原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

子供を産むとの行為が母親に如何なる生き甲斐をもたらすのか

2014年12月08日 | 時事論評
 不妊症に悩む女性の皆さんには誠に申し訳ないのだが、最大限に想像力を巡らせても原左都子にはその“苦しみ”や“辛さ”の程がどうしても理解しかねる。

 そんな我が“不妊症無理解ぶり”に対し、不妊症女性陣より恐らく以下のような反論が来よう。

 「あなたは高齢出産とは言えども、“曲がりなりにも”一人の子供を産んでいるではないか! 私達とて“曲りなり”でも何でもいいから、とにかく子供が欲しいのだ。 子供を授からない身を経験しないと我々の苦しみ、辛さは到底理解不能であろう。 子供を授かった女性からの不妊症女性バッシングこそが我々の辛さに拍車をかけている事実を、少しは慮って欲しいものだ!」


 冒頭から、原左都子の私事を述べよう。

 女性としてはかなり特異的存在だったのかもしれないが、私は思春期頃より“子供が欲しい”なる感覚が欠如していたように振り返る。
 そんな我が潜在意識が適齢期以降も続いたと考察可能なのだが、我が人生に於いて“子供が欲しい”なる感情を抱いた事はただの一度もない。 
 それ故に上京後民間企業へ就職した暁には、周囲の適齢期女性達が次々と職場恋愛して出産・育児退職(いわゆる「寿退社」だが)している現状を目の当たりにしても、「へえ~、そうなんだ… 何を好き好んで……」 程度の他人事感覚を抱いたものだ。

 そんな事よりも私は俄然、自己実現意欲に燃え続けていた。 
 まだまだ私自身が“いっぱしの人間”として成長を遂げていないのは歴然だ。 そんな私にとっては独身の身にしてまずは自分の目指す方向に於いて自己実現を叶えた暁に、次なる課題として結婚なる共同生活が始まるのであろうと予測していた。 
 そのような自己実現意欲の下ある程度の目標が叶った時点で、私は“お見合い結婚”に至った。 時は40歳近くの年齢に達していた。 
 結婚に至って尚、私には「子供が欲しいなる願望」は一切なかった。
 見合い結婚相手とはお互いの学問背景に於いて結婚当初よりかなり気が合った。 結婚以前より会えば何処かの飲み処で度々盃を交わしつつ、学問関連話題をテーマに熱く語り合ったものだ。

 そんな中で、子供の話題も出るには出た。 これに関しても意気投合していたのが今となっては懐かしい。 両人共に同じ思いだったのだ。 もしも授かったら産もう。授からねば子供はいなくてもよい…。

 ところが不妊症に悩むご夫婦には大変申し訳ない話なのだが、そんなこんなしている間に私は既におなかに子供を授かっていた。 要するに、結婚式を迎える以前より我々夫婦は子宝に恵まれていたのだ!  
 これは決して「出来ちゃった婚」ではなく、「出来てた婚」である事実を披露宴会場でも公開した。
 当該「出来てた婚」で生まれ出た我が娘が、出生時より若干の不具合を抱えていた事情に関しては、「原左都子エッセイ集」内で度々公開させて頂いている。 (だからこそ、冒頭であえて“曲がりなりにも”なる歪んだ表現を用いた。)


 ここで、もしも原左都子が子宝に恵まれていなかったのなら、如何なる人生を歩んだだろうかに関する想像を拡大してみよう。
 上記に紹介した通り、我が夫婦は元々何が何でも「子供」を切望していた訳ではない。  「出来てた婚」にてたまたま授かった娘が、もしこの世に生まれ出ていなかったとすれば…

 おそらく私は、当時の職業だった「高校教師」を続けていた事であろう。 これを退職したきっかけとは我が子高齢にての「出産」に他ならなかった。 もしも私が子宝に恵まれない立場だったのなら、必然的にそれを続けていたと想像する。
 我が亭主とて私同様に我が道を貫きたい資質を抱えていた事もあるが、もしも子供が授からなかったとて、おそらく結婚当初よりお互いに目指す方向を貫き通したのではあるまいか。
 その後長年が経過して夫婦間が惰性に至ったとて、 それを“子供がいない”せいにするなど、我が夫婦間では想像も出来ない展望である。  それ以前の問題として、とっとと両者間で離婚手続きをすれば済む話だ。


 ここで、12月6日付朝日新聞「悩みのるつぼ」に寄せられた38歳女性の悩みを紹介しよう。

 不妊治療をしている38歳主婦だが、29歳で結婚をした後子宝に恵まれない年月間私一人で不妊対策に臨む年月が過ぎ去り、やっと35歳になった時、夫が不妊治療に協力的になった。 結婚当初から子供が欲しかったので、ストレスをため込まないようにアルバイトもした。 子供が出来ないのであれば、自分自身の人生としての仕事をもっと早い段階で真剣に考えたかった。

 この相談に応える三輪明宏氏の回答の一部を、以下に紹介しよう。
 今、不妊に悩む方は多い。  でも顔や体つきと同様に、持って生まれたものはそれぞれ違いますから、お答えがとても難しい。  (中略)  血がつながっていないと家族ではないというのも大間違い。 そもそも夫婦は血がつながっていない。 喜怒哀楽の積み重ねが家族を作っていく。 絆が深いのが家族であって、血縁は関係がない。 子供が出来ないのなら、夫婦二人で充実した人生を送ろうと発想を変えるべき。 子供が好きなら、保育所や託児所にお手伝いに行けばよい。 ご主人を責めるのはやめましょう。

 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 何度も言うが、私自身は“子供が欲しい”なる願望がなかったにもかかわらず子宝に恵また。
 ただ、私は子供を産む以前より確固とした自己を確立出来ていた事は確かだ。 それは、単に自己実現との身勝手な目標だったのかもしれない。  
 それでもそんな強靭な自己を育成して来れた事実こそが、“曲がりなりにも”なる我が子育てに繋がったと自負している。

 人生とは様々な試練が待ち受けているものだ。 そんな試練に立ち向迎える強靭な自己を“不妊症女性達”にも、若かりし時代にこそ育成して欲しかった思いだ…

 上記相談者の場合、残念だが何だかもう手遅れの気もするのだ。
 上記三輪明宏氏ご回答のように、血縁にこだわり続けるのではなく、本心で子供が好きならば保育所や託児所の仕事を手伝えばよいとの意見に私も賛同する。
 ところがその種の自己犠牲“不妊症女性”など、我が国には皆無であるような気もして辛い……

 表題に掲げた 「子供を産むとの行為が母親に如何なる生き甲斐をもたらすのか」 に関する私論を述べるならば、日本人女性にとっての不妊治療とは、まさに自分が産んでこそ(自分のDNAを引き継いでこそ)成り立つ狭い意味での母子関係を目指しているのだと言えよう。
 そこには産んだ後一切の「子育て」思考が抜け落ちている事実を、末恐ろしくも感じるのだが…。


 最後に原左都子の本音を述べるならば、私は子どもを授からずとておそらく自分なりの充実した人生を貫けているであろうと思う。
 ただ確かに産んだ娘は私の宝であり、私にとって一生に於けるかけがえのない存在である事には絶対間違いない!