水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

短編小説集(44)まあいい…<再掲>

2024年09月26日 00時00分00秒 | #小説

 章二は見当たらない財布を探していた。 
━ 妙だな…。確か、ここへ入れたはずだが… ━
 ズボンの後ろポケットに入れたはずの財布が消えていた。最後に出し入れしたのはつい数十分前のことだから、消える訳がない! と、章二は確信して、もう一度、ズボンのポケットを弄(まさぐ)った。しかし、やはりなかった。章二は黙って動きを停止した。
━ 待て待て! ここは落ちつくんだ。外で落とした訳がないんだから、必ずこの辺りにあるはずなんだ ━
 章二は目を瞑(つむ)り、最後に財布を出し入れしたその後の自分の動きを脳裡で遡(さかのぼ)った。やはり、この辺り以外、思い当たる節(ふし)はない。章二は財布の中身が幾らあったか…と、次に思った。今日はスキ焼をする予定で五千円ばかりありゃ足りるだろう…と算段し、肉屋→八百屋→豆腐屋→…の順に回り、家へ戻ったのだ。そうそう、レシートがあったな…と、章二は左胸に入れていたレシートを取り出し携帯の電卓機能で計算した。すると、残金は六百八十円となった。今日は、いい肉を少し多めに買ったからそんなに残らなかったんだ…と思った。となれば、まあいい…という気持も芽生え始めた。おっつけ、そこら辺から出てくるだろう・・第一、外で落とした訳でないことは明白だった。というのも、数十分前に財布に入れておいたクレジットカードを出してネットで買物をしたからだ。番号を入力するために出したのだ。だから、確かに家のどこかに財布は潜んでいるのは確実だった。章二は夕飯準備を始めた。
 見当たらない財布はバーゲンで千円した。今どき、千円の財布などそう滅多にあるもんじゃない…と手に取って籠へ入れたのだ。ブランドものかどうかは別として一応、感触は本革だった。まあ合成皮でないことぐらいは章二にも分かった。少しの年の効というやつだ。レジで財布から千円札を出した。出した財布は数千円したものだが、破れてかなりくたびれていた。だから買い換えたのだった。
 スキ焼で一杯やり、ほどよく酔いが回ったのでテレビをつけ、ふと見ると、財布がテレビの上で笑っていた。章二は酔いのせいだと最初、思った。だが、財布は確かに笑っていた。不思議なことに目があり口があり、足まであって胡坐(あぐら)をかいていた。章二はテレビへそっと近づいた。
『ははは…夢でも幻(まぼろし)でもありません。私はあなたが千円で買われた財布です』
 財布が話す訳がない…と章二には刹那(せつな)、思えたから、自分は、酔ってるんだ…と思った。財布はまた話しだした。
『ちょっと、待って下さい! 私が言うことを聞いて下さい』
 章二はギクッ! として、手の財布を見た。
『私に入るのは千円までなんです』
「えっ?! なぜなんだっ!」
 章二は思わず語りかけていた。
『そりゃ、そうでしょ。だって私は千円であなたに買われたんですから』
「そんな馬鹿な。前の財布はそんなこと言わなかったぞ!」
 章二は、いつの間にか財布が話すという現実を認めていた。
『私は特別なんです』
 そんな…と思えたとき、章二は急に睡魔に襲われた。気づくと章二はテーブルに顔を伏せて眠っていた。慌てて身を起こすと、スキ焼はまだ食べる前だった。ほどよく煮えて、いい香りがしていた。記憶では食べ終えていたから、章二はおやっ? と首を捻(ひね)った。なにげなくテレビの上を見た。財布が乗っていたテレビの上には千円札が一枚、置かれていた。章二は、ギクッ! と驚いたが、まあいい…と美味そうなスキ焼を食べ始めた。

                THE END


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短編小説集(43)贋(にせ)のもの<再掲>

2024年09月25日 00時00分00秒 | #小説

 二人は美術館にいた。まばらな入場者達が絵画を観ながら、ゆったりと巡っている。その流れに沿って、少しづつ二人も流れた。
「贋(にせ)ものと贋のものとは違いますよ」
 唐突に山崎が言った。
「はあ…」
 田辺は入場券を支払ってもらった遠慮からか、聞く人になっていた。
「贋のものは本物もあり! なんです」
「はあ…」
「それに比べ、贋ものは贋もので、贋ものです」
「はあ…」
 哲学的なことを諄々(くどくど)、講釈を垂(た)れる山崎に、田辺は辟易(へきえき)としていた。
「あの…贋物(ガンブツ)は、どうなるんでしょう」
 田辺が唐突に山崎へ迫った。
「…が、贋物(ガンブツ)はガンブツでしょう…」
 即答で返せず、山崎は言葉に詰まった。二人はゴーギャンの油絵の前で立ち止まった。
「私達は、どこから来て、どこへ行くんでしょうね…」
 山崎は知識を披歴(ひれき)して、少し自慢げに言った。田辺に絵の知識は、まったくなかった。
「えっ?! …」
 山崎はゴーギャンの絵を指さした。
「ああ、この絵が、ですか…。さあ…、来たところも分からないんですから行くところも分かりません」
 田辺は素直に答えた。
「…」
 山崎は返せなかった。自分にしては、よく出来た返答だ…と田辺自身にも、思えた。

               THE END


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短編小説集(42)人材あります![2]<再掲>

2024年09月24日 00時00分00秒 | #小説

『いつ、あなたの前へ現れられるか、それは私にも分かりませんが、また現れます。では…』
「あっ! ちょっと待って下さい! いつ現れるか分からないとおっしゃいましたが、それは不便です。なんか法則めいたものがあるはずです。俺も探しますが、それをあなたも探して下さい。分かれば、便利ですし、お互いの生きる世界にプラスになるんじゃないか・・と思えますので」
『ああ、それはそうですね。私も探してみます。それに、なぜ、あなたの前に突然、現れることになったのかも』
「そうですよね。このままじゃお互い、気分がモヤモヤしますよね」
『ええ。では、何か分かれば連絡します』
「出来れば、夜の方が助かるんですが。俺も仕事をしてますんで…」
『分かりました。では…』
 携帯は切れた。戸倉の眠気は、すでに失せていた。ベッドを離れた戸倉は洗顔→食事→事務所掃除→着替え→伝票整理、用具点検と、いつものように朝の諸事を熟(こな)していった。
「はい! 庭の芝を…。あの、どれくらいの広さでございしょう? …はい! ああ、それくらいでしたら、数時間もあれば、お近くでございますし、宜しければ、これから参上いたしますが…」
 事務所の椅子に座って小一時間が過ぎたとき、携帯がかかった。今日は休もう・・と起きがけは思っていた戸倉だったが、分身からの電話で俄かにやる気が出て仕事を入れていた。
 車を走らせ、依頼先の芝を刈り終えたとき、すでに昼前だった。殊(こと)の外(ほか)、作業は順調に捗(はかど)り、戸倉が予想していたより2時間ばかりも早く終了した。今日は半ドンにしようと戸倉は思った。今日は休もう・・と最初は思っていたのだから、昼まででも働けば御の字だった。依頼先に半日料金の五千円をもらい、戸倉は領収書を手渡して帰宅した。幸い仕事中の異常事態は起こらなかったから、戸倉はホッとしていた。戸倉は弁当屋で買った弁当をレンジで温め、遅めの昼食を済ませた。湯呑(ゆの)みのお茶を飲み、ふぅ~っとひと息ついたとき、戸倉は左の肩を突然、叩(たた)かれた。昨日のことがあったから、驚きの程度は、さほどでもなかったが、それでもギクッ! と戸倉はした。
『私です! 驚かせて、すみません』
 戸倉は思わず振り返った。
「ああ、昨日の…。何か分かりましたか?」
『それなんですがね。ひとつ耳寄りな情報がアチラで入手できました』
「と、いいますと?」
『いやぁ~、それを聞いたときは私も驚きましたよ。といいますのは、他にも仲間がいたんです。まあ、仲間と言うのは妙なんですが、私と同じようにこの世界へ現れてる者が数人、いたんですよ』
「よく分かりましたね」
『あなた、人材派遣の仕事をなさってますよね。もちろん私も昨日のあなたですから同業種なんですが、向こうでは事務所を構えて数人、店員を雇ってるんです。先ほど申しましたコチラへ現れてる者が数人いたといいますのは、実は彼らなんです』
「ほう、それは…」
 戸倉は聞く人になった。
『人材派遣に何か意味があるんじゃないかと…』
「いやぁ~、それはどうですかね。世間には五万とありますよ、この業種は」
 戸倉には今一、それが異常事態の原因だとは思えなかった。
『いやあ、私の憶測ですから…。ただ、私の店の店員がすべてコチラへ来ている、という点が引っかかるんですよ』
「異次元からコチラへ来る、何かの共通点があなたの店にあるのかも知れないですよ」
『はあ…。それじゃ、引き続き探ってみましょう』
「そうして下さい。こちらも、それなりに調べますから。…ところで、そちらの店は繁盛してますか? うちの方はご覧のように、なかとか食い繋(つな)いでいる有様なんですが」
『はあ。私の方はまあ、なんとか。それなれに稼がせてもらってます・・。なにせ、店員に給料を月々、支払わないといけませんから、相応の収入は不可欠でして…』
「それはそうでしょう。うちとは状況が違うんですから。…あのう、お店の屋号は人材屋ですか?」
『いいえ。戸倉人材派遣店です』
「そうなんだ…。会社ではないんですね?」
『ははは…。そこはそれ、異次元ですが、あなたと私は同じ存在ですから、当然、同じ発想です。小規模経営なんですから、損勘定の入る会社組織にはしませんよ』
「ああ、その辺りは、同じなんですね」
 戸倉は少しずつ異次元の状況が分かりつつあった。こちらの世界よりはワンランク上で、人も出来がよい。それはいつかこの男がこちらがB級グルメでアチラがA級もしくは超A級グルメだと例えたように、程度の違いなんだと。
『ただ一つ、あなたに忠告しないといけないんですが…。このまま続けて下さい。決して私のようなことを考えちゃいけません。総店員一名! いいじゃないですか、ははは…。あっ! そろそろ消える時間ですね』
 異次元の戸倉はこの前と同じように腕を見て呟(つぶや)いた。すでに男の足先は薄く透明で、消えかけていた。そして、数分後、完璧に消えた。戸倉は、しまった! と思ったが、もう遅い。この次、出会う頃合いを確認しておかなかったのだ。これでは、いつ、異次元の戸倉が現れるかが分からない。分からないとは、彼に対するスケジュールが立たないということだ。
 戸倉が予想したように、一週間が経っても異次元の戸倉は戸倉の前へ現れなかった。そうなると、なにもなかった日常の繰り返しとなり、戸倉の脳裡から次第にこの異常な出来事の事実が消えていった。半月が経った頃、すでに戸倉の脳裡では、よく似た異次元の自分からよく似た男、そしてあの男へと印象は薄れていた。あの男は、まだ戸倉の前へ現れていなかった。
 ひと月もすると、戸倉はすっかり以前の生活に戻っていた。
「いや~それなんですが、担当する者が生憎(あいにく)、休んでいままして…」
 かかった依頼電話は戸倉の出来ない分野だったから、いつもの生憎作戦で戸倉はその場を凌(しの)いだ。
『私ですよ、戸倉さん! 私』
「… ああ、アチラの方ですか」
 戸倉の記憶が甦(よみがえ)った。紛(まぎ)れもなくその男の声は、異次元の戸倉だった。
『そうです。アチラの戸倉です』
 異次元の戸倉は柔和な声でそう言った。
「ああ! アチラの戸倉さんですか。…どうも言いにくいなあ。アチトクさんで、いいですかね?」
『はい、それで構いません。そう、お呼び下さい』
「で、アチトクさん、なにか分かりましたか?」
『はい、全容が判明しました! あなたと私は空間の穴で結ばれていたのですよ』
「どういうことでしょう? もう少し、詳しく聞かせて下さい」
『はい。私の店内に次元通過をする空間の歪(ひず)みがあったのです。そこが異次元空間を結ぶ出入り口になっていた、と言っても過言ではないでしょう』
「なぜあなたのお店だけに空間の穴が?」
『さあ、それは私にも分かりません。ですから、あなたのお家にもその空間の歪みの穴があるはずなんです。もちろん空間ですから、あなたにも私にも見えません。私はその次元の穴に一定のサイクルで引き寄せられて移動しているようなのです』
「見えないのに、よくそのことが分かりましたね?」
『ああそれは、ひょんなことで…。焼き肉の煙が一瞬、その穴にスゥ~っと消えたのです。アレッ? って一瞬、思いましてね。よく見ますと煙がその空間の穴に吸い寄せられて消えていくじゃありませんか。もちろん、換気扇じゃありません』
「なるほど。そういう奇妙な現象がソチラではありましたか…」
『なぜ私の店だけ、という点が、まだ解明できませんが…』
「いえ、貴重な情報です。コチラも煙を使って調べてみましょう」
『はい、では…。長電話でお仕事のお邪魔をしました』
 アチトクの声は少し小さくなった。
「いいえ。不景気で、そう電話もかかりませんから。そちらの景気は、いかがですか?」
『まあ、昨日のソチラという状況で考えて戴ければ…』
「さほどは変わらないと」
『ええ、まあ…。似たり寄ったりということです。この前も言いましたように、コチラは少し大きめに仕事を展開しておりますから、店員への給与支払いで多少は稼がせて戴いてますが。収支で黒字は、さほど…。』
「そうですか…」
『ええ。では、また電話を入れるか、現れるかします。現れる方は私の意志ではありませんから、いつになるか分かりません。消える方は空間ジャンプすれば、どういう訳か消えられますが…』
 アチトクは語尾を濁して携帯を切った。戸倉としてはアチトクの話を聞いた以上、そのままのんびりと寛(くつろ)いではいられない。この家のどこかに異次元に通じる空間の穴があるというのだから調べない訳にはいかない。煙を立たせる手立てを幾つか考えた挙句、身体を動かした。新聞紙を燃やして燻(くすぶ)らせ、家中を煙で満たすというアイデアも浮かんだが、どうも火事っぽくて嫌だな…と思え、案を却下した。最後に選んだのが蚊取り線香である。煙の立ち昇り具合から見て手間がかかりそうだったが、この方法が一番、安全に思え、戸倉はそうした。幸い、買い置いた予備の蚊取り線香があり、新しく買いに出る必要はなかった。
 蚊取り線香に火をつけ、それを手に持って家の空間をくまなく探して回った。疲れたところで、しばらく停止し、また移動していく。小一時間して立ち止った瞬間、戸倉は自分がアホに思えた。馬鹿というのではなく、自分のやっていることが三枚目的なアホに感じられたのだった。
 約2時間が経過したとき、事態が進展した。煙が流れ、引き込まれるように消える空間があった。戸倉は辺りを見回したが、風が入り込んだ形跡はなく、まさしく異次元に通じる穴に思えた。
「ここか…」
 やっと見つけた空間の狭間に、思わず戸倉は呟(つぶや)いていた。穴は見つけたが、それ以上はどうすることも出来ない。アチトクが言っていた異次元への口は見つけられたのだから、まあいいか…と、戸倉はそのまま放置した。
 次の朝が巡り、目覚めたとき、戸倉は妙なざわつきを感じた。人の気配が遠くで小さくしていた。俺以外に誰もいないのだから、人のざわつきなど起こる訳がない…と不審に思いながら戸倉は瞼(まぶた)を開けた。寝室の雰囲気が少しゴージャスになっている。確かに俺の部屋の様だが、置きものとかの部屋の調度も高級品になっている。こんなもの、置いた記憶がないが…と戸倉は訝(いぶか)しく思えた。
『やあ、お目覚めになられましたか』
 寝室のドアが開いて、アチトクが現れた。
「ここは…」
 戸倉はベッド上で半身を起こし、アチトクに訊(たず)ねた。
『ははは…昨日の戸倉さん宅ですよ。ただし、異次元ですがね』
「アチラですか?」
『いえ、こちらです。ははは…』
「はあ。まあ、そうなりますね」
『少しコチラも味わって下さい。それにしても、まさかあなたが現れるとは思ってませんでしたよ』
 アチトクはゆっくりとベッドへ近づき、戸倉の前へ座った。
「俺、いつ現れました?」
『昨日の深夜でしたか。私が眠ろうと寝室へ入ったとき、あなたがすでにベッドの上で眠っておられたんです』
「昨日の深夜ですか。…ああ、私が眠った頃ですね」
『何か、なさいましたか?』
「そうでした。うっかり忘れるところでしたよ。昨日の昼、こちらですと今日の昼ですから、未来になりますが。アチトクさんがいっておられた空間の穴が私の家でも見つかったんです。蚊取り線香の煙でやったんですが…」
『ほう!』
 戸倉は事の一部始終をアチトクこと異次元の戸倉に詳しく話した。
「発見しただけで、それ以上は何も出来なかったんですが…」
『ひとまず、ベッドから出て下さい。洗顔とかもされると思いますが、その前に、こちらの空間の穴を見ておいていただきましょう』
「こちらの次元通過をする空間の歪(ひず)み穴ですね?」
『ええ、そうです』
 二人は店の事務所へ移動した。そこには三人の店員がいて、作業衣に着替えた後らしく、今にも店を出ようとしていた。
「あっ! どうも…」
 三人は戸倉とアチトクの二人を見比べ、押し黙ったまま軽く会釈して外へ出た。双子の兄弟と思ったか、異次元の戸倉と思ったかは戸倉自身には分からなかった。アチトクは店の片隅を指さし、戸倉に示した。
『ここです…。と言いましても、見えないですから分かりませんね。あっ! 丁度(ちょうど)、いい。ここに店員のタバコがある。これでわかるでしょう』
 アチトクは店員の置き忘れた煙草を一本出し、机の上のライターで着火した。そしてそのタバコの先を親指と人差し指で摘まむと徐(おもむろ)に店の隅の空間に近づけた。
 タバコの煙は最初、真っすぐ立ち昇っていたが、アチトクが近づけたある空間で、スゥ~っと換気扇に吸い込まれるように消えていった。
『今、あなたの次元に、この煙が出ているはずです』
 アチトクは確信を込めて言い切った。
「なるほど…。少し理解出来たような気がします」
『偉そうに講釈を垂れておりますが、この私にもなぜこうなったかは、まだ分かりません…』
 アチトクはタバコの火を灰皿で揉(も)み消すと戸を開け、外へ出た。戸倉は後ろに従った。表には戸倉人材店の大看板が飾ってあった。それに、戸倉の家は店舗風の改造をしたのか、幾らか大きく立派に見えた。そういや、店の机には四台の電話があった。戸倉の家は携帯のみで電話はなかったから、偉い違いだ…と、戸倉は思った。
『次元が違うと、こうも違うんだ…』
 語るでなく呟(つぶや)くように戸倉は言った。
『ええ、まあ…。時間的にはあなたの次元より一日前ですがね』
「俺は、いつ消えるんでしょう? そして、どうなるのか…」
 戸倉は不安げに訊(たず)ねた。
『私の経験からすれば、あと2時間ほどはコチラに留(とど)まれるはずです。ご心配される、消えてどうなるかですが、それは心配いりません。そのまま、あなたの次元へ瞬間移動します。場所は消えた位置ですから、消える可能性のある30分内外は、お家(うち)の中におられた方が安全です。外だと交通事故に・・ということにもなりかねませんから…』
 アチトクは事細かに説明した。
「分かりました。おっしゃるようにしましょう…」
 二人は店内へと戻った。
 それから小一時間、戸倉は異次元の生活を味わった。もうそろそろ…と戸倉が椅子へ座った足を見たとき、偶然なのだろうが、戸倉の足先は消え始めていた。そして、わずか数秒のうちに元の戸倉の家が現れた。戸倉は瞬間移動して家へ戻ったのだった。
 机の上へ置いておいた携帯が、しきりに振動していた。戸倉は慌てて携帯を手にした。依頼主の怒ったような声がした。
「朝から電話してたんですけどね! お休みですか、今日は?!」
「いや、そういう訳じゃないんですが、ちょっと知り合いの結婚式で…」
「携帯は持って出られたんでしょ?」
「いや、それが…ついうっかり、礼服に着替えたときに忘れたようなんです。どうも、すみません」
 取ってつけたような嘘が、上手い具合にスンナリ出て、戸倉はホッとした。嘘も方便とは上手いこと言ったものだ…と、戸倉は刹那、思った。
「それで、来てもらえるんですかね!」
「あの…どういった内容でしたか?」
「ああ、興奮して忘れるところだったよ。ブロック塀に車が突っ込んじゃってさ。直せるかい?」
「ああ、はい! 明日の早朝にでも、係の者を派遣させていただきます。ご住所は? あっ、はい…、はい…」
 戸倉は電話の内容を机上でメモ書きした。
「料金は軽微ですと、1日まで修理費込みで2万を頂戴しておりますが、この件ですと、一日当たりの手間賃が!万、そこへブロックの材料費を別途、頂戴いたしとうございますが。… … あっ、はい! 分かりました。ではそういうことで。、明朝9時に入らせていただきます。詳細はお伺いした上で。はい! どうも、ありがとうございました」
 戸倉は口八丁で、上手く依頼を引き受けた。
 取ってつけたような嘘が、上手い具合にスンナリ出て、戸倉はホッとした。嘘も方便とは上手いこと言ったものだ…と、戸倉は刹那、思った。これなら異次元の向こうにずっといた方がいいな…という怠惰感も出てくる。というのも、人材屋は戸倉一人だから、どうしても無理にやってしまうのだ。切りをつけようとしても、アレコレと目につくことがあると手が出た。
 それから一週間ぱかり日は流れたが、これといって異常な兆(きさ゜)しはあらわれず、異次元の戸倉ことアチトクは一度も現れなかった。戸倉は次第に超常現象の起因を探りたくなっていた。アチトクも探るとは言っていたが…とは思えたが、出現もなく電話連絡も入らないところをみると、まだ起因が判明できないんだ…と思えた。いつの間にかひと月が経ち、ふた月が過ぎると、戸倉の記憶もすっかり薄らいだ。
 あるとき、出ようとしていた戸倉に、都合でキャンセルしたいという携帯が入り、仕事に空きが出来た。ドタキャンである。作業衣に着替えを済ませ、道具も車に積みこんで出ようとしていた矢先だったから、戸倉は少し怒れた。しかし、事情を聞けば依頼先にもハプニングがあったらしく、怒りは鎮まって了解した。そんな仕事の空きだったが、しばらく休めてなかったな…と思え、いい身体休めだな…と戸倉は思い返した。だが、この事実は異次元の戸倉の出来事と関連していたのである。そのことを戸倉もアチトクもまだ気づいていなかった。そのとき、異次元では異変が起きていた。本来なら、戸倉の昨日の現象が進行するはずだったが、科学では解明できない空間の歪みが生じたのである。戸倉がいる三次元空間では、すべてが科学で解明される・・とする。ところが、それはただ単なる三次元に生きる戸倉達人間の心の気休めでしかなかったのである。所謂(いわゆる)、三次元理論ともいえるもので、異次元ではまったく通用しない理論なのだった。それを証明する根拠は、宇宙の果てには何があるのか・・という思考に他ならない。宇宙は膨張している・・とか論ずる三次元科学だが、膨張という概念は有限の世界に通じる理論だった。
 戸倉は、ふと手を止めて部屋の隅の異次元へ通じる空間の穴の辺りを見た。妙なことにその空間穴は渦巻いていて、戸倉にも鮮明に見えた。戸倉は唖然として近づき、その空間穴を見続けた。確かに渦巻いている…と、戸倉が確信したとき、戸倉はクラッ! と目眩マイ(めまい)を覚えた。何かに身体が引き込まれそうになる幻覚が続いて戸倉を襲った。戸倉はその場に倒れ、気を失った。
 戸倉が気づくと、店員と思われる若者が一人、必死に呼びながら戸倉を抱き起こしていた。どこかで見た店員・・アチトクがいた異次元か…と、戸倉には思えた。
「店長! 大丈夫ですか?」
「… … ああ」
 戸倉はよろよろと立ち上がった。さっきまでの人材屋の風景が消えていた。机があり、憶えのある店員が他にもいる。どこから見ても異次元の戸倉人材店だった。見回したがアチトクはいなかった。それもそのはずで、アチトクはその頃、戸倉のいる人材屋へ現れていた。時空の歪みで、戸倉とアチトクの存在次元が入れ換わったのである。戸倉は自分の携帯番号を押した。
「はい! 私です」
『今、異次元にいますが、アチトクさんは?』
「あなたの人材屋です」
『そうですか…。どうも入れ換わったようですね。おやっ? アチトクさんに見せて戴いた店隅にある時空の穴が消えています』
「そうですか…。どうも、私達は入れ換わったまま、生きていかなきゃならないようですね、ははは…」
『笑いごとじゃないですよ! どうします?』
「失礼しました。しかし、どうしようもないじゃないですか、私達には」
「はあ、それはそうですが… ~~▽□※×=~~!!」
 そのとき、携帯がノイズを出し、二人の電話回路は断たれた。以後、二人は異次元で別の人生を味わうことになった。

            THE END


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短編小説集(42)人材あります![1]<再掲>

2024年09月23日 00時00分00秒 | #小説

 「ははは…私のところは何でも屋じゃありませんので…。はい! また、よろしくお願いします」
 戸倉真一は携帯を切った。ここは、事務所を兼ねた戸倉の自宅のひと部屋である。[人材あります]と広告は出したが、自分以外は誰もいない個人経営なのだ。とても会社などと呼ぶのは、おこがましいし、店を出してます・・などとも言えない小営業だった。まあ、まだ起業して10日ばかりだから、それほど落ち込むことではないと戸倉は開き直っていた。そんなことで、他に人材はなく、戸倉がすべての人材だった。依頼の電話内容が戸倉に出来ることなら、「伺(うかが)わせていただきます!」だし、出来なければ、「誠に残念でございますが、生憎(あいにく)その手の者が休んでおりまして…」などと断っていた。要は、気楽な稼業なのだ。とはいえ、休日、勤務時間、手間賃の価格表などはキッチリと決められているのだから恐れ入る。さらには名刺もきちんと作られていた。名刺には[人材屋]と、やや大きめの文字が1行目に印字されていて、中央右横に小文字で「人材派遣業、委託派遣専門官、修理全般・業務取扱主任者、庭園管理士…」などと肩書きがズラリと並び、中央に大文字で戸倉真一と印字されていた。そして左下隅に、小文字で住所と電話番号が小文字で印字されていたが、もちろん、店の人材屋は家の住所と同じであり、電話は携帯のみだった。必然的にFAXはない・・ということになる。こんな名刺を貰(もら)っても、怪しい…としか思いようがない代物(しろもの)だった。それでも世間は、さまざまだ。
「はい! それなら出来ますので、係の者が10時頃、伺わせていただきます、ありがとうございます。… … はい! 料金は1日まで修理費込みで2万を頂戴しております。追加料金は1日につき5千円でございます! … … はい! 即金払いでも、振り込みでも…ええ、2回の分割でも結構でございますよ。… … はい! では、よろしくお願いいたします」
 戸倉は携帯を切った。
 その一時間後、戸倉は依頼先の中庭で脚立に乗って松の剪定をしていた。それは、必然的にそうなる。前にも言ったが、係の者といっても戸倉の他に依頼先へ行く者は、いないのだから…。
「ごくろうさま! ちょっと一服して、お茶にして下さいまし~!」
 戸倉が手を止めて声がした方を見遣ると、この家の若嫁が微笑んでいた。
「やあ、どうも! いつも、すみませんなぁ~!」
 この依頼先は戸倉のお得意先で、今回で三度目だった。プロ技の庭園管理士の資格も独自の勉強で修得し、技も独自で身に付けた戸倉だったから、出来上りはプロの造園業者と遜色なかった。しかも料金が格安だったから、人手間のそういらない小口の庭仕事は他の業者と比較して格安となり、今年も依頼されたという訳だ。
 菓子とお茶で一服したあと、戸倉は続きの作業を終えて昼にした。昼はいつも買う弁当屋の弁当持参だが、その冷えたものをこの家のレンジでチン! してもらい食べた。
「奥さん! 終わりました!」
 夕方前に作業は終了した。
「有難うございました。はい、これ! 今日の分です。ちょっと、色つけときましたから、それで美味しいものでも食べて下さい」
「いや~、返って気を使わせちまいましたね。では、遠慮なく…。これ、領収書でございます。また、ご贔屓(ひいき)に!」
 戸倉が軽四輪を始動したとき、空はすっかり暮れ泥(なず)んでいた。家へ戻り、2万3千円入った封筒を確認し、戸倉はフゥ~っと溜息を一つ吐いた。戸倉にとって、今日は運転中に携帯が震えなかったのは幸いだった。バイブ設定にしてあるが、時折り運転中に携帯が震え、戸倉に冷や汗をかかせることがあった。交通ルールが改正され、運転中の電話は罰則の対象となったから、それ以降、━ ただいま、電話に出ることができません。発信音のあと、ご用件をお話し下さい ━ の機能にしてあるのだが、かかった瞬間は振動するからギクッ! と戸倉をさせた。戸倉はそれが嫌だったが、総員一人の稼業では致し方ない。で、フゥ~っという溜息が出た。交通ルールが改正され、運転中の電話は罰則の対象となったから、それ以降、━ ただいま、電話に出ることができません。発信音のあと、ご用件をお話し下さい ━ の機能にしてあるのだが、かかった瞬間は振動するからギクッ! と戸倉をさせた。戸倉はそれが嫌だったが、総員一人の稼業では致し方ない。で、フゥ~っという溜息が出た。
 戸倉の計算では一ヶ月の生活費は十数万もあれば十分、事足りた。ただ、人材屋に係る諸経費を数万は予備費として取っておかなければならないから、二十万は稼がねばならない計算になる。まあ、稼ぎの少ない月もあり、今までの蓄えを取り崩すもあった。ただ、60を過ぎ、早期に年金をもらう手続きをしたから、その分の十万以上はさっ引くことが出来るようになり、随分と楽になっていた。足らないのは諸経費分だけとなり、かなり今までの取り崩し額を償還することが可能になったのだ。そうなると、勢いで元気も出る。人はゆとりが生まれないと生活が荒(すさ)むとは、戸倉が得た教訓だった。
 店の宣伝もしなければ客がつかない。宣伝には広告掲載と直接、車をゆっくりと運転しながら、事前に録音した音声のデモテープを回すという二つの方法があった。それ以外でも、ネットで無料のブログ、Twitter、Facebookを開設し、店の宣伝をした。ただ、総員1名、店員1名の店では依頼が重複し、そのスケジュールのやりくりに頭を悩ませる事態も起きた。その都度、戸倉は客の機嫌を損なわないように苦心した。
「人材屋でございます~! 人材あります! 人材あります!」
 次の日、戸倉はゆっくりと自動車を走らせながら、デモテープを流した。その声はスピーカーで拡声され、辺りに鳴り響く。しかしそのとき、戸倉はハンドルを回しながらふと、あることに思い当った。
━ 待てよ! 廃品回収で閃(ひらめ)いたから、こうして回ってるが、お客に声かけられる訳じゃないよな ━
 確かに、落ち着いて考えてみれば、戸倉の仕事は呼び止められて物を売ったり回収したりする商売ではなかった。
━ これは、無駄か… ━
 戸倉が気づいた結論だった。戸倉はすぐテープを止め、家へと車を反転させた。
 家へ戻ると、急に腹が空いていることに戸倉は気づいた。買っておいた即席のヌードルに湯を注いで、とりあえず腹を満たした。ふと、風呂を沸かそうと思い、浴室へ行くと誰かの声がガラス越しに聞こえた。この家に住んでいるのは自分だけだから、尋常ではない。静かに脱衣場のガラスに耳をあてがうと、自分の声だ。もう一人の自分が鼻歌を唄っていた。よく考えれば、状況は昨日の夕方に似通っていた。選定の仕事を終えて家に戻った。…そして、風呂に湯を張り、入ったのだ。なぜか、この鼻歌が口から飛び出したんだ…。戸倉は昨日の夕方の記憶を辿(たど)っていた。ということは、まだ私は今日の無駄な動きはしていないんだ…と戸倉は思った。ただ、目の前で起こっている事態が科学ではとても信じられない面妖な現象である。戸倉は腕を抓(つね)ってみた。瞬間、激痛が走った。
━ 夢じゃないぞ… ━
 戸倉は、ゾクッと身の毛が逆立った。冷静になれ、冷静になれ…と自分に言い聞かせながら、戸倉は取り敢(あ)えず茶の間へ戻った。
━ これが現実とすれば、このあと俺は風呂から出た自分に出会うことになる。今日の無駄な動きはするなと、上手く伝えられないだろうか…、待て待て待て! そんなことが出来る筈(はず)がない、これは現実じゃない… ━
 戸倉は卓袱台(ちゃぶだい)へ顔を伏せた。戸倉はその姿勢のまま、疲れからウトウトと眠りへと引き込まれていった。そして、30分が経過し、ついに接近遭遇のときがきた。
『やあ、お先でした…』
 自分と瓜二つの男は、落ちついてまったく驚かない上にやけに馴れなれしかった。その風呂上がりの姿は、完璧(かんぺき)に昨日の自分である。戸倉の方が幾らか怯(ひる)んでドギマギした。
「はあ…」
 通り過ぎる昨日の自分にそう返して、軽くお辞儀するしか今の戸倉には出来なかった。いや、それより、ともかく俺の前から早く消えてくれ…という思いの方が強かったかも知れない。
『あっ! そうそう。これだけは言っておかねばなりません。私はあなたですが、異次元のあなた、という存在なのです』
「えっ?! どういうことですか?」
 戸倉は恐怖心を忘れて訊(たず)ねていた。
『どういうこともなにも、…そういうことです』
「いえ、よく分からないんですよ、俺には!」
『ははは…、困ったお人だ。異次元だと私は、こうも違いますか。まあ、それはあなたの方も言えることなんですが…』
 そういや、こいつは少し俺より穏やかな性格のようだ…と戸倉は思った。
「あなたは俺なんですよね?」
『ええ、紛(まぎ)れもなく、あなたです。ただし、異次元の…』
「異次元では一日遅れるんですかね?」
『ええ、そのようですね。私から見れば、あなたは一日先の未来を生きてらっしゃるように見えますが…』
「これから、ずっとおられるんですか?」
『いえ、そうではないみたいです。知人の話では数時間で消えるようでして、次の日、また出現するようです。そういうことが半年ほど続くとか言ってました。原因は知人にも分からなかったようで。むろん、私にも分かりませんが、ははは…。湯冷めしますので、上を着てきます』
 よく話す奴だ…と戸倉は思ったが、瓜二つの自分が話しているのだから腹は立たなかった。男が奥へ消えると、たちまち静寂が辺りを覆った。ただ、ひとりのときの静けさとは異質の異様な恐怖の静けさだった。戸倉は男のあとを追って立とうか、このまま座っていようか…と迷った。結局、五分後に戸倉は立っていた。
 クローゼットへ向かうと、男はパスローブを纏(まと)っていた。昨日の俺とまったく一緒だ…と、戸倉はふたたび、そら怖ろしくなった。
『おお、来られましたか…』
 男は動きながら戸倉に話していた。そういや絶えず動き続けている男に、戸倉は少し奇妙さを感じた。
「あなたは止まりませんね?」
『ははは…そりゃまあ。私はあなたの過去を動いているのです。私の今は、あなたの過去の時の流れですから、止まれないんです』
 そうなんだ…と、戸倉は思った。男の側面は厚みがなく見えなかった。完璧な二次元空間に男はいるようだった。
「なぜあなたに側面がないのか、俺にはよく分かりません? まあ、それはおっつけ聞かせていただきます。あっ! 明日は無駄な動きになりますから、車で動かれない方がいいですよ」
『それが出来ればいいんですが…。今も言いましたように、私は過去のあなたなんです。いわば、あなたの過去で生きる氷上の映像です』
 戸倉の過去の分身は動きを止めず、いつの間にかキッチンのテーブル椅子に移動してワインを傾けていた。もちろん戸倉もピッタリと男に付いて動いていた。男は寛(くつろ)ぎ、戸倉は疲れていた。昨日の俺は楽なんだな…と戸倉は、今の自分が馬鹿馬鹿しくなった。
「あなたはアチラではどういう暮しをなさってるんですか?」
『一日遅れですが、今のあなたのワンランク上の生活です』
「ワンランク上?」
『はい。ちょっと分かりにくかったですかね。つまり掻(か)い摘(つま)んで申しますと、あなたがB級グルメを堪能(たんのう)されているとき、私はA級か超A級グルメに舌鼓(したつづみ)を打っていると・・まあ、そんなところでしょうか』
「ああ、なるほど。そう言ってもらえれば、俺にも分かります」
 道理で俺より上品なはずだ…と、戸倉は納得した。
『あっ! このワイン、美味ですね』
「安物ですよ」
『そうですか? 高級ワインより返って美味なのは、なぜなんだろう…?』
 異次元の戸倉はグラスに残ったワインを味わいながら首を捻(ひね)った。
 戸倉には少し嫌味に聞こえたが、穏やかながらも自分の声だったから、余り腹は立たなかった。
『あっ! もう、こんな時間か。そろそろ消える時間だ…』
 腕時計を見ながら、戸倉の分身は呟(つぶや)いた。
 その時計は戸倉が今、身につけている時計とまったく同じものだった。戸倉も思わず釣られて自分の腕を見た。
「そうなんですか? 俺にはよく分かりませんが…」
『ええ、この前、初めてこちらへ来てあなたを影から眺(なが)めていたのですが、消えるまでが約2時間でしたから』
「はあ…」
 戸倉は黙って話を聞くより他なかった。
 男はそのまましばらくテーブル椅子に座っていたが、やがてスゥ~っと跡形もなく消え去った。戸倉には目の前で起きた超常現象が俄(にわ)かには信じられなかった。だが、自分の分身である異次元の男が飲み干したワイングラスは厳然として戸倉の前にあった。戸倉は否応(いやおう)なしに目の前で起こった出来事を事実として認めざるを得なかった。戸倉はその出来事を確認しようと浴室へ急行したが、浴室には湯気もなく、人が風呂へ入った痕跡もは微塵(みじん)もなかった。戸倉は三度(みたび)、ゾクッ! っと身体に震えを覚えた。
 ともかく、それ以降はいつもと変わりなく時が推移していった。一日を無駄に過ごしたような気分を忘れさせてくれた自分の分身。異次元の自分だとか言っていたが…と、夕方、戸倉は湯を張った浴槽に身を沈めながら巡った。科学万能の世に、こんなことがある訳がない。俺は疲れてる・・と戸倉は自分に言い聞かせた。
 次の日の朝、昨日のこともあり、戸倉は今日は休もう・・と思った。だが、二度寝した途端、携帯音に起こされた。仕方なく戸倉は携帯を手にして耳にあてがった。
「はい! 人材屋でございますが!」
 戸倉は不満げに、いつもより愛想のない尖(とが)った声を出していた。
『ああ戸倉さん、昨日はどうも。一日前の戸倉です』
 戸倉は唖然としてベッドに腰を下ろした。知らず知らず携帯を握る手が震え、脂汗(あぶらあせ)が額(ひたい)に滲(にじ)んでいた。
「いえ…なにか?」
『昨日、言い忘れていたのですが、電話は次元に関係なく、いつでも通じます。それを言い忘れたもので…』
「はあ、態々(わざわざ)…」
 戸倉はそう返していた。

  ※ (2)へ


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短編小説集(41)動く[move] <再掲>

2024年09月22日 00時00分00秒 | #小説

 動く前には何らかの発想がある。そのとき弘次は停止していた。何かをしよう・・という思いではないが、ただ動いた。動いていた。動きに意味はなかった。しかし、その目的を持たない単純な動きには、こうしよう…という発想はなく、短絡的な刹那の動きでしかなかった。
 動こうという意志のある動きには一定の律動的な長い動きがある。悪い行いとして法律が定義する場合は、それを心証作為、心証不作為として区分けする。良い行いの場合は、誠意、深意、発意と三段階に分かつ。ただ、善悪何(いず)れの場合においても、その発想自体は表面上、人の目には見えないから、安全→+にも危険→-にもなる不確かな感覚で、捉えどころがないから厄介な概念ではある。では、むしゃくしゃして、刹那的な行為に及ぶ動きはどうなのか・・という問題になる。実は、この動きにも、長い経過時間によってフラストレーションが蓄積された挙句の深層心理の動きという過程(プロセス)を含むのである。だから人が動く場合は、単純にしろ複雑にしろ、心理に働きかける何らかの誘因があるいうことになる。それが+の場合は善行となって具現化し、-の場合は犯行として具現化する訳だ。
 長閑(のどか)に秋雲が流れていた。弘次が動こうとしたのは遠出しようとした発想だった。ふと、時計を見て動きが止まった。長閑な秋雲に心が旅へと誘(いざな)われたが、すでに10時は回っていた。だから動きが止まった。ただ、それだけのことである。別の日にしよう…という想念に押し切られた格好だ。もし逆に、そのプレッシャーに逆行して旅立っていればどうなったか・・。そこには新たな人生の歩みがあったかも知れないのである。むろん、その結果には+-の両方があり、強(あなが)ち、よかったとも悪かったともいえない微妙さを秘めているのだが…。事実、この場合の弘次の判断は正しく、その時刻、走ろうとしていた高速道路は追突事故で大渋滞していたのだ。さらに遅れたかも知れないし、最悪の場合、その事故に巻き込まれていた可能性もあった。人はこれを運がよかったという。
「そうそう、うっかり忘れるところだった…」
 弘次が出かけなかったのは遅くなった時間の原因もあったが、もう一つ、大きな真相が隠されていた。貰(もら)いものの冷やした超高級マスクメロンを食べ忘れていたのだった。食べずして人生を語れようか…という弘次である。…強ち、人は単純な動機で停止したり動いたりするのだ。
 一時間後、雲が流れる秋空の日射しを浴びながら、弘次は美味い極上のマスクメロンを口へと運んでいた。


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短編小説集(40)クロスバー<再掲>

2024年09月21日 00時00分00秒 | #小説

 城崎要(しろさきかなめ)は、また司法試験を落ちた。今年はそんなに出来が悪いとも思えず、城崎にはある程度の自信があった。しかし、大きく貼り付けられた合格掲示板の掲示用紙の上に自分の番号は見つからなかった。自信ある人生の踏み越しだったが、クロスバーは惜しくも城崎の上へ落ちていた。
 熊代佳彦(くましろよしひこ)は棋士を目指していた。しかし、プロへの道はそう甘くなかった。ついに今年、奨励会・三段リーグを26歳の年齢制限により退会した。自信ある人生の踏み越しだったが、クロスバーは惜しくも熊代の上へ落ちていた。
 須藤真一(すどうしんいち)はプロ作家になるべく日々、机に向かい直木賞への筆を進めていた。しかし、雑誌に掲載された自信作は、最終選考に残ったものの選からは外れた。自信ある人生の踏み越しだったが、クロスバーは惜しくも須藤の上へ落ちていた。
 城崎は、めげなかった。開き直って作戦を変えた。試験勉強の方法を違った角度から180度、転換したのだ。その結果、翌年受けた合格掲示板の掲示用紙の上には自分の番号があった。城崎は、やった! と思った。クロスバーは揺れたが、城崎の上へは落ちなかった。
 熊代は、めげなかった。棋士への道を諦(あきら)めきれないでいた。開き直って作戦を変えた。翌年、嘆願書を連盟に出し、アマチュア選手プロ編入試験を受けたのだ。年齢的に彼の場合、その方法しかなかった。その結果、六番勝負にて3連勝し、見事、プロ入りが決定した。憧(あこが)れのプロ4段となったのだ。熊代は、やった! と思った。クロスバーは揺れたが、熊代の上へは落ちなかった。
 須藤は、めげなかった。プロ作家になりたかった。開き直って作戦を変えた。実績をつけようと思った。種々の受賞実績が直木賞への目に見えない主張になることは分かっていた。翌年、本屋大賞に応募し、大賞を射止めた。そして、その余波をかって直木賞最終選考に、またもや名を連ね、受賞が決定した。須藤は、やった! と思った。クロスバーは揺れたが、須藤の上へは落ちなかった。
 その後も三人の人生には紆余曲折(うよきょくせつ)があった。しかしその都度、三人は、めげなかった。人生を終えたとき、三人は人生のクロスバーを越えていた。

             THE END


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短編小説集(39)病院旅行<再掲>

2024年09月20日 00時00分00秒 | #小説

 父と息子はバスから降りると、テクテクと歩き始めた。空は雲ひとつない秋の青空が広がっている。爽快に吹き渡る風も二人には心地よかった。
「いい天気だ! こりゃ、いい旅になったな、まさる」
「うん! あそこの病院も、なかなかよさそうだよ。この前、友達から聞いた。お母さんが薬もらいで通院しているんだって」
「ふ~ん、そうか…。ああ、あの建物か。なかなかいい風情の病院そうだ」
「聞いたとおりだよ」
「病院は、なんといっても人情に厚く、美味しく、風情がないとな」
「なんか寛(くつろ)げないよね」
「ああ…」
 そんなことを話している内に、二人はその病院へ着いた。病院の表門には[寒天堂大学病院]と書かれている。
「寒天堂大学病院か…。なかなかの病院みたいだ」
「さっき巡った再入会病院もよかったよ。売店の自動販売機のきつねうどんは美味(おい)しかった」
「ああ…揚げが甘く染みてたな。そのひとつ前の猫の門病院も風情があったな」
「うん! あそこの売店のコーヒーは、値打ちもんだったね」
「ああ、美味(うま)かった…普通の喫茶店並みだ。どれどれ、ここは…」
 病院エントランスへ入った二人はグルリと病院内を巡った。
「あの中庭の竹林は、いい!」
「父ちゃん、ほら、あそこにベンチがあるよ」
 二人はベンチに近づくと、腰を下ろした。
「自動販売機もあるな…。よし、今度は紅茶を味わってみよう」
「そろそろ昼どきだよ、おなかが減った」
 まさるは辺りを見回した。
「あっ! あそこに売店がある。父ちゃん、僕、おにぎり買ってくるよ」
「よし! じゃあ、紅茶はあとにして、熱い茶を先に買おう。いい旅になったな、まさる」
「うん!」
 二人は、ふたたび立つと楽しそうに動き始めた。

                  THE END


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短編小説集(38)一輪の赤い薔薇[バラ]<再掲>

2024年09月19日 00時00分00秒 | #小説

 正喜は散々、虫に食われた薔薇(バラ)を見て、しみじみ思った。地面から幾筋も分かれて生えている細い枝のような幹・・葉は一枚すらなく、見事! と言えるまでに食べ尽くされて茶色に変色していた。よ~く見れば、その茶色の枝には蓑虫があちらこちらとぶら下がっている。その数、ざっと二百匹はいるようだ。大群である。思い返せば、ここ二十年ばかり、花の咲く春から夏を除いて緑の青々と茂る枝葉を見たことがない…と正喜は思った。この惨状を見なかったことにすれば事は足りる。だが、正喜は見てしまったのだ。
 それから二時間ばかり、枝からむしり取るようにして集めた蓑虫の数は、やはり二百匹ばかりに及んだ。世間一般には、この行為を駆除という。これは植物側から見て・・という観点になる。動物側から見れば、天災に見舞われた…と、まあこうなるのかも知れない。そんなことを哲学的に考えている場合ではない…と正喜は刹那(せつな)、思った。正喜は、ともかく雑念を振り払うことにした。
 駆除した蓑虫は落ち葉で焼いたが、少し哀れに思え、次の日の駆除作業からは遠くへ捨てるだけにした。見回すと薔薇が中心ながらも、梅・・その他の樹も結構、食われていた。結局、見て見ぬふりの旅人を決め込み、それ以降、正喜は見ないことにした。自然の摂理には一定の法則がある。減反で草だらけになった田畑により虫が増えた。もちろん、異常気象に伴う暑い季節が長引いたこともその一因なのだが…。すべては人間が自然を壊しているのかも知れないと正喜は思った。
 一週間が経ち、茶色い枝だけの薔薇に緑の葉が生え始めた。そしてよく見れば、その先端に一輪の赤い薔薇が咲いているではないか。正喜にはその花が、せめてもの薔薇の樹の礼に思えた。

                THE END


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短編小説集(37)話<再掲>

2024年09月18日 00時00分00秒 | #小説

 日曜日、学校は休みで、のんびりしようとしていた矢先、母に言われた友樹が家の前を掃いていると、偶然、幼馴染(おさななじみ)の幸弘が自転車で通りかかって停止した。
「そら…あそこの獄城(たけしろ)さんが亡くなったって、知ってるかい?」
「いや、…そうなんだ」
「さっき、霊柩車が火葬場へ向かったところさ」
「ふ~ん。そりゃ、お悪いことができて…」
「ごめん、悪いこと聞かせたな」
「謝ることじゃないけどさ。よく知らない人だから…。僕は人に悪い話はしないんだ…。聞いた方は余り気分よくないだろうし…」
 友樹は掃く手を止めて、そう言った。
「ああ、そうだね…」
 幸弘は友樹に合わせた視線を落として地面を見た。
「子供の僕が言うのもなんだけど、どうせ、短い一生。せっかく出会ってさ、お互い、少しでも気分よくなりたいじゃないか。そうは思わない?」
「話す内容か…。確かに、そうかもな」
「世の中よくするのは、そんな些細(ささい)なことかも知れないよ」
 友樹は笑顔で幸弘を一瞥(いちべつ)すると、ふたたび家の前を掃き始めた。その瞬間、雲の切れ目から日が微(かす)かに射し、辺りは明るくなった。数日ぶりの日の光だった。
「そういや、親しい中にも礼儀あり! って言うな。僕も次から、明るい話をするようにするよ」
「するように・・じゃなく、することに・・で頼みたい。ははは…明るくする会!」
 掃き終わった友樹は手を止めて笑った。釣られて幸弘も笑った。
「ははは…じゃあな」
「ああ…」
 幸弘が自転車で去る後ろ姿を見ながら友樹は思った。どうせ無理だろうけど、ささやかなレジスタンスだと…。

               THE END


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短編小説集(36)…な気分<再掲>

2024年09月17日 00時00分00秒 | #小説

 ある夕刻、大畑はシャワーを浴び、目を閉じることで風呂に入ったような気分を味わった。日射しも弱まり、大畑は少し肌寒さを感じた。
 次の日の同時刻、大畑は風呂を沸かし、浴槽にとっぷりと浸(つ)かって目を閉じた。すると、目を閉じることで、温泉に入ったような気分になった。思い描く脳裡の映像は岩肌の露天風呂にゆったりと浸かり、紅とオレンジに映える夕空と海を眺(なが)めている景観だった。こりゃ、いい…と刹那、大畑は思った。目を閉じることで景観が一変するのだ。結果、現実では達成できない種々の…な気分が味わえるという寸法だ。そういや、ビートルズの♪イマジン♪という曲があった…と大畑は思った。…な気分、これは今、流行(はや)りのタブレット型端末など目じゃないぞ! と思えた。パスカルによれば、そもそも人間は考える葦だ…と大畑は巡った。それが、いつの間にかコンピューターの人工知能に考えさせ、自らは考えることをやめてしまっている。そればかりか今や、自動車の運転まで人工知能に任せようとしているのだ。これは明らかに人間の退化の始まりだ。千年後、もし地球が存在していて人類もまた生存していたなら、恐らく頭脳は退化し、今の…な気分は味わえないかも知れない。いや、それどころか、人工知能の機械なしでは生存できない情けない生物になり下がっている可能性も皆無とは言えないだろう。大畑は目を開けるとジャブッ! と浴槽の湯を両手で顔へかけた。知らないうちに浸かってから数十分が経過していた。やや逆上(のぼ)せている身体を冷やそうと大畑は浴槽から勢いよく飛び出た。そして、シャワーの冷水を頭に流し、ようやく落ちついた。
 風呂上がりでグラスのワインを傾けながらチーズを頬張り、大畑は目を閉じた。豪邸の優雅な暮らしの中に大畑はいた。家族に笑顔で囲まれていた。幸せな気分がした。溜息をついて大畑は目を開けた。その瞬間、大畑は驚いた。目の前には脳裡に描いた笑う家族がいて、豪邸の中で大畑を囲んでいた。

               THE END


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