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原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

左都子の「法学概論」 小講座 Ⅱ

2020年05月11日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学の講義ノート「法学概論」より転載したもの。)



     


     


     


 冒頭写真ページの講義テーマは「権利とは何か?」である。
 我が「左都子の市民講座」カテゴリー内にも、同名のテーマエッセイが存在する。

 それを以下に引用させていただこう。

 今回の「左都子の市民講座」では、“権利”について考えてみましょう。
 ○権利と利益との違い
   権利とは、人が単に自分の利益を主張することであろうか?
   例えば、誘拐犯が人質と引き換えにお金を要求することが権利であろうか?
   そんな訳はない。
      ↓
   相手方がその要求の“社会的妥当性”を承認し、その要求に応じる義務を
   認めた場合に初めてその利益は権利となる。

   要するに、権利とは
   “私的利益”や“生活要求”を基礎とするが、それにとどまらず
   “社会的正義”としての“公的性質”をおびたものとして
   “普遍的”に承認された利益内容のことをいう。

 ○権利成立の条件
   権利が成立するための基礎的条件、前提は何か?
    ①平等性
      個人対個人の関係が平等な社会であること
       例:戦前の日本は身分制社会であったため権利が成立する
         社会的基盤は存在しなかった。
             ↓
         戦後、日本国憲法が“法の下の平等”をうたい身分制社会は
         解体された。
             ↓
         しかし、例えば、男女差別、外国人差別等深刻な差別問題は
         社会の中に根強く残っている。
             ↓
         真の権利社会を成立させるためには、まず差別をなくし、
         平等についての基礎観念を確立する必要がある。
     ②対立性
       権利は、個人対個人、あるいは個人対国家の関係が対立関係に
       あることを前提とする。
       法的な対立関係がない場合、もともと権利を問題にする必要がない
        例 : 夫婦間で財産の所有権の帰属が問題となるのは
            離婚など、夫婦に利害の対立が生じた場合である。
     ③社会的正当性についての合意       
       当事者の一方の利益の正当性が相手方によって承認され
       両者の間に合意が成立することが前提となる。
             ↓
       権利を主張する人は、その正当性を相手にわかってもらうように
       説得する必要がある。
             ↓
       その結果、対立している両者の“平和的共存”のルールとしての
       権利が確立する。
        例 : 嫌煙権問題
             喫煙者には煙草を吸う権利がある。
             しかし、他人に害を与えることは許されない。
                   ↓
             他人に害を与えないように喫煙者を義務付けること
             により、嫌煙権は成立する。
           (ただこの問題は、実際上解決策が困難な問題である。)
     ④利益の範囲の確定
       誰が誰に対し、どのような利益を、なぜ、どの範囲まで主張する
       ことが正当であるのかが、論理的に確定されることが前提となる。
        日本の社会はもともと義理人情の世界だった。
            ↓
        近年、急激に日本の社会は移り変わり、
        人と人とのかかわりが希薄化していく中・・・
            ↓
        日本経済や政治をめぐる資本と権力との癒着、汚職は
        相変わらずはびこり…       
 残念ではあるが、日本の社会はいまだ“権利社会”と言えるには程遠い…

 (以上、「原左都子エッセイ集」より2007.12.05公開エッセイを引用したもの。)


 どうやら、我が恩師である「法学概論」指導教授(S先生とする)の「権利とは何か?」の講義とは内容が異なるようだ。 (我が講座は、一体何処から引用したのだろう?? てっきりS先生講義より引用したものと思い込んでいたのだが、原左都子の完全自作だったかもしれない。)


 それでは、S先生講義よりの「権利とは何か?」の講義内容の一部を以下に掲載させていただこう。

 権利の定義に関する主張
 1.法益説
   特定の人が一定の利益を供授するために、法が貸してくれる力。(法的保護利益)
   貸してくれる力の違いにより権利を分類することが出来る。
     〇 人格権 (個人の尊厳)
     〇 肖像権、 氏名権、 名誉権、 貞操権
     〇 親族権 (親族法、相続法  昔は身分法であり、地位の承継の意味合いがあった。  今は、限定相続、相続の放棄 の権利もある。
     〇 社員権 (社員ー 民法上の社団法人を人と同じ扱いとする。→法人
          民法34,35条
     (以下略)



 最後に余談だが、上記写真で紹介しているS先生の講義内に興味深い記述がある。 
  Bioethics  生命倫理学
   日本の大学医学部では、この講義がおかれているところはない。

 確かに、我が20代に通った大学医学部では、「生命倫理学」の講義はなかった。
 ただ、30代に通った大学の医学部には「生命倫理学」(講義名が多少異なるかもしれないが)の授業があった。
 学部を越境してこの私がその授業を受講したため、間違いない。😶 
     

左都子の「マーケティング論」 小講座

2020年05月09日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、2度目の大学にて学んだ「マーケティング論」の講義ノートより、定期試験対策にまとめたものの一部。)



 前回のエッセイ「訓練された無能」(マックス・ウェーバーの「官僚制」内で使用されている学術用語だが)が意外や意外好評を博した様子で、いつもより多くのアクセスを頂戴した。😊 


 今回も、「マーケティング論」内でインパクトのあるキーワード「学術用語」がないものかと探してみたのだが。 
 残念ながら特段見つからず…


 とりあえず、定期試験用にまとめた模範解答?? を披露させていただこう。


     


     


     



 この授業は学生に“人気”があり、大勢の学生が大教室に詰めかけていた記憶がある。
 その人気の理由とは。
 何処の大学も同様だろうが、“教官氏自身が人気者だった”故のようだ。😖  (要するに、教官が「単位」や「出席」にさほど厳しくない授業だったのだろう。)😨 
 私の場合、教官の人気などどうでもよく(と言うより、人気教官の授業は混雑するためむしろ避けたかったものだが)、 必修だった??ためにやむなく受講したような記憶もある。
 あれら、社会経験の乏しい(アルバイト経験はあるのだろうが)うら若き学生達が「マーケティング論」の授業に詰めかける現象が、当時の私には到底理解不能だったものだ…

 バックナンバーにても述べているが、「経営学」とは“実践論”が多く、純粋な学問好きの私にとって違和感が否めなかった。
 それでも私の場合は過去に民間医学分野企業勤務経験があり、その企業が「全員参加の経営」をスローガンに掲げていたため、既に「経営用語」になじんでいたと言えよう。
 そのお陰で、各種「経営学」関連授業を受講しても専門用語に対して違和感なく学べた事はラッキーだった。

 この「マーケティング論」に於いても「優」評価をもらったのだが、申し訳ないことに、私にとってはさほどインパクトのない授業だったかもしれない…。


 ひとつ記憶にある話題は「トヨタの看板方式」だ。
 教官氏が授業内で少しだけ語ってくれたマーケティング用語だが、これを最後にウィキペディアより引用しておこう。

 一般にはジャストインタイム生産システムとして知られている。 ジャストインタイムで生産するために考えられた方式で、元々は「スーパーマーケット方式」と呼ばれた。 これは作業の前工程をスーパーマーケット、後工程をスーパーの顧客に見立て、スーパーマーケットである前工程は「顧客」にとって必要十分な量の部品を予想して生産し、顧客である後工程は必要に応じて「スーパーマーケット」に部品を受け取りに行くというもの。
これによりそれまで生じていた部品の需供の不一致の解消を図り、無駄を削減した。 この方式で後工程が前工程に部品を受け取りに行くときに発行する帳票を「かんばん」と称したことから、この方式はかんばん方式と呼ばれる。
 なお、サプライ・チェーン・マネジメントでは類似したアイデアを前工程・後工程の二段階ではなく多段の工程に対して連鎖的に適応する。 またMRP/MPR2では前工程を基準に考えていく「押し出し方式」なのに対し、かんばん方式では後工程から遡って逆順に考えるので、かんばん方式は「引っ張り方式(プル方式)」とも呼ばれる。 

 我が感想だが。
 へえ~。  「トヨタの看板方式」理論に関する解釈も、現在ではそこまで進化しつつ産業界で生き残っているんだね。

左都子の「経営管理総論」 小講座

2020年05月06日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学・大学院講義ノートより「経営管理総論」の定期試験用にまとめた模範解答?? の一ページ。)


 本日紹介するのは、我が2度目の大学のメイン科目とも言える「経営管理総論」だが。
 「経営学」とは「経済学」等に比して、どうしても“実践論”が多い気がしたものだ。 
 先だってのバックナンバーにても記したが、「経営」に関しては所属していた医学関連民間企業で少し学んでいたため、専門用語には取っ付き易い気もした。

 だが、元々純粋な学問好きの私としては、「経営学」に関して“ちょっと違うか…”なる違和感も少し抱かされたものだ。 
 結果として2年生時点で「法学」の方に興味が向き、「経営法学」(要するに「法学」なのだが)専攻に落ち着き、そのまま大学院で「経営法学」を学んだ。


 
 一応、私が「経営管理総論」定期試験用にまとめた模範解答?? を以下に掲載させていただこう。」

       


       


       


       



 上記のうち、「リーダーシップ論」内の“パワー概念”に興味を持ち小論文を作成し、我がエッセイ集のバックナンバーに掲載しているため、それを以下に引用させていただこう。

 組織論に「パワー」という概念がある。 この場合の「パワー」とは、個人ないし集団が相互に行使するあらゆる種類の影響を意味する。 Max Weber は、「パワーとは行為者が社会関係の中で抵抗を排除してでも、それが依拠する基盤が何であれ、自己の意思を貫徹する立場にある可能性である。」と定義している。 Blau は、このWeber の定義を拡張して「パワーとは、定期的に与える報酬を差し止める形態をとろうと、罰の形態をとうろと、脅かすことで抵抗を排除してでも、人々あるいは集団がその意思を他者に強いる能力である。」としている。
 「パワー」を一種の心理的力として、個人間の相互作用におけるその潜在性の側面を強調する立場もある。French=Raven は「パワーとは与えられたシステム内で集団ないし他人に影響を与える潜在的な能力である。」と定義する。
 「パワー」の定義は多様であるがこれらの定義に一致していることは、パワー現象は二人あるいはそれ以上の人々の相互作用という複数の状況のみに生起することであり、社会的行為者間の関係においてのみ意味のある概念であるとしていることである。
 上記のFrench=Raven は、潜在力としての「パワー」を“報償的パワー”、“強制的パワー”、“正当的パワー”、“同一的パワー”、“専門的パワー”の5類型に細分化した。この「パワーの5類型」は学説としては認められていないようだが、興味深い考え方であるのでここで紹介しよう。
 例えば、この「パワーの5類型」を教師の生徒に対する教育指導に当てはめてみると、“報償的パワー”とは生徒に対する正の評価の付与、“強制的パワー”とは同じく負の評価、処罰の付与、“正当的パワー”とは教師の地位、権限の行使による指導、“同一的パワー”とは教師の人格による生徒との信頼関係の確立、“専門的パワー”とは生徒への学術指導等専門的情報の提供、以上のように操作化できると思われる。
 これらのうち、いかなる「パワー」がいかに行使されるかは組織目標達成に決定的影響を与える。 しかしながら、最適な「パワー」の分布と行使は組織環境や組織構造の影響を受ける。 すなわち、上記の教師の例の場合、教師の行使する「パワー」は結果的に所属する学校の校風創出に影響を与えるであろうし、逆にその学校の教育理念は教師が行使するべき「パワー」を決定するであろう。
 教師の資質としての理想型は、これら五つの「パワー」をバランスよく備え、条件適合的にそれらの「パワー」を行使し得ることであろう。 しかし、そのような理想型の人材は存在し得るすべはなく、ひとりひとりがいずれかの「パワー」を偏在させているのが現実であろう。そこで、組織はそれら偏った人材をバランスよく確保することにより組織全体の均衡を保ち、組織目標達成を可能とするのであろう。 学校現場における多様な人材の確保は、多様な個性をもつ生徒への対応という点でも有効である。 ただ、組織が確固たる理念や風土を既に創り上げている場合においては、組織成員個々人のもつ資質や信条との間に齟齬が生じ、両者の間にコンフリクトが発生し、組織からの逸脱を企てる成員も生じるであろう。

 以上は、原左都子自身の教員経験も交えつつ、私論を展開したエッセイである。

 さて、皆さんはいかなる「パワー」をお持ちでしょうか? あなたがお持ちのその「パワー」が周囲に影響を及ぼし、世界をも動かしているのかもしれませんね。

  (以上、「原左都子エッセイ集」 2007.11.19付バックナンバー「組織論に於ける“パワー概念」を再掲載させて頂いた。)

左都子の 「経済史」 小講座

2020年05月04日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目に入学した大学にて受講した「経済史」の定期試験対策として私が模範解答??としてまとめたもの一つ。)


 昨日に引き続き、本日は大学2年時に受講した「経済史」の定期試験対策としてまとめた解答を紹介しよう。
 (昨日も書きましたが、我が専門は「経営法学」であり、決して「経済学」ではありませんでした。)


     


     


     


     


     


      


     


     


     


     


      


      


      


 この「経済史」の授業は大学2年次に受講したが、おそらく必修ではなく選択科目だったと記憶している。

 ご覧のごとく大変厳しい授業だった。
 指導教授氏が実に真面目で熱心な方で、頭が下がる程にきちんと専門を教授して下さった。
 残念なことに学期途中で60代前半の若さで急死され、その後どうなったのかの記憶がない。  今講義ノートを見直すと、63年1月29日までノートがとられているため、おそらくほぼ年度の授業を終える頃に急死されたのだろう。

 参考だが、私が2度目に通った大学・大学院は首都圏に位置するさほど規模の大きくない歴史ある公立大学だ。 もしかしたら世間では“2流”のイメージがあるのかもしれないが??  何の何の素晴らしい教授陣を揃えた、「一流」の授業提供が特徴だったのではあるまいか?
 2度目に入学する大学・大学院としてこの大学を選んだのが大正解だったと、今でも感謝している。😀 


 本日はこれから予定満載(決して外を出歩いてクラスターを作る訳ではありません!)のため写真掲載のみにさせて頂くが、また機会があれば、その内容の詳細を語らせて頂こう。

左都子の「憲法」小講座

2020年05月03日 | 左都子の市民講座
 (冒頭写真は、我が2度目の大学時代に受講した「憲法」授業ノートより、「生存権」に関して私ども原左都子が試験対策用に作成した解答。  随分と我が“若気の至り”故の私論を展開している事実に、今更ながら驚かされる。😨



 昨日に引き続き本日も、我が大学(大学院)時代の講義ノートからの引用の形となるが。
 本日は「憲法記念日」故に、「憲法」の講義ノートより引用させていただこう。


          
       同じく、「表現の自由」に関する我が試験対策用解答。


     
      同じく、「経済的自由権」に関する我が試験対策用解答。


 大学の定期試験とは特に「社会科学分野」の場合、大抵は大題がポンと出され、それに関して(何字以上で)小論文形式で論ぜよ。 との形式がほとんどだった。

 そのため私の試験対策としては、いずれの科目もまず大題を自分で想定し、それに対する模範解答を作成して、それを覚え込むとの方策を採ったものだ。
 この「憲法」に限らず、いずれの科目もその方策を採用したため、我が大学(大学院)時代の講義ノートには、科目毎にその「模範解答」が数多く保存されている。



 上記の中から、「経済的自由権」に関してまとめた我が定期試験“模範解答”(??)を以下に引用させていただこう。

 経済的自由権に於いては、憲法22条、29条で明文上、「公共の福祉」による制約を認めている。 仮にそのような規定がなくとも、権利・自由の性質から社会に及ぼす影響が大きいため、精神的自由に比して、その制約度合いが大きいと一般的に考えられている。
 経済的自由に対する規制には、公共の安全秩序の維持を目的とするもの(消極目的)と、社会経済政策観点から制限を加えようとするもの(積極目的)がある。
 昭和41年「小売市場許可制」の判決に於いては、個人の経済活動に対する規制は、公共の安全保持(消極警察目的)の観点からだけではなく、積極的に社会経済的な観点(積極目的)からも行い得るとし、小売商を保護することは中小企業保護政策という目的において一応の合理性があるため、距離制限をおくことは合憲であるとされた。
 昭和30年の「公衆浴場営業の距離制限判決」においては、無用の競争をすると経営困難となり、結果として衛生設備の質が低下する、すなわち、国民保健上の観点から規制の必要があり、距離制限は合憲であるとされた。  これに対し、昭和50年の薬局開設の距離制限判決に於いては、許可制が職業選択の自由そのものに制約を課すものであるため、それが合憲であるためには高度の公共性、措置の妥当性、合理性を要すこと、また、距離制限の不存在→競争の激化→経営の不安定→法規違反(不良医薬品の販売)という因果関係は単なる観念上の想定に過ぎないこと、法規違反を防止するには、供給業務に対する規制手段のような、より緩やかな規制手段があり得るとの判断で、距離制限は違憲であるとした。  前者も後者同様の論理が適用出来るため、合憲という判断は合理性に欠ける。 現時点で判断すれば、公衆浴場は保存の必要があり、積極目的に変わると考えられる。
 積極目的ではなく消極目的である場合には、危険な状態を生じせしめる者につき規制措置をとることが原則(警察責任の原則)であり、人格権的意味合いのある職業選択をできるだけ規制しないようにすることが重要であろう。

 (以上、我が大学・大学院講義ノートより、「経済的自由権」に関する定期試験模範解答?? を引用したもの。)

  
 「憲法」に限らずすべての法学分野において課題を論じる場合、必ずや具体的な「判例」を持ち出すのが鉄則だったように記憶している。 そのため、判例学習が欠かせなかったものだ。 

 私が大学(大学院)生だった頃は未だ「ネット時代」ではなかったため、特に卒論や修論作成時には図書館へ通い詰め、判例検索作業に時間を割いた事も思い出した。 


 本日は「憲法記念日」。
 
 “新型コロナウィルス禍”の真っ只中にもかかわらず、安倍政権要人がテレビ討論内で「憲法改正論議」を持ち出し。
 某野党より、「ウイルスへの対策がうまくいっていないのは憲法のせいではなく、安倍政権の政治姿勢と能力の問題だ。自粛と補償はセットであり、十分な額の第2次補正予算案を急いで組むべきだ」との反発を食らったとの話題もある。😫 
 
 まったくもって、野党側のおっしゃるとおりだ!! 😷