今朝方の東京地方の最低気温は、21℃程だったのだろうか。
夜中の3時頃、夢を見ている途中だった私は、東側の窓から忍び込んでくる“肌寒い”とさえ感じられる冷気を含んだ風がさわさわと窓のカーテンを揺らす音で目覚めた。
おそらく今夏一番の涼しい朝を迎えた夏の終わりの夜に、私は不思議な夢を見た。
その夢の登場人物は私の過去の恋愛相手である。 当該恋愛相手が私の夢に登場したのはおそらく30年ぶり程のことと思われるほど、私の潜在意識の中にさえ存在するはずはないと自分では認識している人物の夢だった。
すっかり忘れ去ったはずの恋愛なのに、何故にこの夏の終わりの涼しい夜に私の脳裏に突然その恋愛が蘇ったのか、私自身が実に不思議なのだ。
夢の内容といえば例外なく夢特有に曖昧模糊としているのみで、摑みどころがない展開である。
少し端折ってその内容を振り返ると、どういう訳か私がその人物と国際航空便で海外旅行に向かっていて、その機内の風景が夢の舞台である。 そしてまたどういう訳か、小中学校時代の幼馴染の男の子達も数人出演してくれている。 そんな中、これまたどういう訳か機内放送で私達カップルが紹介される場面になるのだが、乗客の皆が我々を祝福してくれるのだ。(さらに詳細部分もあるが、これを公開するとその人物が特定されてしまうため以下は略すことにしよう。)
いずれにしても“いい夢”だったことは確かだ。 きっと、涼しい夜に心地よく眠りに付いていた私の脳裏に、一時の安らぎがもたらされたのであろう。
ところが実際のその恋愛自体は、決してハッピーエンドの道を辿ってはいないのだ。
当時、片田舎の学生同志だった若かりしカップルは、若気の至り故に羽目を外しては無茶をしたりもしつつ、若き日の青春の日々を二人で綴っていた。
悲しい事に、若き日の恋愛とは必ずや別れが訪れるものである。 その“別れ”の想い出が美しいならば、もしかしたらすばらしい過去の恋愛の歴史として、顕在的にその歴史を自らの脳裏に刻み続けることが可能だったのかもしれない。
ところが私のこの恋愛はそうではなかった。 私の認識では、なぜ二人が別れたのか捉えどころがないまま自然消滅したとも言えるのだ。
当時の私は、相手の男性の方が“悪い”からそういういきさつになったと信じて疑っていなかった。 私はその恋愛を続行したいと思っていたのに、相手が自分勝手だったから故に訳がわからないまま恋愛が終焉せざるを得なかったのだと、ずっと認識していた。
その時の私の相手に対する“恨み”にも似た心情すら、時間の流れと共に潜在意識の中で既に消滅しているはずだった。
そんな時、昨夜の窓のカーテンを揺さぶる冷気を含んだ風が、眠る私に事の真意を再考するように促したとも思えるのだ。
その登場人物と綴った様々な恋愛風景が、長い年月を経た今になって、涼しい夏の終わりの真夜中にフラッシュバックしたのだ。 私の方こそが自分勝手な行動を散々取ったその頃の日々の奔放な風景が、私の脳裏に走馬灯のように駆け巡ったのである。
一例を挙げると、当時学生だったダンス好きな私は学生主催の“ダンパ”(ダンスパーティ)を好んでいたのだが、それに私が参加するのを嫌う恋愛相手が「出来ればダンパには行かないで欲しい」と言うのを軽く蹴散らして、ダンパに参加し続けていた。そこで知り合った別の男子学生と軽いノリでドライブを楽しんだりもした。 そんな若気の至りの軽薄過ぎる私の行動を、表面上は「いいよ」と許してくれた相手の心中に、私に対する不信感が徐々に募っていたことは今振り返ると明白である。
そんなこと、30年以上も経った今となってはもうどうでもよさそうなものなのに、何故か今年の夏の終わりの冷気を含んだ風が私に“みそぎ”を迫るかのごとくに、私のかすかな潜在意識に吹き込んだとも受け止めることができる、何とも不思議な今朝方の夢である。
いや~~~。(“みそぎ”が終わった後の)今朝の目覚めのすばらしいこと。
何だか少し身軽になった気分で素敵な秋を迎えられそうだなあ~。
夜中の3時頃、夢を見ている途中だった私は、東側の窓から忍び込んでくる“肌寒い”とさえ感じられる冷気を含んだ風がさわさわと窓のカーテンを揺らす音で目覚めた。
おそらく今夏一番の涼しい朝を迎えた夏の終わりの夜に、私は不思議な夢を見た。
その夢の登場人物は私の過去の恋愛相手である。 当該恋愛相手が私の夢に登場したのはおそらく30年ぶり程のことと思われるほど、私の潜在意識の中にさえ存在するはずはないと自分では認識している人物の夢だった。
すっかり忘れ去ったはずの恋愛なのに、何故にこの夏の終わりの涼しい夜に私の脳裏に突然その恋愛が蘇ったのか、私自身が実に不思議なのだ。
夢の内容といえば例外なく夢特有に曖昧模糊としているのみで、摑みどころがない展開である。
少し端折ってその内容を振り返ると、どういう訳か私がその人物と国際航空便で海外旅行に向かっていて、その機内の風景が夢の舞台である。 そしてまたどういう訳か、小中学校時代の幼馴染の男の子達も数人出演してくれている。 そんな中、これまたどういう訳か機内放送で私達カップルが紹介される場面になるのだが、乗客の皆が我々を祝福してくれるのだ。(さらに詳細部分もあるが、これを公開するとその人物が特定されてしまうため以下は略すことにしよう。)
いずれにしても“いい夢”だったことは確かだ。 きっと、涼しい夜に心地よく眠りに付いていた私の脳裏に、一時の安らぎがもたらされたのであろう。
ところが実際のその恋愛自体は、決してハッピーエンドの道を辿ってはいないのだ。
当時、片田舎の学生同志だった若かりしカップルは、若気の至り故に羽目を外しては無茶をしたりもしつつ、若き日の青春の日々を二人で綴っていた。
悲しい事に、若き日の恋愛とは必ずや別れが訪れるものである。 その“別れ”の想い出が美しいならば、もしかしたらすばらしい過去の恋愛の歴史として、顕在的にその歴史を自らの脳裏に刻み続けることが可能だったのかもしれない。
ところが私のこの恋愛はそうではなかった。 私の認識では、なぜ二人が別れたのか捉えどころがないまま自然消滅したとも言えるのだ。
当時の私は、相手の男性の方が“悪い”からそういういきさつになったと信じて疑っていなかった。 私はその恋愛を続行したいと思っていたのに、相手が自分勝手だったから故に訳がわからないまま恋愛が終焉せざるを得なかったのだと、ずっと認識していた。
その時の私の相手に対する“恨み”にも似た心情すら、時間の流れと共に潜在意識の中で既に消滅しているはずだった。
そんな時、昨夜の窓のカーテンを揺さぶる冷気を含んだ風が、眠る私に事の真意を再考するように促したとも思えるのだ。
その登場人物と綴った様々な恋愛風景が、長い年月を経た今になって、涼しい夏の終わりの真夜中にフラッシュバックしたのだ。 私の方こそが自分勝手な行動を散々取ったその頃の日々の奔放な風景が、私の脳裏に走馬灯のように駆け巡ったのである。
一例を挙げると、当時学生だったダンス好きな私は学生主催の“ダンパ”(ダンスパーティ)を好んでいたのだが、それに私が参加するのを嫌う恋愛相手が「出来ればダンパには行かないで欲しい」と言うのを軽く蹴散らして、ダンパに参加し続けていた。そこで知り合った別の男子学生と軽いノリでドライブを楽しんだりもした。 そんな若気の至りの軽薄過ぎる私の行動を、表面上は「いいよ」と許してくれた相手の心中に、私に対する不信感が徐々に募っていたことは今振り返ると明白である。
そんなこと、30年以上も経った今となってはもうどうでもよさそうなものなのに、何故か今年の夏の終わりの冷気を含んだ風が私に“みそぎ”を迫るかのごとくに、私のかすかな潜在意識に吹き込んだとも受け止めることができる、何とも不思議な今朝方の夢である。
いや~~~。(“みそぎ”が終わった後の)今朝の目覚めのすばらしいこと。
何だか少し身軽になった気分で素敵な秋を迎えられそうだなあ~。