残暑が続くなか、日没が早まっていた。半月ほど前は7時過ぎだった日暮れが、今ではもう6時半ばには暗くなり始めている。木工店を営む剣持は、暗くなる前に帰ろう…と無意識に思い、仕事を終わることにした。作業場を兼ねた店から剣持の家まで自転車で約20分はかかり、日々、作業場と家を行き来していた。木彫り職人とは聞こえがよいが、早い話、売れなければ暮らしてはいけない。日に客足は数人で、せいぜい数千円の稼ぎでしかなかった。それでも、作品を生み出すことに生き甲斐を抱く剣持に、不満など一切なかった。
「さてと…」
木彫り用の鑿(のみ)を道具箱へ戻(もど)すと、剣持は重い腰を上げようとした。いつもならスンナリ立ち、土間へ下りるのだが、この日にかぎって、どういう訳か両足が動かなかった。それも、まるで金縛(かなしば)りにあったかのように一歩も動けないのである。抜き差しならない・・とは、このことか…と剣持は思った。両足の感覚はまったく失せ、まるで自分の身体(からだ)ではないように無感覚である。剣持は焦(あせ)った。だが両足は凍(い)てついたようにビクともしなかった。次第に冷や汗も流れ始めた。どこか身体の具合が悪くなったか…と、そんな不安も心を掠(かす)めた。剣持は冷静になろうと、動こうとする気持をやめ、両目を閉ざした。そうだ! もとの姿勢に戻してみよう…と閃(ひらめ)いた剣持は、しゃがみこもうとした。すると妙なもので、身体は少しずつ動くではないか。よし! とばかりに剣持は、ゆっくりと元の座っていた場へ腰を下ろした。そこは木の削(けず)り屑(くず)が散らばる剣持が座り馴れた作業の場だ。動けない不安はどういう訳か剣持の心から消え去った。ただ、帰ろう…という気持にはなった。親戚から送られたブランド牛の特製ステーキを食べるまでは死ねない…と剣持は思ったからだ。不思議なことに、美味(うま)そうなステーキが焼き上がる映像が心に浮かんだ次の瞬間、剣持の身体は、もの凄(すご)い早さで動くと、作業場を飛び出していた。立ち去ったあとには、剣持が彫った木彫りのステーキが一枚、美味そうに置かれていた。不思議なことに、その木彫りのステーキは、肉の焼けたジューシーないい匂(にお)いがした。
完