原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「仕事大好き新内閣」 を国民は監視し続けよう!

2010年06月08日 | 時事論評
 本日(6月8日)昼間のテレビニュース報道によると、今夜発足する菅新内閣のモットーは“クリーン”と「仕事大好き内閣」であるらしい。(官房長官に就任する 仙谷氏による新内閣名簿発表会見より一部を引用)

 
 いきなり話が変わるが、私は週に2度程スポーツジムへ通ってトレーニングに励んでいるのだが、ちょうど私がランニングマシーンに乗っている時間帯にマシーンの前面に設置されている画面で、日テレの「ミヤネ屋」という番組が放映されているのだ。
 この「ミヤネ屋」という番組は昼間のワイドショーにしては珍しく、ここのところいつも前半は政治の話題を取り上げている。 しかも昨日(6月7日)の放送は、前半が新総理の菅直人氏の奥方である菅伸子氏特集であり、後半は何故日本の内閣が短命続きなのかにつき政治評論家が議論をするという全面政治特集であった。
 いつもはイヤホンをしないで画面と字幕テロップだけを見る私も、昨日は(これは聞き捨てならぬ!)とばかりにイヤホンを装着して音声も確認しつつランニングに励んだ。

 何分、ランニング中につきメモを取る事が不能なため記憶のみに頼らざるを得ないのだが、印象に残っている場面を取り上げて昨日の「ミヤネ屋」の政治特集を原左都子なりに論評してみることにしよう。

 日本は先進国にして次から次へと首相が入れ替わり内閣が短命過ぎるのは何故なのかについて、昨日の「ミヤネ屋」後半のテーマとして取り上げられていた訳であるが、そう言えば、元首相である小泉氏以降サミット(主要先進国首脳会議)に出席する我が国の首相は毎年入れ替わり立ち替わりの実態である。 (先日わずか8ヶ月の短命で退陣した鳩山氏は結局サミットには出席できず終いである。 あの目立ちたがり屋の奥方はさぞかし2人でお手手つないでいる影像が世界に放映されるのを望んでいたであろうに、何とも残念… )
 鳩山氏ご夫妻がサミットに出席できなかった“無念”は二の次でよいとして、我が国の内閣が短命である理由に付き政治評論家や学者や現役官僚が様々な見解を述べていた。


 あくまでも私が憶えている範囲で、原左都子自身の私論を前面に出しつつそれらの見解を以下にまとめてみよう。

 一つは首相に選出される人物の首相としての資質の問題である。
 どうも我が国の首相とはその資質よりも“国民や周囲の受けのよさ”等の表面的な印象で選出される傾向があるとの政治評論家氏の見解は、鳩山氏を典型例として否めない事実であろう。 一国の首相とは平議員と一線を画した卓越したリーダーシップ力が要求されて当然であるのに…。
 上記政治評論家氏の話によると、例えばサミットの真の存在意義とはメディアに報道されない裏舞台においてこそ各国首脳の力量が試される場として機能することであるらしい。 例えば米国のオバマ大統領など、お忍びで側近一人のみを伴って他国の首相に接見しては内密に議論、折衝を進めるバイタリティがあるとのことである。 この辺において、我が国の歴代の首相は大いに遅れをとっているのが明らかな事実のようだ。

 あるいは、我が国特有の「二院制」の問題もあろう。
 確かに「参議院」においては解散総選挙の制度もなく、一旦議員に選出されたなら何ら実力がなくとも次期参院選までの6年間その地位が安泰なのである。 しかも内閣の閣僚としても選出され得るし、政権政党の民主党において今回鳩山退陣劇の引き金を引いたごとくの国政における大いなる影響力も行使できる立場にあるのだ。
 先進国において未だこのような「二院制」を採用しているのは我が国のみであるようだが、今後の議論を呼ぶ課題であろう。

 今回の「ミヤネ屋」においては、マスメディアのあり方や国民の責任に関する見識者の見解も存在した。
 情報発信側のマスメディアとは受信側の多様性を心得えて情報を吟味するべきであるにもかかわらず、単に自己利益の追求のみに溺れ受信側の世論誘導を操るべく存在している観は否めない。 この実情に関して情報発信側のメディアには是非共自主規制等の自助努力を望みたいものである。

 一方で、首相と内閣の短命には“国民側にも責任がある”との見識者の発言には大いなる違和感を抱いた原左都子だ。
 某女性学者の見解によると、政治家にとって今の「国民は恐い」のではないかとのご意見である。 ネット世界が進展を遂げるのに平行して、個人がブログ等のネット媒体でいくらでも公に物申せる時代が訪れている。 たとえ相手が政治家であれ国民個々人が簡単に叩ける時代が到来していることも現在の内閣短命をもたらしている根源である、とこの女性学者はさも国民側に非があるごとくの見解を昨日の「ミヤネ屋」において表明していた。


 最後に私論で締めくくろう。

 国政を真に変える原動力となるのは、まさに有権者である国民でしかあり得ない。 国政が成り立つ源とは「国民が存在する」が故であることを、政治家も見識者も決して忘れてはならない事実なのだ。 
 それは、株式会社における出資者である株主の存在と類似したものがあると私は捉える。(国政においても「株主総会」に相当するべく出資者(納税者)が経営者である政治家を評価し人事に物申せる「国民総会」でも開催する権限が委譲されるとよいのにと提唱したくもなる。)
 国民が政治家を公に叩けるようになった現状とは決して「弊害」ではなく、これはまさしく「進化」なのである。  政治が“お上任せ”で国民が我関せずだった古き時代は既に過ぎ去り、有権者参加の国政を実現しようとしているのが昨夏の政権交代だったのではないのか。 この肝心な要点を見識者たる者が勘違いしてはならない。  昨夏の民主党による政権交代の最大の功績は “有権者全員参加の国政”の一歩手前の段階の“国民の政治に対する目が肥えた”ことにあると私は捉えている。
 経済高度成長期頃より、国際的観点から 「経済一流、政治三流」と蔑まれてきたこの国において、遅ればせながらも初めて国政に対する有権者の目を覚まさせた民主党の功績は、その意味において大きいものがあると私は考察するのだ。
 (決して「経済三流、政治も相変わらず三流」の国に今後成り下がらない政策をお願いしたいものだが。)


 今夜もうすぐ「菅新内閣」が発足するが、有権者である“もの言える”国民が政治を監視していることを常に恐れず意識しつつ、昼間仙谷氏が公言した「仕事大好き新内閣」が真にスタートすることに少しは期待する一国民の原左都子である。