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原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「“商法”の対象」論 学説研究

2019年01月26日 | 左都子の市民講座
 今のこの時期、ちょうど大学の後期試験が実施されている頃だろうか?

 ここのところ、我がエッセイ集「左都子の市民講座」カテゴリーの閲覧が増えている。
 この「左都子の市民講座」は、“経営法学修士”を取得している我が学術経験や、高校教師として「商業法規」の授業を担当した時の授業ノートを参照しつつ、「法学」関連項目を中心に素人にも分かりやすく解説した内容である。

 近年綴った「左都子の市民講座」の中には、多少難易度を上げ、大学の定期試験にも対応できそうな話題も取り上げている。
 例えば2017.06.02公開の「普通取引約款に関する学説研究」などは、まさに我が学生時代に定期試験対策用として自分で模範解答を作成した内容である。
 本文内でも断っている通り、あくまでも30年程前の我が学生時代に記載したものであり、その後の法規改正等々時代の趨勢に対応出来得るものではなく、また学術的誤りも多々あろう事をご承知願った上で参照して頂ければ幸いなのだが。

 それにしても、ここのところ「左都子の市民講座」カテゴリーへの閲覧がスタンダードに寄せられている事実に気を良くして。
 本日の当エッセイ集に於いては、30年程前の我が「商法Ⅰ」大学講義ノートより、表題の「“商法”の対象」論に関して公開させていただこう。


「商法」とは何か。
 これに付き形式的意義に於ける商法、すなわち、「商法」という名称で制定された法典であると答える方法と、実質的意義における商法、すなわち、法律の規制対象とされる生活関係の実質的内容に基づいて分類される商法、と答える方法がある。 問題となるのは後者である。
 商法は、歴史的にまず商人法として生まれ発展した。 つまり商人という概念が先にあり、その商人の生活関係を規制対象とする法規制として商法が生まれた。 近代になり、商法はそれまでの商人法から商行為方へと転換した。 すなわち、誰であろうが商行為を行った時に生ずる生活関係を規制対象とされるようになる。 そうなると、一般市民の生活関係を規制する民法との規制対象との相違が問題となる。

 商法の規制対象に関する学説論争は、商法に定められた商行為を所与の前提としてこれを検討することから始まった。 
 「媒介行為説」とは、“固有の商”すなわち、財貨交換の媒体行為に着目し、そこから製造業、加工業、補助商、さらに第三者の商へと拡大し、それらを商行為と捉え商法の対象とした。 この説は発生史的な関連を説明しているが、固有の商とその他の商との共通の原理が明らかにされておらず、支持を失ってきている。
 「実証説」とは、商法典が商として定められているものが対象となると考えるものであるが、共通の原理を統一的に把握する事を断念しており、支持されていない。
 「商的色彩説」とは、民法が規定している対象がもっている特色を把握し、その中で商的色彩を持つものが商法の対象となる、と考えるものである。 やはり共通の原理を把握する事は断念しているが、民法に対する商法の独自性を理論的に確立するという役割を果たし、また、商行為についての統一的な把握への方法論的きっかけを提示したという点で意義がある。
 今日(30年程前時点)では、商法の対象を企業の生活関係として捉える「企業法説」が通説となっている。 すなわち、利潤追求の目的で投資するという経営の方法、方式により捉えるものである。 しかし、企業とは関係がないのに商法の対象とされているものもあり、これらは「企業法説」からすれば商法の対象から控除されるべきこととなる。 手形・小切手法は企業法に含まれるか否かの問題については、実務上、銀行と無関係に利用する事は稀であるため商法的であり含まれるとする。 独禁法については、自由競争における経済的秩序の維持が目的であり、商法とは経済に関する規制の仕方が異なるため含まれない、とするのが通説であるが、企業法の基本原理を定めているから商法に含まれる、とする説もある。

 現代(30年程前時点)の企業を鑑みた場合、利益の等質性、立場の相互交換性のような性質は既に失われており、従来の伝統的商法には企業の実態に合わなくなってきている。 商法典が基本ではあるが、独禁法、証取法等すべて含めて、新しい企業法として研究していく必要性がある。 新しい企業観に基づき企業の社会的責任を追及し、意思決定への市民の参加、情報の開示、また、集団企業の法規制、多国籍企業の法規制等も商法に加える必要がある。

 (以上、私が30年程前に大学の定期試験用に作成した記述を引用したもの。) 


 ここで私見だが。

 いやいや上記記述内の、特に最後の部分に記した内容など。
 あれから30年との年月が経過した現在、「商法」を取り巻く企業・経済社会環境が世界規模で大々的に移ろい行き目まぐるしい程の革新の一途を辿った。
 その間に我が国でも「商法改正」が実施され、現在の「商法」の“あり方”議論も大幅に移ろいだ事であろう。


 2008.01.04公開の「左都子の市民講座」バックナンバー「法の適用と解釈(その1)」に於いて、私は以下の記述をしている。
 
 法律は解釈論が面白い。
 元々理論派の私は法解釈の“理屈っぽさ”にはまってしまい、学業の中途から「経営法学」へ方向転換したといういきさつがある。

 まさにその通りだ!
 私が二度目に通った大学に「経営法学コース」があった事が実に幸いだった。
 そのコースにて素晴らしい指導教官氏との出会いが叶い、私はその後修士課程へ進学し「経営法学修士」を取得する事が叶った。

 この経験無くして、更に後の「原左都子エッセイ集」開設もあり得なかったこととも振り返る。
 いや、確かに元々理論派だった事実には間違いないが。
 それでもやはり、二度目の大学・大学院にて学び論文を書き上げた事実が大いに活き、その結果としてこの「原左都子エッセイ集」に於ける“辛口論評”が冴え渡る(??)結実となったものと自負している。

 当該エッセイは「左都子の市民講座」カテゴリーとして公開するため、私事の披露はこの辺で済ませよう。

 学生皆さんの向学心持続の程を応援しつつ、今後も機会ある毎に「左都子の市民講座」の充実も目指したいものだ!

日本国憲法の基本原理に関する一考察

2018年05月03日 | 左都子の市民講座
 本日憲法記念日にして随分と出遅れたが、表題に提示した「日本国憲法の基本原理」に関して、我が1987年頃に学んだ学生時代の講義ノートより一部を引用しよう。

 
 日本国憲法の基本原理
 
 1、平和主義  (憲法9条)
 2、国民主義   天皇制
 3、基本的人権の尊重  
  (これらすべてに関する事項が、憲法前文に記載されている。)


 これらは、明治憲法(大日本帝国憲法)には一切無かった原理である。
 

 それでは、現在の日本国憲法は、良いのか、悪いのか?? 
 一論として、現日本国憲法は、世界的に妥当し得る 一般的、常識的憲法であるとの評価も定着している。


 上記のうち、平和主義を取り上げよう。

  平和憲法(憲法第9条)とは。
  戦力放棄に関する条文だが。

 これに関しても、学説内での解釈議論が存在する。
 
 〇 自衛隊を合憲とする政府見解
    A.  第9条は自衛のための戦力保持をも認めない、とする見解。
       自衛と戦略との区別が困難。 軍隊=弱者国民(弱者)
       正義との後ろ盾をもって戦争を肯定し得る?
       自衛権の行使は戦略行為につながる

       自衛隊はその「戦力」にはあたらない。
       そもそも「戦力」とは、近代戦争遂行に達したもの。
       自衛隊は、そこまでは達していない。
       従って、自衛隊は憲法第9条に違反していない。
                (以上は、昭和30年頃までの解釈。)

    B. 昭和60年頃の政府解釈
       第9条は、国の自衛権を否定するものではない。


 法解釈としては。
 自衛隊は憲法に違反するか?  2通りの解釈が存在する。

 しかし、実際は。
 解釈者の政治的意図 及び 主観的判断 をして、解釈に至らしめている。
 その点で、解釈するものの責任論が問われる。
 この現象は、憲法第9条に於いて、典型的に表れる。


 
 以上、ほんの少しだが、原左都子が過去(1980年代後半期)に学んだ大学に於ける「憲法」授業よりその講義ノートの一部を紹介した。

 この「憲法」授業を担当されていた教官氏に関しては、今尚鮮明に記憶している。
 関西地方の他大学から任命され、我が大学の助教授として「憲法」を受け持っておられたが、その授業内容が濃厚だった事実が印象深い。 当時既に30代だった私とさほど年齢が変わらない世代の教官であられたが、いつも関西弁で熱弁されていた事を懐かしく思い起こす。


 上記に紹介した「憲法第9条」に関しても、授業の最終章では。
 上記のごとく、解釈者の政治的意図 及び 主観的判断 をして、解釈に至らしめている。 その点で解釈するものの責任論が問われる。 この現象は、憲法第9条に於いて、典型的に表れる。
 と結ばれている事実に、現在尚同感申し上げる。

「普通取引約款」 に関する学説研究

2017年06月02日 | 左都子の市民講座
 久しぶりの「左都子の市民講座」カテゴリーエッセイの執筆だが、今回は先だって公開した「左都子コレクション —大学(大学院)講義ノート編― 」より引用しよう。


 以下に紹介するのは、「商法総則」の講義内容より「普通取引約款」に関して、定期試験対策用に原左都子がまとめた内容である。
 何分、20数年前の大学講義よりの引用であり、また、あくまでも当時一学生であった私が自ら記述したノート内容であるため、学問的誤りや不十分な点がある場合お詫びします。


 普通取引約款とは、企業がその顧客と取引するに際し契約諸条件をあらかじめ定型化し、不動文字にて書面に印刷したものであり、これにより多数の顧客との個々の取引を一律になそうとする場合の定型的契約諸条件をいう。 
 約款が拘束力を持つのは何故か、約款は如何に解釈されるべきか、更には約款に対する国家規制が問題となる。

 まず、約款が「法規制」であるか否かに関して。

 「約款が自治法であるとする代表的学説」は“社会あるところに法あり”に法諺を援用して、団体の自主制定法規に法源制を認め約款もその一例とみる、とする。 これが我が国に於ける通説である。

 これに対し、「契約型理論」は約款それ自体としては直ちに拘束力は持たず、拘束力を持つためには企業と顧客の意思を何らかの形で媒介する必要がある、とする。
 そのうち、「意思の推定説」はその根拠として契約者が署名した事実を挙げる。 我が国の判例の立場でもあるが、契約者が意思の不存在を証明した場合には拘束力が認められなくなり、取引の安全を害するとの批判が多い。 
 あるいは「白地慣習説」は、契約が約款によること自体が商慣習化している点に拘束力の根拠を求める。 我が国の多数説であるが、この説に関しては新種企業に於ける新約款採用の場合の説明が出来ないとの批判がある。
 また、約款とは企業の理念実現のために企業に装備されている制度的所産であるとする「制度説」もある。
 これらの説は約款の拘束力を当然視するものであり、消費者保護意識が希薄と言えよう。

 これらに対し全く違った観点から、約款の拘束力根拠を契約両当事者の“意思の合致”に求める事により、約款の内容的限界付けをなそうとするのが「客観的合意説」である。 この説によると、客観的合意の範囲に於いてのみ、すなわち、企業の意思と契約者の対価性確保の期待へ向けられた意思が合致してのみ、約款は拘束力を持つこととなる。

 さらに「法律行為的合意説」とは、約款の使用者が約款を使用する旨を相手方に明確に指示し、相手方である企業がこれに異議を唱える事無くして契約締結することを要するとの説である。 要するに、あくまでも消費者保護観点よりの学説だ。

 (以下は、20数年前当時の原左都子の私論のようだが…)

 約款の拘束力を相対視する学説では、両当事者により合意されたところの約款の範囲、内容的限界付けが解釈に於ける基本的問題となるが、対価性を基準として約款条項の相当性・不当性が判断されてこそ当該学説が活きよう。
 最後に掲げた「法律行為的合意説」に於いては、立論の基礎に“個々の当事者の意思”が置かれているため、契約締結時の個々の事情を含め契約内容の限界付けが成されねばならない事態となろう。
 私論としては、「普通取引約款」問題に於いても、企業側及び消費者、両当事者同士の地位互換性が失われている現代社会に於いて真の意味での“消費者保護”がなされると共に、企業の計算可能性維持も図られるべきとの結論に至る。

 (以上、20数年前に記した「原左都子コレクション -大学(大学院)講義ノート編」より、商法総則「普通取引約款」ページより引用したもの。)


 「左都子の市民講座」カテゴリーに於いては珍しい事だが、最後に今現在(2017.6.2)の原左都子の私論を述べさせていただこう。

 どうやら私は20数年前の当時から、「普通取引約款」に関し“企業側の利便性”を優先するべく解釈をしている「通説」ではなく、“消費者保護”も吟味している学説群を支持していたようだ。
 人間の思想とは、時代の変遷や社会の変動によってもさほど揺らぎが無い事に自分ながら安堵する。

 ただ、悲しい事に現状の「普通取引約款」が置かれている状況を自ら体験するに、どうしても「通説」である“企業側の利便性”優先で成り立っている事実に落胆させられる。
 それはもしかしたら、アベノミクス経済政策後に更に急速化した感もあるのが恐怖でもある。 
 今となっては、国民誰も「普通取引約款」など一読すらしないのではあるまいか??

 どうか国民の皆様、法律学者達の中には上記のような「学説論争」に消費者保護の観点から取り組んでいる人物も存在する事実に鑑みて、企業との諸契約締結時には何卒「普通取引約款」をご一読し、異議があれば契約締結前に相手方企業と議論される事をお勧めします。


 (ついでだが、当時の文章の“論調”が現在の「原左都子エッセイ集」同様である事に自分で驚かされる。 20数年前に大学(大学院)にてノートを聞き取り書きした当時以前より我が論調が育まれて来たことを物語るものであり、我ながら感慨深い。)

「公証役場」 とは如何なる役場か?

2013年07月11日 | 左都子の市民講座
 昨日、私は生まれて初めて 「公証役場」 なる場所に出向いた。

 都心の電車の車窓から見渡せるビル内に、「公証役場」との看板を掲げる事務所が存在する事は昔から心得ていたものの、一体何をする“役場”なのかに関しては「経営法学修士」を取得している原左都子にして、恥ずかしながら最近まで知らずに過ごして来た。
 加えて、そもそも「役場」との名称を使用している割には中小規模の事務所らしき外観が、何を目的とした場なのかとの不可思議さを漂わせていた印象がある。


 ここでウィキペディア情報により、「公証役場」の定義を紹介しよう。

 公証役場(こうしょうやくば。公証人役場ともいう)とは、公正証書の作成、私文書の認証、確定日付の付与等を行う官公庁である。 各法務局が所管し、公証人が執務する。官公庁ではあるが、公証人独立採算制がとられている点が一般の官公庁と異なる特徴である。 公証役場は全国に約300カ所存在する。
 
 原左都子の私論(と言うより「感想」)だが、 へえ~~。 そうだったんだ。
 今更ながらではあるが、公証役場が「役場」と名乗るべく必然的根拠をウィキペディア情報により理解できた。 官公庁法務局が所管している事務所であるが故に「役場」には間違いない。
 ただし、“公証人独立採算制”がとられているとの文言が興味深くもある。


 そこで次なるテーマとして「公正証書」及び「公証人」とは何ぞや? に関して調べてみた。

 まずは「公正証書」に関する総論的解説をウィキペディアより参照しよう。
 「公正証書」とは公務所又は公務員がその職務上作成した文書の事であり、そのうち公務員がその権限に基づき作成した証書が広義の公正証書である。
 狭義の公正証書とは、広義の公正証書のうち、公証人法等に基づき公証人が私法上の契約や遺言などの権利義務に関する事実について作成した証書をいう。
 一般に「公正証書」という場合、狭義の公正証書を指す。

 次に「公証人」に関して同じくウィキペディアより引用する。

 公証人(こうしょうにん)とは、ある事実の存在、もしくは契約等の法律行為の適法性等について、公権力を根拠に証明・認証する者のことである。
 日本においては公証人法に基づき、法務大臣が任命する公務員であり、全国各地の公証役場で公正証書の作成や定款や私署証書(私文書)の認証、事実実験、確定日付の付与などを行う。 2000年9月1日現在、日本全国で公証人は543名存在する。
 公証人の起源についてはローマ法に由来するとされ、中世の神聖ローマ帝国(ドイツ・イタリア)が始まりと言われている。 当初は商業上の契約や帳簿など広範の私的文書作成を担当してきたが、14世紀以後商人達の識字率向上や複式簿記の発達などに伴って専ら法的文書の作成に従事するようになる。
 現在多くの国では、公証人は法曹あるいはそれに準ずる資格の保持者であることが多い。 一方アメリカではわずかな講習で容易にその資格が取得でき、学校や郵便局などあらゆる場所に総計400万人もの公証人がいて、その権限もおおむね署名の認証に限られているなど、国々によってその権限はかなり異なる。
 日本の公証人沿革に関しては、1886年にフランスの制度を参考にして「公証人規則」が制定され、その後1908年にはドイツ式に改められた「公証人法」が制定された。
 公証人は法務大臣が任命する実質的意義の公務員であり、公証役場で執務している。国家公務員法における公務員には当たらないが、実質的意義においては公務員に当たると解されている。 現在の職務に関しては守秘義務を負い(公証人法4条)、法務省の監督に服する(公証人法74条)。また公証人には職務専従義務があり兼職は禁止されているため、弁護士や司法書士などの登録は抹消しなければならない。
 公証人法の原則では、公証人は公証人試験に合格した後に法務大臣が任命することとなる。(公証人法12条)。 しかし公証人法に定める試験は実施されたことがないのに加えて、公証人法には他の資格試験のように「1年に何回以上試験を行わなければならない」という規定がない。 そのため、公証人とは司法試験合格後司法修習生を経て、30年以上の実務経験を有する裁判官(簡易裁判所判事は除く)、検察官(副検事は除く)、弁護士、および法務局長経験者から任命されるのが実態である。 
 公証人は70歳まで勤務することができるため裁判官、検察官、および法務省を退職した後に就くことが多い他、特例として 学識経験者からの任命(特任公証人、公証人法13条の2)、多年法務に携わりこれに準ずる学識経験者で「公証人審査会の選考」を経た者も任命できる。 これらの者の場合は試験と実地修習は免除されるが、公募に定員の倍数を超える応募があった場合は短答式試験・口述式試験を実施して選考する。
 報酬に関しては、公証人はあくまで公務員だが、指定された地域に自分で公証役場(公証人役場)を開き、書記らを雇って職務を遂行する。 国家から俸給を得るのではなく、依頼人から受け取る手数料が収入源の独立採算制であるため、当然扱い件数の多い東京や大阪などの大都市では、年収3,000万円を超える公証人も多数存在する。
 (以上、ウィキペディア情報より「公正証書」「公証人」を要約引用。)

 なるほど、重々納得である。


 ここで原左都子の私事に入るが、冒頭に記した通り私は昨日殺人的猛暑が続く最悪の気候条件の下、都内の“とある”場所に位置する「公証役場」へ向かった。

 何分、義理姉が6月末に不覚の死を遂げてしまった。 
 それに伴い、今後の相続人の一員となるべく身内の立場としては、義母が以前公証役場にて作成した「遺言状」の書き直し作業を再び「公証役場」に依存せねばならない。

 我々が出向いた「公証役場」は都内“とある”場所の駅近くのビル内に位置していた。 そして我々一族担当の「公証人」氏は十分な専門力を培っておられる事は元より、終始親切な対応力で臨んで下さった事が印象的である。
 しかも「遺言状」作成とは「公証役場」にて実行した場合、私の想像以上に“安価”しかも“確実”であることも昨日実体験できた思いだ。

 「遺言状」作成に当たり、下手に一族でもめた挙句に、例えばの話が大阪の“角田美代子家連続殺人事件”等の悲惨な殺戮を身内で繰り返したくないのが人情であろう。
 ここは現行法律に遵守している点で信頼できる「公証役場」に、遺言書作成を依存しておいた方が一族の得策かとも言えそうだ。

法の適用と解釈(その2)

2008年01月06日 | 左都子の市民講座
今回は“左都子の市民講座”「法の適用と解釈」の後半、「法の解釈」について解説しよう。



Ⅱ 法の解釈


 ①法の解釈とは?

   法文の意味や内容を明らかにすること。
   具体的事実に対し、法を適用するときにその解釈が必要となる。

 ②法の解釈の意義

  ○抽象的表現の具体化、明確化
    例:民法1条の3「私権ノ享有ハ出生ニ始マル」
       では、「出生」とはいつなのか? 学説は分かれる。
        ・陣痛開始説
        ・一部露出説 ← 刑法の通説
        ・全部露出説 ← 民法の通説
        ・独立呼吸説 
     ※ 刑法においては人名尊重の観点から「出生」を早期に解釈するのが
       通説の立場
       胎児であるか、人であるかにより適用される条文が異なり、刑罰の
       重さが異なってくる。 → 人を殺した場合は殺人罪
                      胎児を人工的に流産させた場合は堕胎罪

  ○法律の非流動性と社会現象の流動性とのズレを埋める
    法 … もともと最高に強力な社会規範
         この最高に強力な社会規範が流動的であったならば、人々は
         何を基準に生きてよいのかその方向性を見失ってしまう。
         そこで法とはそもそも非流動的な存在である。
        解釈により非流動的な法と流動的な社会現象とのズレを埋める。


 ③解釈の方法

  ★有権解釈
    国家の各機関により与えられる解釈

  ★学理解釈
    学理に基づいて法文の意味を明らかにする解釈

   A.文理解釈
     法文の文字や語句の意味、及び法文を文法に基づいて明らかにする解釈
     文字通りに解釈すること
      欠点:融通が利かない。
         杓子定規な解釈となり、法の目的が損なわれることもある。
          例:“車馬通るべからず”
             本来の意味は“乗り物は通ってはいけない”
             これを車と馬は通ってはいけない、と解釈するのが
             文理解釈。

   B.論理解釈
     法文の文字や語句にこだわらず、論理体系的に解釈すること。
     すなわち、法の制定の目的、他の法令との関係、法典全体の組織、
     社会現象の変化、その他を考慮して解釈すること。
     法的安定性、法的妥当性、論理一貫性、具体的妥当性を追求しながら
     解釈すること。

    a.拡張解釈
      文字や語句の意義を、それが本来もつ意義よりも拡げて解釈すること
       例:刑法第129条1項にガソリンカーも含めた例
          刑法第129条は汽車、電車、艦船について定めた条文であ
          るが、これにガソリンカーも該当すると拡張解釈した。
                 ↓
       ただし、刑法における拡張解釈は人権侵害に結びつく危険性あり
                 ↓
       なるべく避けるべきというのが通説。
       学説によっては刑法における拡張解釈を禁止する説もある。

    b.縮小解釈
      文字や語句の意義を、それが本来もつ意義よりも縮めて解釈すること
       例:民法第86条と刑法第235条の財物との関係
          民法第86条においては物を不動産と動産と定義しているが
          刑法第235条の財物には不動産は含まないと解釈する。

    c.反対解釈
      法文が規定している事項の反面から、法文に規定されていない事項を
      理解して解釈すること

    d.勿論解釈
      法文にはっきり定められていない事項でも、法文の趣旨からしてその
      法文中に含まれるのはもちろんであると解釈すること

    e.類推解釈
      よく似た事項A、Bにつき、Aに規定がありBに規定がない場合に
      Aの規定をBに適用して解釈すること
       例:“車馬通るべからず”
           牛も通ってはいけないと解釈する。
      
      刑法における類推適用の禁止
       = “罪刑法定主義” の原則に反する
            司法権の立法権への侵害となる。 

   C.目的論的解釈
     法は一定の目的をもって制定されているから、その目的に合うように
     解釈すること
      例:民法第739条と内縁関係について
         婚姻は戸籍法の定めることろによりこれを届け出ることによる           
          と定めているが、判例は内縁関係を婚姻に準ずる関係と認めた。

  ★利益衡量論 (新しい解釈法、帰納的方法)
    結論が先にあり、それに基づき法律構成をする、という考え方
    論理的解釈よりも、実務家の勘による。
     (実務家はその実務経験により、極端に言うと、どちらが善でどちらが
       悪かが直感で判断できることもあるらしい。その判断力でとりあえず
      結論を先に導いておいて、後から法律構成をするという方法。)
      
     欠点:制定法規範を無視する恐れがある。
             ↓
        法の秩序が危険にさらされる恐れがある。
    法適用の際のひとつの手段としてこの方法を用いるならば妥当性はある。