幽霊パッション 第三章 水本爽涼
第六十二回
しかし、さすがに落ちついてそのままいると、どうも具合が悪いのではないか…と幽霊平林には思えてきた。もちろん、死んでいるのだから、この場合の具合が悪いとは、体調の異常を指すのではない。今までとは状況が違うから、やや戸惑う感が生じた、と云うべきである。むろん、不安感は皆無だ。そこで、幽霊平林は今までの状況復帰を願いつつ、上山のところへ現れることにした。もし、上山に自分の姿が今までと変わらず見えるなら、自分の眼が妙だ、ということになる。幽霊平林は人間界の上山のいる現在時間がいつ頃なのかと考えることもなく、スゥ~っと移動して上山の家の前へ現れた。日射しからして朝だとは分かったが、上山が休日だということまでは知らない。とりあえず、上山の所在を確認しようと壁を透過して、寝室、そしてキッチンと流れた。上山は、カフェオレを飲み終え、フレンチトーストの最後の一片を口へと運んだところだった。
『課長! 僕です!』
「んっ? どこだ…。なんだ、そこか」
『そこかって、課長、僕が見えるんですか?』
「ああ、もちろんだ。ちょいと窓の朝陽で一瞬、見にくかっただけだ…」
『そりゃ、とにかく、よかったです…』
「よかったって、どういうことだ?」
『実は、僕には自分の姿が見えないんですよ…』
「なにっ! そりゃ偉いことじゃないか。いったい、いつからなんだ?」
『いつからって、つい今し方です。少し前ですよ』
「原因は?」
『それが分りゃ、急いでこうして現れませんよ』
「ああ、すまん。そりゃ、そうだな…」
『課長は、どう思われます?』
幽霊パッション 第三章 水本爽涼
第六十一回
「今日は首尾よく土曜だし、平林を呼び出すにゃ丁度、いいや」
一人悦に入り、上山は両腕を伸ばすと欠伸をした。時の余裕があるから、取り分けて急ぐ必要もない。家のことも食事も、そして幽霊平林を呼ぶことも適当なタイミングで行えばいいからだった。上山は朝刊をキッチンへ持って行き、軽い食事をしながら記事に目を走らせた。記事の詳細は、ユネスコ内に設置された特別部会の構成や、予想される各国の主だった言語学者の名前が表で列記されていた。そして、別の欄には、今後二ヶ年に及ぶ地球(世界)語開発の大まかなる時期のスケジュールが掲載されていた。上山は作っておいたフレンチトーストを軽く温めながら記事を読み耽(ふけ)った。上山がふと、腕を見ると、すでに九時近くになっていた。
「まずまずだな…。やはり二日で効果が出たか…。しかし問題は、二年後にどうなっているかだが、これだけは、どうしようもない…」
上山は暗に、待つ以外はないか…と諦(あきら)めかけた。
━ いや、待てよ! 如意の筆の霊力なら、すぐとはいかないまでも、短期間に完成する筈(はず)だ… ━
上山の脳裡を駆け巡る考えは、今後の可能性を探っていた。
この頃、霊界の幽霊平林に異変が起こっていた。そのことに気づいたのは、他ならぬ幽霊平林自身だった。それまで見えていた自らの姿が消えているのである。御霊(みたま)になっているのなら、それはそれでいいのだが、どうもそうではないのだ。幽霊の姿のまま透明になっている自分に、住処(すみか)の中で気づいたのである。ただ、消えていないのは胸元に挿した如意の筆と白い三角頭巾で、唯一これが、一抹の不安とともに幽霊平林の存在を示していた。上山なら、あたふたと自らを見失うところだが、死んでいる幽霊平林にとって、別に驚きとか不安感とかは、まったくおきない。ただただ、今の現実を受け入れるのみなのだ。だから、この場合、幽霊平林は単に、あっ! 姿が消えている…と、自分の姿を漠然と捉えているだけだった。
幽霊パッション 第三章 水本爽涼
第六十回
「ああっ! そんなこたぁ~、どうでもいいんだ。君と私は気が合う所為(せい)か、どうも話が、とんでもない方向へ進んでいかん。話を戻そう…。とにかく、今回はこれで私達のやることは、やったってことで、あとは結果待ちだ」
『はいっ!』
「それじゃ、今日はこれまでにしよう。疲れたから、風呂に入るよ」
『僕はこれで失礼します。結果の兆候が現れれば、またお呼び下さい』
「ああ…」
幽霊平林は、いつものように格好よくスゥ~っと消え去った。
上山と幽霊平林の計算は当たっていた。マスコミ媒体が一斉にトップニュースや記事で取り上げたのは、幽霊平林が念じた日から、わずか二日後だった。上山は、その日の朝、朝刊を手にした途端、結果の兆候が出たことを悟った。トップ記事の大見出しを目にすればそれも当然で、上山ならずとも誰しもが気づく記事だった。
━ 国連 地球語部会発足 ━
- ユネスコは教育や科学の振興を通じて戦争の悲劇を繰り返さないという理念に基づき、その究極の理念の模索を諮ったが、わずか二日という奇跡的な短期間で、その目的を果たす最も効果的方法として、地球(世界)語開発に着手する決議案を満場一致で可決した。今後、二年以内に世界各国の言語学者の手により研究及び開発が行われることとなった。完成後は、世界各国の義務教育機関における必須科目として採用されることになる。また、国連各機関での言語や印刷物等は、完成以降、地球(世界)語に統一されることも決定された。 -
「なるほどな…」
上山は記事を読みながら、応接セットに腰を下ろした。
幽霊パッション 第三章 水本爽涼
第五十九回
『でしょうね。…有能な世界の言語学者が国連で一堂に会したとしても、世界に共通する新しい言語の開発です。そう簡単に完成するとは思えません』
「如意の筆の霊力をすれば、いとも簡単じゃなかったのか?」
『はあ、それはまあ…。念じ方を詳細に詰めれば…』
「詰めようじゃないか。そういつまでも待ってられん!」
『課長、少し気が短くなられたんじゃないですか?』
「馬鹿云え。そんなことは、ない。早く元の状態に戻りたいだけだよ。…君と別れるのは辛いが」
『ご迷惑をおかけして済みません』
「いやあ、なにも君が謝るこっちゃない。君の所為(せい)で、私がこうなった訳じゃないんだから…」
二人は瞬間、押し黙った。
『では、集中して念じます』
云うが早いか、幽霊平林は胸元に挿した如意の筆を手にし、両瞼(まぶた)を閉じた。あとの所作は、いつもと同じである。瞼を開け、如意の筆を二、三度、軽く振った。
『終わりました…』
「そうか…、ご苦労さん。あとは結果待ちだな。楽しみというほどの気分じゃないが、なんか成功を祈りたい気持だよ」
『はい、僕も同感です』
「もう帰るんだろう?」
『帰る、は、いいですね。帰るんでしょうかねえ、霊界へ戻るのは…』
「ははは…、今の君は、やはり帰る、だよ。死んでるんだから、こっちの人間じゃない」
『そうでした。ははは…』
幽霊平林は蒼白い顔で陰気に笑った。
幽霊パッション 第三章 水本爽涼
第五十八回
「ええ、まあそうですが…」
幽霊平林は、上山の周到さに恐れ入った。
「なにか具合が悪いか?」
『いえ、そんなことはないですよ。結果と反省は大事なことです。それに場合によっちゃ、課長の命にもかかわりますからね』
「そこなんだよ、君。どうして私だけがそんな苦を受けにゃならんのだ。理不尽だよ。私が何か悪いことでもしたというのかい?」
『そ、そんなことは、ないですよ。しかし、それについては、随分前に結論が出ていたじゃないですか。課長は何らかの異常体質で、霊界と人間界の狭間(はざま)へ迷い込んだんだと…』
「ああ、それはそうなんだが…。ただ、どうして私だけがそんな体質なんだ? えっ、君?!」
『そんなこと、僕に訊(き)かれたって…。霊界司様なら、その辺りのところは、よくご存知なんでしょうけど…』
「そうそう、それを訊いておいてくれ。どうも、モヤモヤが晴れんからな。…そんなこたぁ~今、どうだっていいんだよ。また話が逸(そ)れるところだった。それ゛しゃ、世界語の念を纏(まと)めよう」
『世界の国々の言語学者に、そう思わせるのが①ですね。で、立ち上げさせるのが②です』
「だな…。国連のユネスコが舞台になるだろう」
『③として、特別部会を作る気にさせると…』
『ですね。あとは、彼等がなんとかするでしょう。武器輸出禁止条約のように』
「よし! それでいいだろう」
上山はボールペンを小ノートへ走らせながら、少し元気づいて云った。
『じゃあ、そういうことで…』
「この効果は、いつ頃、現れるかなあ?」
『前のようにいけば、効果としては数日中にマスコミが騒ぎたてる事態になりますが…、具体的な成果となりますと…』
「しばらく、かかりそうか?」
幽霊パッション 第三章 水本爽涼
第五十七回
「いやあ、そうしてもらうと気楽で助かるな」
『一人、食べてるシチュエーションって、見られると僕でも嫌ですから…』
「だよな…。君は94だ」
『えっ?』
「空気が読める」
『ああ…』
上山の言葉にはそれ以上返さず、すぐに幽霊平林の姿は消えていた。上山は少し急(せ)きながら食べ始めた。
それからの二十分ほどは幽霊平林にとって、ただフワリフワリと浮いているだけの時の経過だった。退屈な気分が訪れないのは便利といえば便利な幽霊の特性と云えた。
食後の上山は食器を洗い場へ運ぶと、すぐに茶の間の方へ向かった。
『ああ…、もうお済みになりましたか』
「んっ? おお…待たせたな。それじゃ内容を詰めるとするか…」
『グローバルに念じるってのは、要は武器輸出禁止条約のときを参考にすりゃいいんですよね?』
「そうだな。この小ノートに、その時の内容が書いてある」
上山はキッチンから茶の間へ向かう間に、小ノートとボールペンを書斎から持ってきていた。そのノートを幽霊平林に示したのである。
『そうですね。武器輸出の内容が世界語になると、ただそれだけですから…。確か、あのときも、特定の国に対しては念じていなかったはずです』
「…だな。そう書いてある」
上山は小ノートをめくりながら云った。
『そんなことまで書かれていたんですか?』
「ああ、一応、結果と反省を末尾にな。今後の参考になると思ったのさ。事実、今になって参考になってる。他意はない」
幽霊パッション 第三章 水本爽涼
第五十六回
『って云うか、でしょ?』
「ああ、そうだな。まっ! いいだろう」
『では、内容を詰めましょうか』
「おい! 今かよ!」
『いやあ…。ご帰宅なさってからで結構ですから…』
「だよな」
二人は簡略な打ち合わせをして、その場は別れた。
夕方になり上山が帰宅すると、まだ幽霊平林は現れていなかった。そういや、こちらから呼び出すとも、いつ頃とも云ってなかったぞ…、と上山は気づいた。まあ、いいか…と、背広を脱いで普段着のセーターに着替えて、お茶を飲んだ。幽霊平林が現われたのは、上山が台所で夕飯の準備をしているときだった。買っておいた市販のステーキをミディアムに焼き、付け合わせの温野菜なども準備して、ワインとロールパンも添えた。そして、ワイングラスを手に、ようやく上山がテーブルに着こうとしたときだった。
『美味しそうですね!』
ニンマリと陰気に笑った幽霊平林が、いつものように何の前ぶれもなくスゥ~っと格好よく現れたのは丁度、その時である。
「なんだ、君か…。ははは…、なんだと訊(き)くのも妙だがな。部屋の中へ突然、現れるのは、君しかいなかった」
『そりゃ、そうですよ、課長』
二人(一人と一霊)は互いに陰陽の差こそあれ、ニンマリとした。
「食べながらでもいいが…」
『いえ、僕はお茶の間の方にいますから、済ませて下さい。じっと見ているというのも気が引けますので…』
幽霊パッション 第三章 水本爽涼
第五十五回
「…すみません。すぐ消えます!」
それだけ云うと、幽霊平林はスゥ~っと、いつもの格好よさで消え失せた。もちろん、最初から食堂へ長居する気などない幽霊平林で、現れたことだけを伝えたかったのだ。まあ、そんなことも考えながら一端は消えた幽霊平林だったが、当然のことながら、ふたたび屋上へと現れた。とはいえ、すぐに上山がやってくる訳もないから、毎度のことのようにフワリフワリと漂いながら待った。便利なもので、幽霊には時の流れがないから、人間界のように待つことで苛(いら)立つという感情の昂(たかぶ)りが生じない利点はあった。幽霊平林もご多分に漏れずただ漂うだけで、苦になったり、苛立つようなことはなかった。 上山がエレベーターで昇ってきたのは、三十分ほど経ってからである。
「待たせたな…」
上山も幽霊平林がすでに現れていることは予見していたから、至極ありきたりに開口一番、そう云った。幽霊平林には、待たされているという人間の苛立ちといった感情がないから、腹は立っていなかったが、ふと、生前の感覚を想い出し、『いえ、それほどは…』と、表面上は云った。
「で、アイデアか何か浮かんだの? 私の方は、岬君と話したとかで、さっぱりだよ…」
『岬ですか? 朝、出勤する姿、見ましたよ、僕も』
「そういや、君の後輩だったなあ。彼も子供が出来たからなあ…。随分と親父らしくなってきた」
『そうですか…。僕は、あいつと話が出来ませんから…』
「そりゃ、そうだ…。で、話の方は?」
『ああ、そうでした。世界語のメンバーは個々じゃなく、グローバルに念じれば、いいんじゃないかと思いましてね。武器輸出禁止条約もそうでしたし…』
「グローバルにな。それもアリかもな。なにせ、荘厳な如意の筆がバックボーンに、どっしり控えているから、可能かも知れん」
幽霊パッション 第三章 水本爽涼
第五十四回
とても夕方まで待てないな…と、幽霊平林は上山の社屋を目指してフワリフワリと漂い始め、やがて、スゥ~っと加速した。もう昼が近づいていた。瞬時にパッ! と消え、上山がいる社屋内へパッ! と現れることも出来たのだが、心地よい陽気の中を、スゥ~っと流れるのも乙なものだ…と、幽霊平林には思えていた。
幽霊平林が田丸工業の社屋内へ透過したのは、それから二十分ほど経っていた。上山が食堂へエレベーターで昇ったときである。その上山の姿を幽霊平林は、すぐ声をかけようとしたが、周りには社員が数人いたから、こりゃ駄目だ…と憚(はばか)られたのだ。当然、上山の周りに人がいないタイミングを探らねばならない。今までの経験からすれば、食堂の賄い場で、上山がB定をトレーに乗せて席に着く直後までの、ほんの束の間以外、上山の近くに人物がいないという機会は、ないようだった。そこで、幽霊平林は、その数少ないチャンスを待つことにした。上山は前方を進んでいるから、振り返らない限り幽霊平林がいることに気づかない。
上山は賄い係の江藤吹恵に食券を渡してB定を注文している風に遠目に見えた。幽霊平林はB定がトレーに乗る瞬間まで、じぃ~っとタイミングのいい瞬間を探った。過去にも、このシチュエーションは、あったぞ…と幽霊平林は思いながら、トレーを持ってテーブルへ移動する上山を後方からスゥ~っと追った。運よく、上山は誰もいないテーブルへ近づき、椅子(チェアー)を机の下から引き出して座った。むろん、その前にトレーはテーブル上へとおいている。
『課長!』
上山はギクッ! として一瞬、後方を振り返ったが、何もなかったような素振りで姿勢を元に戻した。そして、視線をトレーに向けながら、割り箸を手にした。
「君か…。ここは目立つから、屋上で…」
語尾を暈(ぼか)しながら、小声で上山は呟(つぶや)いた。
幽霊パッション 第三章 水本爽涼
第五十三回
「いやあ、ちょいと早く目覚めて、そのまま出勤しただけのことさ。私としては珍しいことだよ」
上山は罰が悪く、愛想笑いした。
「君さ、二人目の子供は、まだなの?」
上山は、それとなく訊(き)いてみた。こういう話は他の社員がいる前では課長として出来ないから、この際、と思ったのである。
「ははは…、稼ぎが稼ぎですし、あとしばらくは、って妻と話したんですが…」
「ああ、そう…。で、赤ちゃんは順調?」
「ええ、首が据(す)わってからはスクスクと育ち、もう可愛い盛りです」
「ははは…、親馬鹿だな、君も」
二人は賑(にぎ)やかに笑った。その直後、他の社員がドカドカと業務第二課内と出勤してきた。岬は事もなげに自席へと戻った。上山は上山で、咳(せき)ばらいをひとつすると、ノートパソコンを徐(おもむろ)に開けた。
その頃、のんびりと街のアチラコチラと漂いながら、幽霊平林は、とある公園へと舞い降りた。昼近くの陽射しからして、上山が勤務を終える夕方までには、まだかなりの時があった。ベンチ上へ漂って移動した幽霊平林は、ベンチの上で自然を感じつつ腕を組んだ。彼の感覚としては、生前の頃、ベンチへ腰を下ろした自分である。ポカポカと暖かい陽光が射し、ベンチも生きている身ならば凌ぎよい爽快感に包まれるだろう…と、幽霊平林は、ふと思った。そして、ひとつの考えが閃(ひらめ)いた。世界語を考え、創造するメンバーなど、個々に考えずともいいのではないか…という発想である。如意の筆の荘厳な霊力を使わぬ手はないのだ、という想いである。
『グローバルに念じればいいかっ! ははは…。少しミクロで考え過ぎていた。こりゃ、課長に云っておく必要がある…というか、これしかないぞ!』
幽霊平林が腕組みを解き、スゥ~っと上空へ昇ると、家やビルの佇まいが一望できた。