達川はプロのトランペット奏者である。彼が奏(かな)でる調べは、聴く者をして感激の坩堝(るつぼ)へ引き込まずにはおかなかった。
この日も予定された演奏会が終わり、達川はいつものように車で帰宅した。夏場の演奏会は達川にとって苦手(にがて)だった。彼は汗を拭(ふ)きながら愛用のトランペットをケースに収納(しゅうのう)し、駐車場へと向かった。彼の車の助手席には、いつもトランペット・ケースがあった。
自宅へ着き、達川が車を降りると、妻の里美は、いつものように達川を玄関の入口で出迎えた。シャワーと着がえを済ませ、達川は軽い晩酌(ばんしゃく)のあと、里美の手料理に舌鼓(したつづみ)を打った。食後はいつものように専用の自室へ籠(こも)り、音楽を聴きながらトランペット磨(みが)きと調製を済ませた。その夜は暑いはずがどういう訳か涼しく、達川は首を捻(ひね)らずにはいられなかった。
トランペットをケースに収納し、CD機器を停止したときだった。聞こえるはずがない音色が静かに響き始め、達川の耳へ届いた。おやっ? と達川は、CD機器を見た。CD機器のスイッチはOFFになっていた。耳に届く楽器の音色・・それは達川が愛用するトランペットの音色のようにも思えた。だが、よ~く耳を澄ませば、今まで達川が奏でたクラシックの曲調ではなく、どうも安っぽく短かかった。その音色はどこかで聞いた馴染んだ音色のように達川には聞こえた。しばらくすると、音色は達川の家の間近まで迫ってきた。そのとき、達川は気づいた。
「な~んだ。チャルメラか…」
達川はチャルメラの音色を忘れていた自分を詰(なじ)るかのように独(ひと)りごちた。それは、遠くで奏でられる夜鳴きそば屋が録音したチャルメラの音色だった。達川は専用の自室を出ると、寝室へ向かった。その夜、トランペットが小さく泣いたことを達川は知らない。トランペットとチャルメラの儚(はかな)い音の恋だった。
完