原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“勘違い勝者”よりも“コンプレックス敗者”でありたい。

2013年04月06日 | 時事論評
 当該「原左都子エッセイ集」とは、たかが一庶民の素人が発信している単なる一ブログに過ぎない。
 とは言え、一応「原左都子エッセイ集」をネット上に公開している著者の立場上の責任として、我がエッセイが世間にもたらしている諸動向の確認作業をする機会を時々持つべきと心得ている私だ。

 この作業が以外や以外、筆者である私に新たな刺激や感動を呼び起こしてくれたりもするから、ネット世界も捨て置けない。

 例えば「原左都子」でネット検索すると、当然ではあろうがまずは主に「原左都子エッセイ集」に関する項目がズラーーーッ と何ページかに渡って検索可能だ。
 その中には、本エッセイ集のバックナンバーが少なからず取り上げられている。 検索する日により移り行くバックナンバーが多い中で、ネット公開後ずっと皆様にご覧頂いているのか、何年来にも及んで常に検索上位に位置しているバックナンバーが多い事に驚かされる。   (一例を挙げると、「別れて下さい」 「ふ・り・ん考」 「サンバクラブリーゼンシー」 等々、やはり恋愛ものエッセイは年月が経過しても人気のようだなあ。


 そんな中、先だって「原左都子」ネット検索により自分で読み返してみても“唸り”そうな力作とも言えるバックナンバーを発見した。

 それはちょうど1年程前の2012年4月に公開した 「一体 誰と争っている?」 と題するエッセイである。
 このバックナンバーは一見すると当時東京都知事であられた石原慎太郎氏を論評したエッセイのように見えて、実は 原左都子 自身の生き様を今一度振り返るべく我が深層心理にまで考察が及んでいる内容であることに気付かされるのだ。

 そこで本日は再び上記エッセイを取り上げる事により、我が深層心理に関して今一度確認作業を施すこととしたい。
 以下に、バックナンバー「一体 誰と争っている?」の内容を要約引用させていただく。

  「一体誰と争ってる?」

 朝日新聞2012年4月18日付夕刊「素粒子」欄に何とも絶妙な表現があった。以下にその全文を紹介しよう。
    そろそろ黄門様の役回りのお年だろうに。 自ら物議を醸す石原氏。
    「政治に吠え面かかす」と。 一体誰と争ってる?
 原左都子が補足説明をしよう。
 石原氏とはもちろん、4期という長きに渡り東京都知事に当選し続けている 石原慎太郎氏 の事であろう。 そして今回の「素粒子」の文面は、東京都知事である石原氏が突如として尖閣諸島を買い取るとの「奇策」を示した事を受けての論評であろう。 
 それにしても、とにかく石原氏とは実によく“吠えて”いる人物であられる。
 例えば東京にオリンピックを誘致する計画を公開するに当たっても、何年来に渡り日本に世界に“吠え”まくっている感覚がある。 ただ、この人物が今尚吠え続けねばならない背景として、東京都知事を引き継ぐ後継者が一人として存在しない現実が辛いとの事情もあろう。 しかしそれは黄門様の年齢に至るまで石原氏本人がその地位を死守せんとしたがために、本気で後継者を育て上げなかった責任も大きいはずだ。 
 石原氏の“吠え”の対象とは、朝日新聞「素粒子」が「政治に吠え面かかす」との文面で指摘している通り、それは「国政」でしかあり得ないのではなかろうか。
 原左都子の私論を続けるが、 上記のごとく、若き時代に国政にこだわり続けた石原氏にとっては、東京都知事として4選を達成しているとはいえ、結果として都知事の現在の立場は「敗北」でしかなかったのではあるまいか? だからこそ石原氏は「政治に吠え面かかす」と宣言し、今尚闘い続けておられるのであろう。 故に氏が歳老われた現在に至って尚、国政が掲げた施策に真っ向面より抵抗する事とならざるを得なくなる。 尖閣諸島問題とてそうだ。国が買い取ると言えば、自分こそが買い取る!と言い出して抵抗する。 都民の迷惑を考慮する余裕も無く…… 
 原左都子の立場として、表題に戻ろう。 読者の皆様の応援に支えられつつ、この私がたとえ非営利であろうが数年来“辛口論評集”とも表現可能な「原左都子エッセイ集」を日々綴り自己のオピニオンをネット上に公開できている事に感謝申し上げたい思いだ。
 その根底には、 「一体誰と争ってる?」 との課題が我が脳裏に常々横たわっている事も重々認識し続けている。 既に人の上の立場におられる石原慎太郎氏はともかく、人間とは心理面で何かの対象と争いつつその生命を全うする存在であり続けることを余儀なくされている感覚が私にもある。
 それはこの世で成功を修めたか否かの如何にかかわらず、人それぞれの人生の経験則に基づく一種の“コンプレックス”に端を発ているのであろう事も想像がつく。  決して現在は人の上に立つ存在ではない原左都子のごとくの一庶民であれ、その社会心理学的側面を視野に入れつつも、今後も我が心の内面で誰か(何らかの対象物)との “争い” を全うし続けるのが、人生に於ける一つの美学なのかもしれない……
 (以上、「原左都子エッセイ集」昨年4月のバックナンバーより引用)


 原左都子の私論で締めくくろう。

 まず石原慎太郎氏に関してだが、皆さんもご存知の通り、石原氏は昨年末に東京都知事の地位を事実上“後進の猪瀬氏に譲る形”で都知事職から退かれた。
 何故ならば石原氏が残りの人生をかけて成し遂げたかったのは、私の想像通り、やはり“国政を揺るがす”事に他ならなかった故であろう。
 ところが大阪の橋下氏をそそのかして無理やり結託し新政党を打ち立てたものの、現在高齢故に闘病中であられるのだろうか??  その種のメディア情報もあるが、残念ながら石原氏が衆院議員に返り咲かれて後は、氏が「政治に吠え面かかす」姿を最近メディアで見聞する事がない…

 最後に原左都子自身の現状分析に話を戻そう。

 わずか1年前の昨年同時期にこれ程政治家に対する批判精神旺盛だったはずなのに、現在は何だか私らしいその意欲が少し欠けている様に自己分析するのだ。
 それは何故だろう? 我が娘が大学生として順調に今後の自立の道を歩んでくれているお陰で、我が「お抱え家庭教師」任務が緩和されているせいか?  あるいは自分自身が年齢を重ね諸感覚が鈍りつつあるためか?? 
 (我が周囲を見渡しても、子どもが成長し旅立った暁に親とは急激に老け込むもののようだけど……)

 周辺環境に翻弄されず今後も我が自己実現人生を貫き通すためには、表題のごとくみっともなくも“勘違い勝者”の姿を世間に晒す立場であるよりも、自分が抱えている“コンプレックス”を一生に渡り分析・克服しつつの敗者でありたいものだ。