学校内で発生する殺人・傷害事件に対し、一般市民は決して“マンネリ化感覚”を抱いてはならない。
そう言いたくなるほどに、学校内における殺傷事件が多発する近年の痛ましい実態である。
先だって6月15日に発生した横浜の私立女子高校における授業中の傷害事件を報道で見聞した私は、同じ年頃の女子高生の子どもを持つ親として何ともいたたまれない思いである。
被害者は意識不明の重体との報道であるが、何とか一命を取りとめ回復して欲しいものだ。
この傷害事件をご存じない方のためにここで簡単に説明すると、上記私立女子高校の授業時間中に、座席が隣り合う生徒が傍らの生徒を持参したナイフで突然刺したというものである。
この事件の報道において、元高校教員でもある原左都子が呆れ果て愕然とさせられた事象がある。
それは、当該女子高校の学校長による事件発生後の記者会見での言及である。 (あくまでも報道を見聞した範囲だが)、女性学校長はこの事件に関して「被害者の生徒はとっても明るく元気で活発な生徒です」と話す一方、加害者である生徒に関して「私は話した事もなく、知らない。」と公言したらしい。 加えて「(担任教諭は加害者に関して)口数が少ないと言っていました」と応えたそうである…。
ここで私論になるが、学校の最高責任者である学校長たるものが事件発生直後に報道に公開する発言として、これは絶対にあってはならない最悪の発言であった。
事件当日の午後4時頃記者会見に臨んだ学校長は、この時点では事件の“背景的要因”の詳細を知るすべもない。 この場で学校長として報道の質疑に応え得る内容とは、事件に関する“事実説明”のみで十分だったはずだ。 生徒個々の人格的要因である「人柄」になど、記者会見において教育者たるもの決して触れるべきではない。 しかも、被害者の人格については肯定的見解を述べ、加害者については「私は話した事がなく知らない」とはどうしたことか。(これではまるで、その辺のおばさんが井戸端会議でもしているノリでしかなく、愕然とするしかない。) 加害者生徒を知らないのならば尚更、学校長の立場で被害者、加害者両者の性格的バックグラウンドにまでメディアを通して世間に公開するべきではなかった。
大変遺憾なことに、この校長の記者会見により、早速加害者の人格に欠陥があるべく歪んだ報道が横行している有り様だ。
“被害者は明るく元気で活発な生徒である一方、加害者は口数が少なく暗い” この図式に喜んで飛びついたと思われる報道機関が、事件の背景解明に先行してこれを強調して伝えている実態に、心を痛める私である。
報道によると、この2人はどうやら4月の入学当初より相性が悪い生徒同士であったようだ。にもかかわらず運悪く教室での座席がずっと隣同士を余儀なくされていたようである。 加害者の友人が被害者から「きもい、暗い」となじられるごとくのトラブルもあったようで、被害者側も「座席を変えて欲しい」と担任に訴えたりもしたが、「席替えは皆が決めたことだから」と担任は被害者生徒の要望を認めなかったとのことでもある。
再び私論に入るが、担任が被害者生徒の訴えをもっと真剣に捉えて早期に座席を離す措置を取っていれば事件は回避できたのかもしれないと、何とも無念な原左都子である。
ここで私事になるが、我が子が小学生時代に特定の同級生より度重なるいじめに遭ったことがある。 当初は担任の方針により、「まだ年齢が低い子どもである故にいじめを乗り越えてなるべく2人が仲良くして欲しい」との軟弱指導で片付けられてしまった。 再度我が子が同一相手から陰湿ないじめに遭った時、保護者の私は再び担任に訴えた。 「申し訳なかった、本人にも親御さんにも謝らせる」と弁解する担任に対し、私は毅然とこちらの要望を伝えたものである。 「形式だけの謝罪はどっちでもいいので、とにかくいじめの加害者生徒を我が子に近づけないで欲しい。 そのために即刻できる手立てとして教室での座席を離して欲しいのに加えて、来年以降加害者とは別のクラスにして欲しい。」 後半の要望に関しては当然ながら担任に表立っての権限がないのであろうが、座席の変更は即刻実践してもらえ、それ以降2人の接触がなくなり我が子へのいじめは自然消滅した。
大人の人間関係における鉄則とて、相性の悪い相手とはあえてバトルを繰り広げるよりも距離を置き避けて通るのがスマートな人間同士の付き合いというものであろう。
この意味で、児童生徒が所属する学校という環境は厳しいものがある。 自分自身の意思で人間関係をコントロールしようと試みようが、学校のクラスや教室の座席如何で幸も不幸ももたらされるというものであろう。
そこで提案であるが、学校は今回のような痛ましい事件を回避するためにもクラス編成や教室の座席をより流動的に運営しては如何なものか。 そういう柔軟な対応こそが、学校の危機管理にも直結するものと私は考察する。
少なくとも今回の事件のように、事前に生徒がクラス生徒との人間関係の悪化を回避しようと「席替え」を訴えているにもかかわらず、それに耳を貸さなかった担任の責任は重大であると私は捉える。
それにしても、いくら学校長が事件直後で動揺していようと、教育者たる者、マスメディアからの生徒の人格面での質問に決して軽はずみに応じてはならない。 これは、個人のプライバシー保護にも抵触する言動である。
今回の私立女子高校の授業中の事件に関しては、被害者も加害者も共に学校教育の危機管理不備による犠牲者であると私は位置づける。
15歳という未熟な生徒がどんな思いでこのような残虐な事件を起こすに至ったのかに関して、真相が不明の今、とりあえずは加害生徒に関してノーコメントに徹しておくのが教育現場たる学校の役割ではなかったのか??
被害者の回復を祈ると共に、こんな取るに足りない事で同級生を傷害してしまった我が子と同世代のわずか15歳の加害者生徒の今後の人生を思うと、何ともいたたまれない思いの原左都子である。
そう言いたくなるほどに、学校内における殺傷事件が多発する近年の痛ましい実態である。
先だって6月15日に発生した横浜の私立女子高校における授業中の傷害事件を報道で見聞した私は、同じ年頃の女子高生の子どもを持つ親として何ともいたたまれない思いである。
被害者は意識不明の重体との報道であるが、何とか一命を取りとめ回復して欲しいものだ。
この傷害事件をご存じない方のためにここで簡単に説明すると、上記私立女子高校の授業時間中に、座席が隣り合う生徒が傍らの生徒を持参したナイフで突然刺したというものである。
この事件の報道において、元高校教員でもある原左都子が呆れ果て愕然とさせられた事象がある。
それは、当該女子高校の学校長による事件発生後の記者会見での言及である。 (あくまでも報道を見聞した範囲だが)、女性学校長はこの事件に関して「被害者の生徒はとっても明るく元気で活発な生徒です」と話す一方、加害者である生徒に関して「私は話した事もなく、知らない。」と公言したらしい。 加えて「(担任教諭は加害者に関して)口数が少ないと言っていました」と応えたそうである…。
ここで私論になるが、学校の最高責任者である学校長たるものが事件発生直後に報道に公開する発言として、これは絶対にあってはならない最悪の発言であった。
事件当日の午後4時頃記者会見に臨んだ学校長は、この時点では事件の“背景的要因”の詳細を知るすべもない。 この場で学校長として報道の質疑に応え得る内容とは、事件に関する“事実説明”のみで十分だったはずだ。 生徒個々の人格的要因である「人柄」になど、記者会見において教育者たるもの決して触れるべきではない。 しかも、被害者の人格については肯定的見解を述べ、加害者については「私は話した事がなく知らない」とはどうしたことか。(これではまるで、その辺のおばさんが井戸端会議でもしているノリでしかなく、愕然とするしかない。) 加害者生徒を知らないのならば尚更、学校長の立場で被害者、加害者両者の性格的バックグラウンドにまでメディアを通して世間に公開するべきではなかった。
大変遺憾なことに、この校長の記者会見により、早速加害者の人格に欠陥があるべく歪んだ報道が横行している有り様だ。
“被害者は明るく元気で活発な生徒である一方、加害者は口数が少なく暗い” この図式に喜んで飛びついたと思われる報道機関が、事件の背景解明に先行してこれを強調して伝えている実態に、心を痛める私である。
報道によると、この2人はどうやら4月の入学当初より相性が悪い生徒同士であったようだ。にもかかわらず運悪く教室での座席がずっと隣同士を余儀なくされていたようである。 加害者の友人が被害者から「きもい、暗い」となじられるごとくのトラブルもあったようで、被害者側も「座席を変えて欲しい」と担任に訴えたりもしたが、「席替えは皆が決めたことだから」と担任は被害者生徒の要望を認めなかったとのことでもある。
再び私論に入るが、担任が被害者生徒の訴えをもっと真剣に捉えて早期に座席を離す措置を取っていれば事件は回避できたのかもしれないと、何とも無念な原左都子である。
ここで私事になるが、我が子が小学生時代に特定の同級生より度重なるいじめに遭ったことがある。 当初は担任の方針により、「まだ年齢が低い子どもである故にいじめを乗り越えてなるべく2人が仲良くして欲しい」との軟弱指導で片付けられてしまった。 再度我が子が同一相手から陰湿ないじめに遭った時、保護者の私は再び担任に訴えた。 「申し訳なかった、本人にも親御さんにも謝らせる」と弁解する担任に対し、私は毅然とこちらの要望を伝えたものである。 「形式だけの謝罪はどっちでもいいので、とにかくいじめの加害者生徒を我が子に近づけないで欲しい。 そのために即刻できる手立てとして教室での座席を離して欲しいのに加えて、来年以降加害者とは別のクラスにして欲しい。」 後半の要望に関しては当然ながら担任に表立っての権限がないのであろうが、座席の変更は即刻実践してもらえ、それ以降2人の接触がなくなり我が子へのいじめは自然消滅した。
大人の人間関係における鉄則とて、相性の悪い相手とはあえてバトルを繰り広げるよりも距離を置き避けて通るのがスマートな人間同士の付き合いというものであろう。
この意味で、児童生徒が所属する学校という環境は厳しいものがある。 自分自身の意思で人間関係をコントロールしようと試みようが、学校のクラスや教室の座席如何で幸も不幸ももたらされるというものであろう。
そこで提案であるが、学校は今回のような痛ましい事件を回避するためにもクラス編成や教室の座席をより流動的に運営しては如何なものか。 そういう柔軟な対応こそが、学校の危機管理にも直結するものと私は考察する。
少なくとも今回の事件のように、事前に生徒がクラス生徒との人間関係の悪化を回避しようと「席替え」を訴えているにもかかわらず、それに耳を貸さなかった担任の責任は重大であると私は捉える。
それにしても、いくら学校長が事件直後で動揺していようと、教育者たる者、マスメディアからの生徒の人格面での質問に決して軽はずみに応じてはならない。 これは、個人のプライバシー保護にも抵触する言動である。
今回の私立女子高校の授業中の事件に関しては、被害者も加害者も共に学校教育の危機管理不備による犠牲者であると私は位置づける。
15歳という未熟な生徒がどんな思いでこのような残虐な事件を起こすに至ったのかに関して、真相が不明の今、とりあえずは加害生徒に関してノーコメントに徹しておくのが教育現場たる学校の役割ではなかったのか??
被害者の回復を祈ると共に、こんな取るに足りない事で同級生を傷害してしまった我が子と同世代のわずか15歳の加害者生徒の今後の人生を思うと、何ともいたたまれない思いの原左都子である。