいなる意思を尊重してくれた結果、本日の入院に至っている。

 何分、亭主(一応科学者だが)とは育った環境がまったく異質だし、学問分野に於けるバックグラウンドも異なるため、どうしても思考・行動パターンも違ってくる。 若い頃にはお互いに喧々諤々よく議論バトルしたものだが、既に高齢域に入って以降はもう面倒臭いのが本音だ。 現在は本人の意思を尊重して好きにさせてやり、穏便に済ませるべきとの心境に変化している。

 おそらく今回の手術もさほどの危険性はないものと判断しているが、あわや手術ミスなる事態も想像が付き、そうなると後が厄介だ。
 その辺を中心に、本日午後、担当医師とじっくりと話し合ってくる予定だ。


 話題を戻して、現在開放感に浸っている私は一体自宅で何をして過ごしているかといえば、結果としてはいつも通りだ。
 洗濯干して、食器を洗い、布団も干して、掃除をして…
 少し時間が余りそうなので、今こうやってエッセイを綴っている。
 あっ、そろそろ御用聞きが来る時間だ。 いつもなら亭主と「どっちが出る」ナンタラの小競り合いもあるが、一人だと話が簡単。 私が出りゃ済む。 こりゃ楽だ。 

 
 ただ、何と言っても家族が更に高齢域に達すると、今後ますます体調不良状態が頻発するのであろう。
 亭主が入院したといって開放感に浸れるのは、おそらく今のうちだろう。
 せいぜい自分自身の健康に留意しつつ、束の間の“開放感”に浸りたいものだ。