原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

グッドバイバイバイキング

2008年06月17日 | その他オピニオン
 私は昔からあの“バイキング”なる食事の方式が大の苦手だ。動物がエサをあさっている姿を連想してしまうためだ。あれ程行儀の悪い食事の仕方はないと思っている。

 バイキングとは元々海賊のバイキングの祝宴や北欧の前菜料理の形式をまねて日本で名付けられた食事方式である。
 このバイキング料理の発祥の地は東京都千代田区にある帝国ホテルの17階のレストランであるらしい。そのレストランがこの夏開店50周年を迎えるにあたり、記念割引企画を実施するとのことである。格安の家族向けプランや宿泊との組み合わせプランも用意されているらしい。

 
 我が家では、一家でバイキングが嫌いだ。
 まず、お盆やお皿が重くて細腕で持つのに難儀する。そして、子どもが小さいとさらに大変だ。子どもが自分で持てないため親は何度もバイキングテーブルに足を運ばざるを得ずなかなか自分のテーブルに付けないため、料理が冷め切ってからの食事となる。
 バイキングテーブルは大抵人でごった返している。客が我れ先と好物料理にたかり、上述の通りエサをあさる動物そのものだ。見ていて何だか惨めったらしい感覚さえある。
 料理は一体いつ作られたものやら不明だ。暖める演出がされているがあれは暖め直しであり、また新鮮そうに見えても実際新鮮な食材が置かれている訳がない。
 そして、不潔だ。人ごみの中開放して置かれている料理は目には見えずとも埃だらけであろう。それを人が行き交う中を遠くのテーブルまで運ぶ。さらに不潔だ。
 加えて見た目も汚らしい。一人ひとりがバイキングテーブルの料理を混ぜ繰り返している。それを自分もお皿に取る。中には係員がお皿にサーブしてくれる所もあるが、いずれにしても種々の料理がお皿の中で混ざる。ソースがかかった料理など悲惨だ。どう見ても“エサ”だ。 料理のひとつの醍醐味は視覚に訴える盛り付けである。私など、実際に食べる行為よりこの盛り付けを観賞する方が好きな程だ。フランス料理や日本の懐石料理等の盛り付けのプロ技はまさに芸術品である。バイキングはこんな楽しみが一切なく、やはり“エサ”でしかない。 

 と言う訳で、我が家ではこの“バイキング”は普段一切利用しない。ではなぜその実態を知っているかというと、旅行先で体験せざるを得ないからだ。
 旅行において食事がバイキングでないことは我が家の場合キーポイントであるため、当然前もって調べる。夕食に関しては選択の余地があり、バイキングを避けることは十分に可能である。ところが、朝食に関しては国内外を問わず今やほとんどの宿泊施設がバイキングなのだ。“味わいの宿”等と称する老舗でさえ朝食はバイキング方式を採用している宿が多い。日本旅館の部屋食かホテルのルームサービスでも利用しない限り、大抵はバイキングである。(この部屋食やルームサービスは係員に部屋に入り込まれるという煩わしさがあり、私は気を遣い過ぎるが故に多少苦手である。詳細はまた別の機会に記すが。)たまに朝食も部屋食でなくても個食の宿泊先があり人間味を取り戻せる思いだ。
 

 社員食堂や学生食堂がこのバイキング方式を採用している分には、効率上ある程度やむを得ないとは思う。そういう場では食事を楽しむことが本来の目的ではないため、食べる側も最初から多くは望んでいないであろう。
 一方で、需要の多さにつけこんで商魂たくましく、一流ホテルや高級レストランまでがこのバイキング方式を取り入れている実態にはほとほと呆れるばかりである。おそらくコストパフォーマンスが高く高収益なのであろう。まず、人件費が大幅に削減できる。そして、料理が一度に大量生産可能であるため光熱費等諸経費の削減も可能であろう。さらに、高額な食材を使用する必要もなく食材費も軽減できる。バイキングは提供側としては美味しい要素が揃っているのであろう。(余り料理の行方等、叩かれるべきマイナス要素も実は盛り沢山であろうが…。)

 世にバイキング嗜好者は多い。それ故に世間でこれだけバイキングがもてはやされているのだ。バイキング嗜好者にとっては、自分が好きな料理を自由に選択出来て沢山食べられるのがその第一の魅力であるようだ。
 私に言わせてもらえれば、美味しいものとは少しだからこそ尚美味しいのに…。

 
 食事なるものは気が置けない相手とお酒でも飲みながら語らいながらゆっくりと料理を味わう、そんなひと時を楽しむところに価値があるものだ。お皿を持った客にうろうろとテーブルの近辺を歩き回られたのでは、落ち着いて食事を楽しめたものではない。
 私は今後も一貫して“グッドバイバイ、バイキング”である。  
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