私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝、いつものように購読している読売新聞の朝刊を読み、
日曜版の定例特集の片隅に『星のお願い』という宇月田麻裕(うつきた・まひろ)氏による
今週の占い(7月28日から8月3日)が掲載されていて、
齢ばかり重ねた私でも、たわむれに私は読んだりした。
私は『てんびん座』な属するので、この欄をこっそりと読んだりした・・。
《 すてきな思い出作りができる週。
旅行にはカメラやビデオを忘れずに持って・・》
と記載されていて、読み終わった後、苦笑したりした。
私は暑さに苦手な身であるし、学童が夏休みの期間は旅行先でも人が多くなり、
できる限り何かと国内旅行の好きな私たち夫婦は、夏の期間は敬遠してきた。
この後、ぼんやりと定年後の年金生活の中で、夏季の時節で・・旅行をしたのは、
と過ぎ去りしの年を思いめぐらして、私の机の中にある年代別の簡素なカレンダーを見たりした。
やがて、2010(平成22)年の夏の終りの8月30日から9月4日まで5泊6日で、
東北地方の太平洋に面した三陸海岸で、宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』に3連泊、
その後に盛岡市の郊外にある繋(つなぎ)温泉の奥地にある鶯宿(おうしゅく)温泉に連泊、
と書かれていた。
そして翌年の2011年3月11日に東日本大震災で、巨大な津波が発生して、
宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』も大災害となり、
無力な私は動顚して、この地の悲惨な状況をテレビなどで見ながら、涙ぐんだりしたが、
たまたま私たちは、それ以前の半年前の『浄土ヶ浜』に訪れた。

東京駅から東北新幹線を利用して、盛岡駅に下り立った私たち夫婦は、
山田線の快速『リアス』で、2時間ばかり乗車し、海沿いの宮古駅を下り立ったのは午後1時過ぎであった。
夏空の快晴の中、30数度の熱さと感じたのであったが、
ホテルからの送迎バスが待機して下さり、私たちは乗車した。
車窓から市街を眺めた後、つづら道の道路の周辺は、
圧倒的に多い赤松の中、ときおり海の景観が観られた・・。
翌日、赤松は南部赤松(ナンブ・アカマツ)と知るのであるが、
このような広大な一帯の中に『浄土ヶ浜パークホテル』があり、
前方の南部赤松の枝越しの下方に、海に面した浄土ヶ浜が観え、高台の丘陵の先端に建つ景観の良いホテルであった。

海上から見上げると、数多くの南部赤松があり、その中でそれぞれの広葉樹が緑の彩(いろど)りがあり、
丘陵の高台に聳(そび)える情景である。
私たちは3泊したが、このような情景を朝夕に眺めたり、
館内の外れにある露天風呂からは、紫陽花(アジサイ)の残り花が見られたりし、
私は微笑んだりした。
たまたま5階の宿泊した部屋から、一角を眺めたりした時、
南部赤松の幹に朝の陽射しを受けて美景を見ていた時に、
浴室の蒸気が下方から立ち昇り、この蒸気が朝の陽射しを受けると、
10色に変貌する虹の情景になり、私たち夫婦は思いがけない美麗に見惚(みと)れたりした。
或いは館内のフロアーの中、高価な横幅の大きな額の扁額(へんがく)には、
確か『高談娯心』と雄渾に毛筆で描かれ、高齢者の私さえ思わず微苦笑させられたりした。
こうした中でも、私は仲居さんからは、
『よく、おでんすた・・』
と云われたりし、よくお越し下さいまして、私でも理解できた。
そして『どうぞ、お休みめん』も、
ゆっくり、お休み下さい、と私は仲居さんの表情としぐさで判ったりし、
私は心の中で微笑んだりした。
もとより方言は、それぞれの地域の文化の基軸である、と私は確信しているひとりである。
リゾート・ホテルのような形態でもあったが、
このようにやすらぎを感じさせる観光ホテルでもあり、
そして親潮と黒潮が交わる宮古の海の幸を、幾たびかり食事で十二分に頂いたりした。
家内は旅立つ二週間前、浄土ヶ浜を観るのに、
陸地、海岸沿いの遊歩道から観たり、海上からこの周辺も眺めるのには遊覧船、モーター・ボートなどで思案していた時、
さっぱ船と称される数人が乗れる小船で、付近の海岸に面した洞窟を観られるサイトを見ていた・・。
私は家内に教えられ、特に『青い洞窟 さっぱ船』のコーナーを見たりし、
『いいでしょう・・素敵な処みたい・・』
と私は家内から教示させられて、私たち夫婦は今回の旅の楽しみのひとつとしていた。
私たち夫婦はホテルにチエックインした初日、小休憩した後、まもなくマリンハウスをめざした・・。
ホテルのはずれの小さな歩道の急坂を下り、赤松に囲まれた中の道路を5分ぐらい下ると、
幾つかの色鮮やかなパラソル、白いテーブル、椅子席が観えた・・。
前方の海上には、浄土ヶ浜の島々が点在する美景であった。
この後、私達はさっぱ船の乗船予約した後、黄色い救命具を着て、白いヘルメットを被り、
船長兼観光ガイドさんの下で、さっぱ船に乗り込んだ・・。
さっぱ船からの低い海上の視線から、白き岩山に赤松がある浄土ヶ島どの名島、剣の山などの案内を受けたりした。
その後、八戸穴の周辺に近づくと、
小さな15センチ前後のクラゲの群れを見かけ、思いがけない遊泳に見惚れたりし、
私たちは船長に、絶賛した言葉を重ね、歓声をあげたりした・・。
そして、本命である八戸穴の青き洞窟にさっぱ船が入ると、
海の色合いはエメラルド・グリーンから急激にコバルト・グリーンに変貌した。
淡い青色、青色、蒼色は、海上から射しこむ陽光、潮の満ち干と海面の深さ、
そして周囲の岩の部分にある鉱物などで変貌するので、そのひとときに大きく変貌する。
このような情景は幾数億の歳月を得て初めて観られる光景であり、
私たちは、まぎれない美景に魅了され、
この日の30日の今回の午後2時半過ぎ、翌日の31日は朝の8時15分過ぎ、
そして1日には午後2時過ぎ、4時半近い最終と、四回ばかり乗船して、それぞれの変貌する情景を眺めたりした。
この間、私たちは2日目の31日に、さっぱ船に乗船した後、
モーター・ボートで『ウミネコ・コース』に乗船して、乗客は私たち夫婦だけであったが、
宮古周辺の三陸海岸の美景を眺めたりしり、
そして私たちはマリンハウスのスタッフと談笑を重ねたりした。
私は乗船後、パラソルの下で、焼きツブを食べたり、煙草を喫ったりし、
缶ビールを幾たびか呑んだりし、
映画の『太陽がいっぱい』の海岸シーンよりも、遥かな美麗でやすらぎのある処、と賞賛したりした。
家内は近くの海岸沿いの遊歩道で、カッパエビセンでカモメ、ウミネコとたわむれていた。
そして秋になると、この周辺はハマギクで一面彩(いろど)る、と私は教えられたりした。
マリンハウスのある浄土ヶ浜の中の浜から、奥浄土ヶ浜までの海岸沿いには、
遊歩道があり、整備された道を私たちは毎日歩いた・・。
右側に視える浄土ヶ浜の島々を眺め、海風を受け心地よく、
ハワイのワイキキ海岸よりも遥かに美麗である、と私は家内に云ったりした。

奥浄土ヶ浜は、白い岩山が幾数千年の波によって侵食された岩のかけらが浜に打ち上げられ、
やがて波間に洗われて、白い小さな玉石のように変貌して、
あたり一面は浄化された白い彩(いろど)りとなっていた。

そして、前方に浄土ヶ浜の島々が連なり、
白い浜、白い岩山も風波さらわれ奇岩の島となったり、中には松が幾重にも観られ、
稀に美麗な情景となっていた。

旅行案内書の『上撰の旅 北東北』(昭文社)の解説文をお借りすれば、
《・・
三陸海岸を代表する景勝地でもある浄土ヶ浜は、宮古湾の入口にある美しい海岸。
沖には飛び石状に岩がつらなり、まるでは箱庭を思わせるような海岸美を見せている。
(略)
手前には白い玉砂利が広がり、青い海とのコントラストが美しい。
浄土ヶ浜の名は1683(天和3)年に、宮古の常安寺の僧侶、霊鏡が発見し、
「さながら浄土のようだ」
と賞辞したことから由来するという。
(略)
・・》
と解説されている。
私は最初にこの本に掲載された情景を見た時、
中世の作庭家たちは、このような情景を観ながら、石庭を創りはじめたのだろう、
と瞬時に思い重ねたりした。
私は付近にあるレストハウスのエアコンの冷風の中で、
ビールを呑みながら、と燦燦と照りつける奥浄土ヶ浜の光景を見つめたり、
このレストハウスの3階の展望台から、家内と共に眺め、ため息を重ねたりした。
そして、レストハウスの駐車場の外れにある歌碑を読んだりした。
宮沢賢治(みやざわ・けんじ)氏が、1917(大正6)年に於いて、
花巻町の有志による東海岸視察団に加わり、工場見学と地質調査を目的とした途上、
うるわしの 海のビロード
昆布らは
寂光のはまに 敷かれひかりぬ

と詠んだ一首があった。
このような歌と古来からの情景を私は重ねたりし、
この奥浄土ヶ浜の美麗を眺めたり、たっぱ船のあるマリンハウスまでの遊歩道を、
さわやかな海風、陽射しを受けたりして、私たちは幾たびか歩いた。

このような旅路を私は思い馳せ、あの限りなく美しい情景は果たして・・と思い重ねたりした。
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今朝、いつものように購読している読売新聞の朝刊を読み、
日曜版の定例特集の片隅に『星のお願い』という宇月田麻裕(うつきた・まひろ)氏による
今週の占い(7月28日から8月3日)が掲載されていて、
齢ばかり重ねた私でも、たわむれに私は読んだりした。
私は『てんびん座』な属するので、この欄をこっそりと読んだりした・・。
《 すてきな思い出作りができる週。
旅行にはカメラやビデオを忘れずに持って・・》
と記載されていて、読み終わった後、苦笑したりした。
私は暑さに苦手な身であるし、学童が夏休みの期間は旅行先でも人が多くなり、
できる限り何かと国内旅行の好きな私たち夫婦は、夏の期間は敬遠してきた。
この後、ぼんやりと定年後の年金生活の中で、夏季の時節で・・旅行をしたのは、
と過ぎ去りしの年を思いめぐらして、私の机の中にある年代別の簡素なカレンダーを見たりした。
やがて、2010(平成22)年の夏の終りの8月30日から9月4日まで5泊6日で、
東北地方の太平洋に面した三陸海岸で、宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』に3連泊、
その後に盛岡市の郊外にある繋(つなぎ)温泉の奥地にある鶯宿(おうしゅく)温泉に連泊、
と書かれていた。
そして翌年の2011年3月11日に東日本大震災で、巨大な津波が発生して、
宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』も大災害となり、
無力な私は動顚して、この地の悲惨な状況をテレビなどで見ながら、涙ぐんだりしたが、
たまたま私たちは、それ以前の半年前の『浄土ヶ浜』に訪れた。

東京駅から東北新幹線を利用して、盛岡駅に下り立った私たち夫婦は、
山田線の快速『リアス』で、2時間ばかり乗車し、海沿いの宮古駅を下り立ったのは午後1時過ぎであった。
夏空の快晴の中、30数度の熱さと感じたのであったが、
ホテルからの送迎バスが待機して下さり、私たちは乗車した。
車窓から市街を眺めた後、つづら道の道路の周辺は、
圧倒的に多い赤松の中、ときおり海の景観が観られた・・。
翌日、赤松は南部赤松(ナンブ・アカマツ)と知るのであるが、
このような広大な一帯の中に『浄土ヶ浜パークホテル』があり、
前方の南部赤松の枝越しの下方に、海に面した浄土ヶ浜が観え、高台の丘陵の先端に建つ景観の良いホテルであった。

海上から見上げると、数多くの南部赤松があり、その中でそれぞれの広葉樹が緑の彩(いろど)りがあり、
丘陵の高台に聳(そび)える情景である。
私たちは3泊したが、このような情景を朝夕に眺めたり、
館内の外れにある露天風呂からは、紫陽花(アジサイ)の残り花が見られたりし、
私は微笑んだりした。
たまたま5階の宿泊した部屋から、一角を眺めたりした時、
南部赤松の幹に朝の陽射しを受けて美景を見ていた時に、
浴室の蒸気が下方から立ち昇り、この蒸気が朝の陽射しを受けると、
10色に変貌する虹の情景になり、私たち夫婦は思いがけない美麗に見惚(みと)れたりした。
或いは館内のフロアーの中、高価な横幅の大きな額の扁額(へんがく)には、
確か『高談娯心』と雄渾に毛筆で描かれ、高齢者の私さえ思わず微苦笑させられたりした。
こうした中でも、私は仲居さんからは、
『よく、おでんすた・・』
と云われたりし、よくお越し下さいまして、私でも理解できた。
そして『どうぞ、お休みめん』も、
ゆっくり、お休み下さい、と私は仲居さんの表情としぐさで判ったりし、
私は心の中で微笑んだりした。
もとより方言は、それぞれの地域の文化の基軸である、と私は確信しているひとりである。
リゾート・ホテルのような形態でもあったが、
このようにやすらぎを感じさせる観光ホテルでもあり、
そして親潮と黒潮が交わる宮古の海の幸を、幾たびかり食事で十二分に頂いたりした。
家内は旅立つ二週間前、浄土ヶ浜を観るのに、
陸地、海岸沿いの遊歩道から観たり、海上からこの周辺も眺めるのには遊覧船、モーター・ボートなどで思案していた時、
さっぱ船と称される数人が乗れる小船で、付近の海岸に面した洞窟を観られるサイトを見ていた・・。
私は家内に教えられ、特に『青い洞窟 さっぱ船』のコーナーを見たりし、
『いいでしょう・・素敵な処みたい・・』
と私は家内から教示させられて、私たち夫婦は今回の旅の楽しみのひとつとしていた。
私たち夫婦はホテルにチエックインした初日、小休憩した後、まもなくマリンハウスをめざした・・。
ホテルのはずれの小さな歩道の急坂を下り、赤松に囲まれた中の道路を5分ぐらい下ると、
幾つかの色鮮やかなパラソル、白いテーブル、椅子席が観えた・・。
前方の海上には、浄土ヶ浜の島々が点在する美景であった。


この後、私達はさっぱ船の乗船予約した後、黄色い救命具を着て、白いヘルメットを被り、
船長兼観光ガイドさんの下で、さっぱ船に乗り込んだ・・。
さっぱ船からの低い海上の視線から、白き岩山に赤松がある浄土ヶ島どの名島、剣の山などの案内を受けたりした。
その後、八戸穴の周辺に近づくと、
小さな15センチ前後のクラゲの群れを見かけ、思いがけない遊泳に見惚れたりし、
私たちは船長に、絶賛した言葉を重ね、歓声をあげたりした・・。
そして、本命である八戸穴の青き洞窟にさっぱ船が入ると、
海の色合いはエメラルド・グリーンから急激にコバルト・グリーンに変貌した。
淡い青色、青色、蒼色は、海上から射しこむ陽光、潮の満ち干と海面の深さ、
そして周囲の岩の部分にある鉱物などで変貌するので、そのひとときに大きく変貌する。


このような情景は幾数億の歳月を得て初めて観られる光景であり、
私たちは、まぎれない美景に魅了され、
この日の30日の今回の午後2時半過ぎ、翌日の31日は朝の8時15分過ぎ、
そして1日には午後2時過ぎ、4時半近い最終と、四回ばかり乗船して、それぞれの変貌する情景を眺めたりした。
この間、私たちは2日目の31日に、さっぱ船に乗船した後、
モーター・ボートで『ウミネコ・コース』に乗船して、乗客は私たち夫婦だけであったが、
宮古周辺の三陸海岸の美景を眺めたりしり、
そして私たちはマリンハウスのスタッフと談笑を重ねたりした。
私は乗船後、パラソルの下で、焼きツブを食べたり、煙草を喫ったりし、
缶ビールを幾たびか呑んだりし、
映画の『太陽がいっぱい』の海岸シーンよりも、遥かな美麗でやすらぎのある処、と賞賛したりした。
家内は近くの海岸沿いの遊歩道で、カッパエビセンでカモメ、ウミネコとたわむれていた。
そして秋になると、この周辺はハマギクで一面彩(いろど)る、と私は教えられたりした。
マリンハウスのある浄土ヶ浜の中の浜から、奥浄土ヶ浜までの海岸沿いには、
遊歩道があり、整備された道を私たちは毎日歩いた・・。
右側に視える浄土ヶ浜の島々を眺め、海風を受け心地よく、
ハワイのワイキキ海岸よりも遥かに美麗である、と私は家内に云ったりした。

奥浄土ヶ浜は、白い岩山が幾数千年の波によって侵食された岩のかけらが浜に打ち上げられ、
やがて波間に洗われて、白い小さな玉石のように変貌して、
あたり一面は浄化された白い彩(いろど)りとなっていた。

そして、前方に浄土ヶ浜の島々が連なり、
白い浜、白い岩山も風波さらわれ奇岩の島となったり、中には松が幾重にも観られ、
稀に美麗な情景となっていた。

旅行案内書の『上撰の旅 北東北』(昭文社)の解説文をお借りすれば、
《・・
三陸海岸を代表する景勝地でもある浄土ヶ浜は、宮古湾の入口にある美しい海岸。
沖には飛び石状に岩がつらなり、まるでは箱庭を思わせるような海岸美を見せている。
(略)
手前には白い玉砂利が広がり、青い海とのコントラストが美しい。
浄土ヶ浜の名は1683(天和3)年に、宮古の常安寺の僧侶、霊鏡が発見し、
「さながら浄土のようだ」
と賞辞したことから由来するという。
(略)
・・》
と解説されている。
私は最初にこの本に掲載された情景を見た時、
中世の作庭家たちは、このような情景を観ながら、石庭を創りはじめたのだろう、
と瞬時に思い重ねたりした。
私は付近にあるレストハウスのエアコンの冷風の中で、
ビールを呑みながら、と燦燦と照りつける奥浄土ヶ浜の光景を見つめたり、
このレストハウスの3階の展望台から、家内と共に眺め、ため息を重ねたりした。

そして、レストハウスの駐車場の外れにある歌碑を読んだりした。
宮沢賢治(みやざわ・けんじ)氏が、1917(大正6)年に於いて、
花巻町の有志による東海岸視察団に加わり、工場見学と地質調査を目的とした途上、
うるわしの 海のビロード
昆布らは
寂光のはまに 敷かれひかりぬ

と詠んだ一首があった。
このような歌と古来からの情景を私は重ねたりし、
この奥浄土ヶ浜の美麗を眺めたり、たっぱ船のあるマリンハウスまでの遊歩道を、
さわやかな海風、陽射しを受けたりして、私たちは幾たびか歩いた。

このような旅路を私は思い馳せ、あの限りなく美しい情景は果たして・・と思い重ねたりした。
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