夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私のサイト、『ブログの開設から3100日』と明示されて、偏(ひとえ)に数多くの皆様に感謝・・。

2013-07-17 12:33:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
先程、私が加入している【gooブログ】の私のサイト『夢愛人かりそめ草紙』に於いて、
『ブログの開設から3100日』と明示されて、こんなに過ぎたのかしら、と微苦笑してしまった。

私は2004(平成16)年の秋、ある民間会社の中小業に35年近く勤めて定年退職して、
まもなくブログの世界を知った・・。

最初はブログの技量も無知なりに【アメーバブログ】に加入した後、
そしてブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】、或いは【すくすくブログ】を知り、
加入したりした。
こうした中で、会員数の多い【gooブログ】を知り、
少し気楽に団塊世代、社会、政治・経済の諸問題を綴ろうと思い、投稿をはじめたのは、
2005(平成17)年1月19日であり、この日から3100日が過ぎた、ということである。
          
この後、この【gooブログ】とブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】
二刀流のようなことを一年半ばかりし、
【gooブログ】は特に政治・経済に関しては、素人のつたなさ、そして無責任の広言を反省し、
投稿を中止した。

その後、2007(平成19)年、肝要の本命である【簡単gooホームページ】が9月末で閉鎖と知り、
8月より半ばより、これまで投稿文が移動できるブログ形式に準じた【OCN Cafe】を知り、
やむなく加入し、殆ど毎日数通は投稿した。

この間、2008(平成20)年の春先から、少し悩んだりした・・。
定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、振り返った時、何かしら鍋物の《ごった煮》のような思い、
ひとつのブログ【gooブログ】で、今まで書き散らかした投稿文3000通前後を、
コピーしながら整理、統合し始めたりした・・。

そして本格的に2008(平成20)年4月中旬から開始し、
私が幼少時代から年金生活までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

やがて併設していた【OCN Cafe】は、 2010(平成22)年7月で中止し、
これ以来【gooブログ】だけの単独とし、今日に至っている。
                          

私の半生は何かと劣等感があり、屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・、
と思いながら、年金生活をしている・・。

年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住みながら、
何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりしていた。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
独りで 毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
               
そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。
そして原則として少なくとも国内旅行で不在、或いはパソコンが故障しない限り、毎日投稿してきている。

こうして私の拙(つたない)い投稿文を重ねてきたが、数多くのお方にお読み頂きたので、
8年半過ぎた今でも持続できた、と心から感謝している。
          

何よりもこの間、こうした中で、数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)える。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしながら、
私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、人生の苦楽を確かに学びながら年金生活を過ごしたりしてきた。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
               
その一方に於いて、本、映画などの批評、小説、詩、短歌、俳句などの創作に於いて、
その人なりの独創性にあふれた投稿文に接した時、震(ふる)える程、感銘を受ける。
               

今回、あえて偏(ひとえ)に数多くの皆様に感謝すると共に、私が愛読してきた皆様のサイトを公開する。
私のサイトの『ブックマーク』に於いて、ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
少なくとも1年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトのお方は、

☆蝶になりたい
☆うばゆり日記
☆丸尾清一の札幌を見る!観る!視る!
☆プラチナのように輝いて!
☆今が一番素敵
☆田舎暮らしは心が和む♪
☆本当に幸せなの?
☆十勝の日々折々
☆薪ストーブと高齢者の日々
☆天真爛漫ちゃらんぽらん  
☆My Photo Booth
☆雲上の楽園通信

そしてこの半年以上、このお方が投稿するたびに必ず私が愛読してきたサイトのお方は、
☆林住記
☆マジョリンの気ままにスローライフ
☆野菜、ガーデニング、JAZZおまけにパピヨン
☆ほろけ・だだちゃ の つぶやき人生
☆あなたがいて私がいて、そして
☆JAMESの言いたい放題&一人暮らし
☆雅勒の散歩路
☆緑仙の日々是好日
☆老いてピンボケ独り言
☆綿毛たんぽぽ の風任せ*発芽ばなし
☆渚の砂に書いたダイアリー
☆浜ちゃんの小豆島写真日記
☆プー太とにころ山
☆KUMIの句日記
☆かのこの部屋
☆翁の “ガハハ” な人生問答
☆一生勉強一生青春・good everyday
☆気ままな生活
☆かをるのワルツ♪
☆無門の縁台日記・PARTⅡ
☆房総からこんにちは!
☆やっぱり世田谷に住もうよ

この諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。
                             
つたない私は気楽にコメントを書くことはできず、コメントを書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプであるので、
時間を要して、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響したので、
原則としてコメントの返信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌したこともあったりした。

ここ数年は、来訪しコメントを残して下さった方には、原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。

そして上記の諸兄諸姉のサイトを明記した以外に、時折読ませて頂くお方も多く、
ここ三が月に於いても、瞬時に魅了されたお方のサイトも10名のお方もいるが、
この【gooブログ】の『ブックマーク』は50以内と制約されているので、
困ったなぁ、という思いもある。
               
今回、たまたま私の『ブログの開設から3100日』の8年半が過ぎ日を迎えられたのは、
偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて継続でき、
その上に皆様の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝する次第です。

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『さるすべり 熱き日々の中 彩(いろど)りけり』、と一句詠(よ)みながら・・。

2013-07-16 15:02:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であるが、
本日の午前中のひととき、歯の治療の為に小田急線の『喜多見』駅の近くの歯科医院に予約していた。

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
過ぎし6日に梅雨明けとなった後、連日35度前後の酷暑となり、
平素の買物専任者の私は独りでスーパー、専門店を往還しながら、
熱いじゃないの、と何かと暑さに苦手な私は、ため息をしたりした。

こうした思いがあったので、今朝も地元の天気情報をネットで見たりしていた。
朝の6時は22度、昼下りは31度前後、夕方の6時は27度前後、
朝夕は曇りとなりますが、日中は快晴となります、と報じられていた。

私は35度前後だったならば、熱中症を避けるために路線バスの冷気に甘えて駅前までバスに乗車しょう、
30度ぐらいだったならば、いつものように近くに野川流れている両岸に遊歩道があり、
この道を20分ばかり歩いて行こう、と思ったりしていたのであった。

この後、玄関の軒下に下り立つと、昨今としては稀(まれ)に、朝涼を感じて、私は微笑んだりした。


私は9時半過ぎに家を出て、野川の遊歩道を歩き始めると。
まもなく木槿(ムクゲ)の花を見かけ、私は足を止めて見惚(みと)れた・・。
              

この後、隣接した公園の中に向かう入口に、百日紅(ヒャクジッコウ)の花を観かけたり、
私は足を止めてしまった。

猿滑り(サルスベリ)として慕(した)われている樹木の夏の花のひとつである。
          
私の住む地域では、平年ならば7月の中旬の頃から、秋にかけて長い期間に彩(いろど)い、
路線バスも走る大通りの歩道には、街路樹として淡紅色、純白の花が彩(いろど)っている。

古人の人たちは、夏の季節に百日も咲き続けると称して、百日紅(ヒャクジッコウ)と命名した、
と私は何かの本で読んでいた。

遠い昔の60数年前の頃、私の生家にも百日紅(ヒャクジッコウ)の大きな樹木があり、
私の小学生の頃には、夏休みの時などは、木登りをしたりした。

父の妹の叔母達からは、
『猿(サル)も滑るくらい・・つるつるした樹だから・・気をつけるのよ・・』
とたびたび言われたした。

毎年、この淡い紅色の花が咲く頃、夏休みが近づいてきた、と思いながら、
夏休みの期間を見守り、初秋の台風の季節まで咲いていた。

ここ数年、散策などでこの花に出逢うと、私は小学生の頃を思い馳せたりしている。

               
      2004年の秋に定年退職を迎え、デジカメを記念品として夏に買い求め、
      初めて撮った写真の一葉が、偶然にも百日紅(ヒャクジッコウ)の樹木を撮ったりした。

私の住む調布市では、市の花として、
この百日紅(ヒャクジッコウ)が指定され、淡紅色、純白の花が街路樹などで彩っている。

こうした時、暑い夏は何かと私は苦手であるが、
この淡紅色の花を眺めたりすると、思わず微笑(ほほえ)んだりすることが多い。


このようなことを思い浮かべたりして公園の中を歩いたりした。
          
そして、先ほど観た猿滑り(サルスベリ)の花が心の片隅に残影していた為か、
俳句の素養のない私でも、
       さるすべり 熱き日々の中 彩(いろど)りけり
と拙(つたな)い一句を詠(よ)んだりした。

この後、字余りかしら、と苦笑してしまった。

そして歯科医院の予約時間が迫ってきたので、私は駅前に急いだりした。

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日本の海は、世界で第6位の広く管轄する海洋国家、と遅ればせながら学び・・。

2013-07-15 13:55:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
ともすれば曜日感覚が薄らいでいる私は、今朝もぼんやりとカレンダーを見て、『海の日』と朱記されていたので、
私は『海の日』かょ、と微苦笑したりした。

私は今年の早春のひととき、たまたまネットを検索していたら、
偶然に『図説・海洋国日本:世界の排他的経済水域』のサイトにめぐり逢え、
《・・日本は島国であるとともに、周辺海域の大きな海洋国家でもある。
  (略)
日本は人口規模では世界第10位であり、国土面積では、世界第61位である。
  (略)
ここでは、領海を含めた排他的経済水域の面積を掲げているが、
日本は、447万平方キロと国土面積38万平方キロの約12倍と大きく、世界第6位となっている。
日本は海洋国家としては大国であることが理解される。
  (略) 》
このようなことを遅ればせながら学び、
日本は世界で海を広く第6位の管轄する海洋国家、と教示された。
          
『海の日』の祭日の制定に関しても、定年退職後のまもない時に、
何かと信愛している『日本文化いろは事典』から学んだりしてきた。
《・・7月は祝日が無い月ですが、海をもっとも感じる季節です。
そのような理由から、海の仕事に従事している関係者の間で
「海の記念日」を祝日にしようという運動が起こりました。
現在7月の第3月曜日が「海の日」と制定されています・・》

このように明記されていたが、
《・・1996(平成8)年に「海洋国家として広く国民に海への理解と関心を求める日」として休日・・》
と解説されていた。

この後、私は燦燦の夏の陽射しを照らす庭のテラスに下り立ち、緑陰に身を寄せたりした・・。
そして、ぼんやりと私は、初めて海の潮の匂いを感じた時、
或いは幾たびか国内旅行で海を観たりして、果てしなく拡がる海に驚いたりしたこと、
思いを馳せたりした・・。
                    

私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
そして地元の小学校に1951〈昭和26〉年の春に入学した当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

母屋の宅地のはずれに蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

確か小学3年生の頃、先生から『山彦海彦』の話を優しく教えて頂いた時、
少し戸惑ったのである・・。

幼年の私としては、山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
或いは海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。

この頃の我が家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。
この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であった私は、
やむなく里の児の『里彦』だ、と秘かに心に決めたりした。


このような心情が私の心の奥底に今だあるが、
海の匂いを初めて感じたのは、映画の『二十四の瞳』であった・・。

確か1954(昭和29)年の秋、小学4年生だった私たち生徒は、
先生に引率され学年別に指定された日に電車に乗り、
京王線の布田駅の近くの映画館で『二十四の瞳』を観賞した・・。

後年になると、木下惠介・監督の『二十四の瞳』の名作と知るのであるが、
この当時の私は、映画のシーンの小豆島の海の情景、修学旅行に行く瀬戸内海の景観に、
呆然と観て、あれが海かょ、と衝撃をを受けたのである。

そして、ストーリーも完全に理解できない私は、数多くのシーンで涙を浮かべたりしていた。
この映画で何よりも心を震わせ、感極まって涙を流したのは、
敗戦後の恩師の大石先生の教員復職の祝賀会を成人した生徒が開き、
戦争で失明した磯吉が、一年生の時に先生と生徒12名の記念写真を指差しながら、
生徒全員の位置を示すシーンであり、
この時に廊下にたった成人した生徒の女性が『浜辺の歌』を唄うシーンであった。

この『浜辺の歌』は、圧倒的に海の匂いを感じ、
その後、私は国内旅行で海辺を観たり、海岸を散策したりすると、
心の底で、『浜辺の歌』を唄ったりすることが多いのである。
          
そして私が初めて海を観たのは、1956(昭和31)年の小学6年生の夏、
独りで小田急線に乗り、湘南海岸の江ノ島に行き、海岸、展望台から相模灘の海を観て、
田舎者の里彦の私は言葉もなく、果てしなく彼方までの海原を呆然としながら、長らく見つめたりした・・。


この後は50数年の中、幾たびか旅を重ねている中で、冬のオーホック海の厳冬の流氷、
日本海、太平洋の近海をフェリーなどで観たりしてきた。

過ぎし2010〈平成22〉年の2月下旬に、
小笠原諸島の『父島』でザトウクジラを観るこちを最優先課題として、
私たち夫婦は2月24日から3月7日まで船中泊往復路2泊、『父島』のホテル滞在9泊の旅路をした。
   

この後、陸地の新緑、紅葉、雪が舞い降る旅をいく度か重ねて、
そして今年の2月に、南海の情景も観たくなり、八重山諸島の中核の石垣島に9泊滞在しながら、
この周辺の地、海を観たりしてきた・・。
   


   
こうした八重山諸島の叙景を見たりした中、何かしらヨットで《サンセット・クルーズ》があると知り、
私たち夫婦は申し込みながら、観光の乗船客は6名前後かしら、と私は家内と談笑していた。

まもなく欧米人のような方で細身の長身の容姿の40代の男性が、
私たちの近くに来て、
『XXさんですか? 私が本日の《サンセット・クルーズ》担当するXXXXです』
と私に日本語で挨拶した。

私は観光ツアーの方は日本人の男性で船長のアシスタントの若き男性を想定していたので、
少し驚いたが、家内は全く予測していなかったので驚いた、と後で私に言ったりした。

そしてこの欧米人風の男性に導かれて、送迎車に乗り、やがてヨットが係留されている桟橋に行った。

やがてアシスタントもいなく、この欧米人風の男性がたった独りで操縦、案内人と知り、
私たちは最後部の椅子席に腰かけた。
               
私たちか何よりも驚いたのは、乗客の観光客は私たち二人だけで、
貸切船で贅沢この上もなく、と私は感じたりした。

      
そして桟橋を離れて、海上保安庁の巡視船(?)が視られると、
『何かとお忙しくて・・大変ですねぇ』
と操縦士兼案内人の欧米人風の男性は私たちに言ったりした。
   

この後、私たち夫婦は夕陽が海の彼方の沈む情景を観たりして、
   

ホテルに帰館した後、
確かに海上に於いての安全、救助などは、海上保安庁の諸兄諸姉で、
そして領海の保全は米軍に協力を仰ぎながらも、海上自衛隊の諸兄諸姉も、
果てしない努力と英知、そして責務で、私たち国民は守られている、と感謝したりした。

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夢はもとより貧富に関係なく、その人なりの感性の賜物〈たまもの〉、と微苦笑し・・。

2013-07-14 14:25:08 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活68歳の身であり、
夜の眠っている時に夢をみることが多いひとりである。

この酷暑の時期でも夢をみることもあり、目覚めた朝方に薄らと汗ばんたりしている。

1590年代の中頃にウィリアム・シェイクスピアの喜劇形式の戯曲の『夏の夜の夢』があるが、
日本に於いては坪内逍遥をはじめ『真夏の夜の夢』など翻訳されたりしているが、
このようなお洒落な内容から、齢ばかり重ねた私は遥かに遠いのである。

何かと定年退職するまで半生は何かと屈折と卑屈感を秘めてきた私は、
ときには昨日の続きの連続ドラマのようなことがあれば、
或いは映画の三本立てのようにみることがある。

そして、総天然色(カラー)の時もあれば、白黒(モノクロ)だったりし、
目覚めた朝、ぼんやりと微苦笑することもある・・。
          
私は小学生の後半期、地元の映画館などで3作品を上映したのを
数多く観たりしていた映画少年だったので、
この習性の余情かしら、と思ったりしている。

私は1960(昭和35)年の中学3年の終りの頃、
私は職員室で担任の女の先生から呼ばれ、
『XXくん・・あなた眼・・悪いわね・・0.3って・・』
と先生は、健康診断書を見ながら、私に言った・・。

『・・どうして・・今まで黙っていたの・・
メガネを掛けないと・・黒板の字も見えないでしょう・・』
と先生は言った。

私は教室の指定された後部に座って、黒板の字もかすれていたが、
皆もこのようにと思い、信じていたのである。
兄ふたり、妹ふたりもメガネをしていないので、それなりに思い込んでいたのである。

このようなことがあり、特に算数の基礎である因数分解など理解できず、
高校生になっても微分、積分などの授業には、理解できず逃げ回っていたグループのひとりであった。

このような結果として、もとより期末試験などは惨澹たる結果であり、
昨今でも、悪夢となり呻(うな)されたりすることもある。
               

サラリーマン現役時代だった頃の夢みる時は、どうしてなのか、業務の成功例より、
遥かに失敗したことを多く、目覚めた時に苦笑したりしている。
たとえば、上司、同僚、後輩がいる中、突然に中学時代の悪友が出てきたり、
どうしてお前がいるの、 と私は戸惑ったりしている。

ときには秘かに思い続けた小学校時代の初恋の同級生に見つめられたりし、
貴女はどうしているのょ、とありえない時代の落差に戸惑ったりし、冷や汗をかくこともある。

或いは幼年期は私は農家の児であったので、
田畑、雑木林など景観を観たり、湧き水、竹林の筍(タケノコ)、野菜の収穫時などの情景をみることもある。

夢はもとより貧富に関係なく、その人なりの日頃の思い、言動の余韻、余情、
そして感性の賜物〈たまもの〉と私は確信を深めて、微苦笑したりしている。
               

私の理想的な夢のひとときは、恥ずかしながら告白すれば、
齢ばかり重ねた今でも、女性への煩悩を捨て切れない拙(つたな)い身として、
秘かに思いながら、眠りにつくこともある・・。

街中、駅前などで、たまたまワンピース、ツーピースが似合う50、60代の人を見かけ、
たまたま謙虚な会話が聴こえたり、魅了されるしぐさを感じた時、
或いは紬(つむぎ)が似合い、臈長(ろうた)けた人を見かけた時、
ときにはブログの世界で、60代前後の女性で、魅了される投稿文を読ませて頂いた時、
どのような顔立ち、しぐさ、言葉を重ねる方かしら、と思わず想像してしまう・・。

私はこうした方と語り合い、散策した後、無念ながらお別れねぇ、と握手する、
このようなことを私なりに夢で願望したりしている。

私はこのようなことを思えば、思い込みが強い性格であるので、
ほとんど日頃から夢の中で叶(かな)えられるひとりである。

昨夜たまたま夢の中でお逢いできた人は、
かって女優だった浜 美枝〈はま・みえ〉さんだった・・。

私が東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の頃、
映画青年の真似事をしていた時代に、東宝撮影所に出入りしていて、
たまたま数分ぐらい言葉を交わした人である。

この当時にお逢いした数多くの若手の女優さんの中で、
このお方は、与えられた言葉でなく、ご自身の言葉で語れる人で、
私は瞬時に魅了された方でもあった。

こうした私の思いは今でも、変わることなく、
数日前に、たまたま浜 美枝さんのエッセイの本を再読したりした。

もとよりお逢いできる人ではなく、あくまで私にとっては高嶺の人なので、
せめて夢の中でお逢いできた、と目覚めた後ぼんやりと微苦笑させられたりした。
               

こうした夢のひとときの後の現(うつつ)の日常生活に於いては、
近所の奥様、ときには主人と自治会の回覧、買物、散策の時などで、
私は立ち話をしたりすることが多い。

過ぎし一週間前、私は夏用のストレッチパンズの長ズボン、アロハシャツで、
夏用の帽子を深めにかぶり、いつものように日常の買物専任者の私は、
独りでスーパーに行った。

そして家内から依頼された品を買い求めた後、
レジ袋を両手に提(さ)げた上、西瓜(スイカ)も提(さ)げて、
重いよなぁ、と汗を垂(た)らしながら帰宅に向っていた。

こうした時、近所の好感している奥様と出会ってしまい、大変ですわねぇ、と言葉をかけられて、
私は赤面したりした。

このように私は、夢のひととき、現(うつつ)の日常生活では、落差がありすぎる、
と苦笑することもある。

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この半年、私が読んだ本の中で、圧倒的に感銘させられた三冊の本は・・。

2013-07-13 15:53:10 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
中小業の民間会社に35年近く勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまない映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このように定年後からの生活を過ごしてきたが、
私が読書に目覚めたのは、遅ればせながら高校生になってからである。
活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、そして行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。

そして年金生活の今でも本屋で、単行本、新書本、文庫本のコーナーを見たりして数冊買い求めたり、
ときには雑誌コーナーで月刊誌、季刊誌、臨時特別号を眺めた後、魅了された時は購入している。
そして、結果として手ぶらとなった時は、古本屋に行ったりして、読みたい本を探し求めて、
早や50数年過ぎている・・。

こうした中で単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。


先程、今年の1月~6月の半年間で、私が読んできた本の中で、圧倒的に感銘させられた本は、
と思い馳せたりした。
あえて3作品を選定すれば、と30分ばかり思考したりした結果は、下記の作品となる。


◎松山善三・著作の『依田勉三の生涯』(ハースト婦人画報社)
               
本書は1979〈昭和54〉年に潮出版社より刊行され、その後の復刻本である。

私は十勝地方を開拓に多大に貢献した晩成社を率いた依田勉三(よだ・べんぞう)氏を、
私が長年敬愛している映画脚本家、作家である松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏が、
依田勉三氏に関して、書物に著作され上梓していたことに、私は驚きながら買い求めた一冊である。

たまたま私たち夫婦は、過ぎし1月20日より北海道の帯広市の郊外にある十勝幕別温泉の中のひとつのリゾートホテルに、
5泊6日で滞在し、積雪の中をひたすら歩き、周遊した。

そして十勝地方の帯広の地域の開拓を思い馳せれば、依田勉三氏の功績を抜きにしては語れず、
私なりに旅立つ前に、ネットに掲載されている情報を見たり、
旅の最中で観光案内所で頂いた資料を読んだりし、
そして緑ヶ丘公園にある『百年記念館』を訪れて、多々教示された。

しかし誰しも光と影があるので、果たして依田勉三氏の生涯で、
この十勝地方の未知の開拓の具体的な心の奥底は・・と私は旅の最中は思案したりしたが、
私は氏の立体感が整理できなかった。

本書は依田勉三氏の生涯を心の深淵まで、くまなく表現され、
《故郷を失い、我が子を失い、それでも大自然は人間を許さない。
 想像を絶する過酷の中で、一体、人は何ができるのか・・。(略)》
このような本の帯の解説に明記されている通り、松山善三氏の筆力で依田勉三の本人はもとより、
妻子、同行された友人、知人の人の業を余すところなく表現された力作である。

そして松山善三氏は、長年に及び脚本家の体験もあるので、
特に十勝地方の未開拓の四季折々の情景、何よりもその人なりの心の動きの描写が、
圧倒的に読む人に感動を覚える作品でもある。


◎オリバー・ストーン&ピーター・カズニックの著作『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1~3』(早川書房)の日本訳
   
三冊に及ぶ大作であり、今年の4月が毎月一冊刊行されたアメリカの近現代史である。
これまでのアメリカ史は、ともすれば光の部分、アメリカの功績が強調された書物が多かったが、
本書は影の部分に焦点を当てて、今日のアメリカの混迷の実態の原因を追究する為、
第一次世界大戦の時期から、アメリカを中核とした歴史を動かしてきた主要国の動向を、
怜悧に表現されている。
               
本書が刊行された後、4月初旬から逐次にNHKのBS1に於いて、
世界のドキュメンタリー『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』として放送されたが、
本書の方が、圧倒的に当事者の心情を余すところなく深淵まで描写している。

もとより主要国は国益の基で、それぞれの時代に怜悧に言動してきたことが、具現的に明記されている。
まして世界大戦、冷戦時代、各国の戦争など20世紀であったので、
日本では敗戦後に何かとアメリカの影響下にあり、平和ボケの人には苦い薬、
と私は感じたり、多々教示もされた本でもある。


◎トム佐藤・著作『マイクロソフト戦記 ~世界標準の作られ方~』(新潮新書)
               
本書は2009年1月に刊行された新書である。
著作者はイギリス・マイクロソフトに入社した後、マイクロソフト日本法人でウィンドウズのマーケティングを担当し、
マイクロソフトがグローバルスタンダード化の奔流となった頃、1990年9月に退社された方である。

パソコンの草創期、その後の黎明期である1980年代から1990年前後、
OSのMSXの失敗とウィンドウズの成功まで明暗が明確に描写されている。

こうした中でマイクロソフトの創業者のビル・ゲイツの悪戦苦闘、やがてIBMの下で協調、破綻、
やがて世界標準化のグローバルスタンダードまでの苦難、そして労苦の心情が余すところなく表示される。

そして本書は、アメリカ、日本、ヨーロッパ主要国のパソコンの熾烈な歴史書である。


このように私は、この三作品が過ぎし半年に読み、圧倒的に感銘させられた本である。

そして私は本日発売の後藤直義、森川 理・共著『アップル帝国の正体』(文藝春秋)を買い求めて、
               
ただいま読書中でもある。

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蓮(ハス)の花、限りなく愛惜を秘めながら、心に託(たく)して・・。

2013-07-12 12:03:49 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨夜、夕食の前のひととき、家内とテレビのニュースを視聴していた時、
北関東地方にある館林市の郊外で、城沼(じょうぬま)があり、
蓮の花の咲く時期に『花ハスまつり』の一環として、花ハス遊覧船が運行されている美景が放送され、
『私たちも行ったわねぇ・・』
と家内は私に微笑みながら言ったりした。

私は38年前の結婚する前から、蓮(ハス)の花はこの世に稀(まれ)な花である、
と家内に常々話していた。
          
そして過ぎし2007〈平成19〉年の夏、
『貴方の好きな蓮(ハス)の花・・遊覧船で観られるみたい・・』と家内は言いながら、
私たち夫婦は家内の母を誘い、この城沼(じょうぬま)の地を訪れた。

旅立つ前に市の観光の告知で、城沼(じょうぬま)のほとりに建つ公共の宿の『つづじが岡パークインホテル』を知り、
私たちは3泊4日を予約して、8月7日より初めて館林市を訪れた。

そして宿泊地の庭先の遊歩道に沿(そ)った桜の枝葉の並木越しに、
岸辺の葦(あし)の群生に寄り添い、そして沼の中央部まで蓮の葉で覆(おお)われて、
その中から数多くの花が観られた。
          
こうした中で、薄紅色、紅色、純白色の彩(いろど)りがあり、
そして莟(つぼみ)、3分咲き、7分咲き、満開もあり、
既に花が終え、蜂の巣のような形になった実もあり、私は長らく見惚(みと)れた。

そして隣接したつつじが岡公園を散策したり、
城沼(じょうぬま)の蓮(ハス)の咲く中を遊覧船に乗船したりして、数多くの彩(いろど)る蓮(ハス)の花を見たり、
宿泊地の庭園の多彩な蓮(ハス)の花の色あいを、私は早朝、夕暮れのひととき鑑賞したりした。
          

私は1944〈昭和19〉年の秋、東京の郊外で農家の三男坊として生を受け、
私が地元の小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春の当時は、
祖父と父が中心となり、小作人だった人たちの手を借りながら、程々に広い田畑を耕したりしていた。
そして宅地の周辺に竹林、雑木林を維持管理していた。

こうした中で、田んぼのある一面に湧水があり、そして小川に流れ、
この近くに150坪ぐらいの半反程度の広さの蓮(ハス)専用の水田があった。
          
父、祖父が病死される私が小学生の前半までは、毎年この時節は幼いなりに甘受していた。

7月の下旬の頃になれば、蓮の花は莟(つぼみ)となり、
8月の初めに私の住む地域はお盆を迎えるので、祖父か父が6本前後採ってきた・・。

私は祖父に懇願して、大きな葉をひとつ貰ったりした。
私はこの大きな葉に水を少し入れると、水玉になり、陽射しを受けると、
キラキラと水玉が輝きを帯びたりするので、幼児なりに魅了されて楽しんでいた・・。

そして泥だらけの中で、
どうしてあんなに白い花が咲くの、と子供心に不思議に思ったりした。
              

お盆の時、仏壇の前に畳一帖ぐらい台を設置し、
位牌の前に、盆棚を置いて、野菜、果物を供えたりしている。

外れに茄子(ナス)や胡瓜(キュウリ)に割り箸で足を付けて、馬や牛にみたてたりしている。
そして台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮(ハス)の葉を浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
或いは台の左右に、この時節の草花を飾り、この中の中核は蓮(ハス)の花となっていた。
          
夏休みが終わった頃、蓮(ハス)の田んぼに行くと、
花が終り、可愛い蜂の巣のような実となっていた。

数週間過ぎた頃、この実を採り、
少し剥(むく)とどんぐりのような形した白い実が出てきて、
食べたりした後、少し甘い香りが残った・・。


やがて蓮(ハス)の葉が枯れる頃になると、
祖父、父が泥だらけの地中から大きくふくらんだ蓮根を取り出し、
青果市場に父は出荷した後の残りが、生家の食卓を彩(いろど)った。

私は蓮(ハス)と呼んでいたが、
後年になると、レンコン、と世間の多くの人が言ったりしているので、
戸惑いを覚えたりしている。


このような想いでがあるので、
公園などで淡い紅色した華やかな大賀蓮(オオガハス)観かけた時とか、
名所と知られているある寺の観せる美麗な蓮(ハス)は、
あれは単なる鑑賞専用の蓮(ハス)であって、私が愛惜を秘めている蓮(ハス)じゃない、
と幼児の思いに還ったりしている。


          

定年退職した2004〈平成16〉年の翌年の夏、
ある書物で、黒羽山の大雄寺の高僧が、蓮のことについて、綴られているのを知った。
《・・
泥中に生じ汚れなく、幽香を漂わせる蓮(ハス)の花は、
清浄、柔軟、可憐から、他の植物にはない特徴があることから、
仏教の象徴的な意味を持つものとなっている。

泥の中で成長し根を張り、清楚な美しい花を見せる。
そして、普通の花は、まず花が咲いてから実をつけるものだが、
蓮は花をつけると同時に実を中に詰めたつつみが出てくる。
このことから蓮は、過去・現在・未来を同時に体現しているとされている。
・・》
こうようなことを綴られていた。

私は宗教に関しては興味はなく無知であるが、
泥の中から茎を出し、純白な花びらを見せてくれるのに、圧倒的な思いで魅了されている・・。

私なりに年金生活の身過ぎ世過ぎの中、日常生活を身勝手に過ごしているが、
改めてこうした純白の花を眺めると、
何かしらこれまでの私の卑屈と劣等感の多かった人生の歩みを浄化してくれる随一の花と思っている。
          

このように私なりに深い思いを秘めているが、
私の住む周辺は1955(昭和30)年の初めに頃になると、
田畑、雑木林は急速に消え、もとより蓮(ハス)の水田も消え去り、やがて住宅街に変貌した・・。

私は家内と共に国内の旅行をした時、
旅先で偶然に、水田にある蓮(ハス)の花を見かけたりすると、
しばらくのあいだ見惚(みと)れながら、まぶたが熱くなってしまうことが多いのである。

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酷暑の昨今、何かと西瓜(スイカ)を愛食して、やがて遠い昔を思い馳せ・・。

2013-07-11 15:32:55 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子どもに恵まれなかったので、たった2人だけの家庭で、
雑木の多い小庭の中で古惚けた一軒屋に住んでいる。

平素の買い物専任者の私は、殆ど毎日スーパー、専門店に行ったりしている。
過ぎし6月の初旬の頃から、果物コーナーの片隅に西瓜(スイカ)が並び、
中玉の熊本産などを見かけると、まもなく梅雨の時節、その後は初夏になる、
と季節の到来を教示されたりした。

私は7月になると、静岡産、茨城産などの大玉、中玉、小玉が並びだすと、
家内から依頼された品を買い求めた後、一日おきに小玉をひとつ提げて帰宅することが多くなっている。

私の住む地域は、過ぎし6日に梅雨明けとなり、
平年ならは学童が夏休みに入る頃の20日前後であったので、
少し早いじゃないの、と天上の気候の神々の采配に戸惑ったりしていた。

そして連日35度前後の酷暑となり、スーパーを往還しながら、
熱いじゃないの、と何かと暑さに苦手な私は、ため息をしたりした。

本日も買い物して帰宅後、洗面所が顔を洗った後、着替えて、
クーラーの冷風に身を寄せた後、
家内に『西瓜(スイカ)を食べない?』と私は誘ったりした。

昨日買い求めた小玉であり、冷蔵庫に冷やしていたのを家内に切ってもらい、
私は四分の1になった切り身を頂いた。
          
そして皮の一部に、可愛らしいシールが貼られて、
  《 紅の誘惑 北つくば
        こだま西瓜 サマーキッズ 茨城産 》
と明示され、生産者のお方の氏名も明記されていた。

この後、私たち夫婦は、この大きさの切り身をそれぞれ賞味した。
私は食べはじめていると、甘味が口いっぱいになり、
夢中に食べ終わると、口の周(まわ)りは西瓜(スイカ)特有の夏の匂いが漂(ただよ)った・・。

『美味しいよねぇ・・この熱い季節、この世の贅沢な食べ物だよねぇ・・』
と私は家内に言ったりした。
               

私は1944〈昭和19〉年の秋、東京の郊外で農家の三男坊として生を受け、
私が地元の小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春の当時は、
祖父と父が中心となり、小作人だった人たちの手を借りながら、程々に広い田畑を耕したりしていた。

そしてこの初夏の頃は、胡瓜(キュウリ)、茄子(ナス)、トマト、瓜(ウリ)などを収穫し、
父が青果市場に出荷していた。
しかし西瓜(スイカ)に関しては、家族が食べる分、
そして近所の方、知人の方に差し上げる程度を収穫していた。

母屋の裏にある井戸に隣接した洗い場に、7月から8月の半(なかば)の頃まで、
木の桶に井戸水で大玉の西瓜(スイカ)を冷やしたのを、
午後の3時過ぎの頃に、家族一同で食べた記憶が鮮明に残っている。

やがて、1952〈昭和28〉年の3月、私が小学2年の3学期、父に病死され、
その翌年の1953〈昭和29〉年の5月に祖父が亡くなった。

農家の大黒柱の2人が亡くなり、母と叔母、そして長兄、次兄、私、そして妹の2人が残されたが、
もとより農業の技量、大人の男手を失くしたので、生家は没落しはじめた・・。
               

その後、私が中学1年の1958(昭和33)年だったと記憶しているが、
祖父方の伯母さんが、80歳に近く、寝たきりになった。

この伯母さんは、農家に嫁ぎ、60年ばかり農作物に労苦をされた方で、
2月頃になると、更に容態が悪化し、
『死ぬ前に・・西瓜(スイカ)が食べたかったわ・・』
と言った、と叔父さんから私は聞かされ、私が買い求める役となった。

そして私は、2月の寒い時節、長兄から教えて貰いながら、
果物屋として都心で名高い日本橋の『千疋屋(せんびきや)』、新宿の『高野』と廻った後、
渋谷の『西村』でやっと買えたのである。

そしてこの伯母さんは、西瓜(スイカ)を食べて、三日のちに亡くなった・・。

私は少年ながら、冬に高価な西瓜(スイカ)を食べることは、
この場合は許せる、と思ったりした・・。
          
ここ40年ぐらい、農家の方たちは付加価値を高める為、
色々品質改良などでご足労された結果、3月でも数多くの果物店に西瓜(スイカ)を見かけたり、
私の最寄りのスーパーでも、6月の初旬の頃から、果物コーナーの片隅に西瓜(スイカ)が並び、
私は何かしら釈然としなく、苦笑したりしてきた。

そして私は場合は、幼年期から体験もさることながら、季節感を大切にしたく、
暑くなる7月の頃から西瓜(スイカ)を、毎日頂きながら、
この世の贅沢な食べ物だよねぇ、と誉(ほ)めたりしている時代遅れのひとりである。

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懐かしき伊藤久男さんの唄声を聴き、改めて作詞の美しさに感銘して・・。

2013-07-10 15:02:27 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
朝食後のひととき、『あざみの歌』、『山のけむり』、そして『イヨマンテの夜』などで、
知られている歌手・伊藤久男(いとう・ひさお)さんの遺(のこ)された歌が聴きたくて、
居間にある音楽棚からCDを取りだして、CDラジカセにセットした・・。

このCDアルバムは、過ぎし2007〈平成19〉年の2月の下旬に、
CD、DVD販売店で、新井 満さんの『千の風になって ~再生~』のアルバムと同時に購入し、
《懐かしの歌声名曲集》と称され、全14曲の伊藤久男さんの名曲が収録されている。
               

私は1944〈昭和19)年の秋に東京郊外の農家の三男坊として生を受け、
幼年期、小学の2年生の1952(昭和27)年頃まで、ラジオから盛んに流れ、覚えた曲が多い。

たとえば、『イヨノンテの夜』は1949〈昭和24)年、
『あざみの歌』は1950〈昭和25)年であり、
そして『山のけむり』は1952(昭和27)年の頃だったと記憶している。


ここ15年近く、家内が台所で皿洗いなどをしている時、
ラジオを掛けることが多く、偶然こうした曲が聴こえる時もあり、
私は微苦笑したりしている。

亡くなった家内の父は、戦前・戦後の歌謡曲は詳しく、
私は教示を受けたりした時もあった。

こうした家内の父の影響で、家内は幼児の時から教育されているので、
私より5歳齢下なのであるが、私より詳しい時があり、私は微笑んだりする時もある。
                              

朝のひととき、『あざみの歌』、『山のけむり』等を聴いていたのであるが、
懐かしい幼年期に還れ、愛惜を感じたりするが、
いつも感じることは、数多くの唱歌と同様に限りなく美しい歌詞である。

♪山には山の 愁いあり
 海には海の 悲しみや

【『あざみの歌』 作詞・横井 弘  作曲・八州秀章 】


この後、私は散髪屋(理容店)に行く途中、
陽射しが燦々と照らす熱い中、人影もなかったので、かぼそい声でひとつの歌を唄ったりした。

♪高嶺の百合の それよりも
 秘めたる夢を ひとすじに

【『あざみの歌』 作詞・横井 弘  作曲・八州秀章 】

私はこうした歌を唄い、やがて散髪屋の入り口のドアーを押した。
               
             我が家の小庭のアメリカン芙容(フヨウ)

余談であるが、過ぎ去りし2006〈平成18〉年の秋、
私たち夫婦は家内の母と共に3人で道東旅行をした時、
私は独りで人影のない知床半島、阿寒湖の遊歩道を散策した。

私は何かと気弱な小心者で、熊(クマ)には遭(あ)いたくないので、かぼそいながら、唄いだした・・。

♪イヨマンテ(熊祭り)
 燃えろ かがり火
 ああ 満月よ
 今宵 熊祭り

【『イヨマンテの夜』 作詞・菊田一夫 作曲・古関裕而 】

もとより伊藤久男さんのように、はりのある朗朗とした美声で唄えないが、
やがて私なりに大きな声で、音程も外れながらも唄ったのである。

幸いにも、この地域の熊(クマ)は従順なのか、熊(クマ)は万一《熊祭り》されては勘弁して欲しい、
或いは東京の田舎者の私に遭(あ)いたくないと感じてか、
私と熊(クマ)は出逢うことなく、このような体験を私は秘めている。

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わずか200円の木槿(ムクゲ)の幼い樹、めざましく成長して、微苦笑を重ねて・・。

2013-07-09 14:48:44 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
民間会社の中小業に35年近く勤め2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・と思いながら
直ちに年金生活にを始めた。

そして自主的に日常の買物担当となり、殆ど毎日のように独りでスーパーなどに行ったりしている。
こうした時に、住宅街の中の道を歩いたりし、
その後は川沿いの遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

こうした年金生活をした翌年の初夏、いつものように買物に行った時、住宅街を歩いていると、
あるお宅の庭先で宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)が咲きはじめていた・・。

私は宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)の底紅で花びらは白く、
心澄んだ気品を秘めたような花と魅了されて、少なくとも17年は過ぎている。
               
私が50歳の頃までは、公園、ご近所のお宅にも咲いていたと思われるが、
意識させられたのは、一冊の文庫本であった・・。

今は亡き作家・山口 瞳(やまぐち・ひとみ)さんの作品を
確か1985〈昭和60〉年の頃から愛読してきた私は、
たまたま1994(平成6)年の夏、氏の『男性自身 木槿の花』(新潮文庫)を読み、
亡くなわれた作家・向田邦子(むこうだ・くにこ)さんへの鎮魂曲のように綴られた随筆を読んだりしていた。

この随筆を読み終わった後、氏は白の花の木槿、と綴られていたのであるが、
向田邦子さんの作品であったなら、宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)が相応しい、と私は勝手に思い重ねたりした。

この時以来、私は宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)を見るたびに、山口 瞳さんの随筆に導かれて、
向田邦子さんの顔立ちを思い浮かべながら、
向田邦子さんの数多くの遺(の)こされた作品を甦(よみがえ)ったりした。

いつの日だっか、都立公園で丹精込められた五種類ばかりの彩(いろど)り豊かな木槿(ムクゲ)を観たが、
近くのお宅で、さりげなく咲いている宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)の方に、遥かに魅了される。

このような思いを私なりに秘めているので、
山口 瞳さんの数多くの遺(の)こされた小説、随筆の作品、
そして向田邦子さんの数多くの遺(の)こされた小説、随筆、テレビドラマ・脚本の作品、
散策をした時などで、不意に私の心の片隅みから蘇(よみが)ってくることがある。
               

このような心情のある私は、いつの日にか我家では宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)を植えよう、
と思っていた時、
過ぎし2007(平成19)年の6月に、伊勢神宮に近い鳥羽の観光旅館で、
2泊3日の滞在型の団体観光ツアーの旅の帰路、
鳥羽港から伊勢湾フェリーを下船後、渥美半島の伊良湖岬から団体観光バスに乗車してまもなく、
休憩を含めて、道の駅で下車した。

そして私たち夫婦は未知の地であったが、私は道の駅のドライブ・インの売店の外れで、
小さな園芸店の即売されている幼い樹木が数多くあり、
この中に偶然に木槿(ムクゲ)の幼い樹を見かけた・・。

簡素な黒いビニール鉢に入り、樹高が20センチ足らずで、花芽は5つ前後付いていた・・。
値段は確か200円程度であったと記憶している。

そして売店の女性の販売員のお方に
『宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)は、ありませんか?・・』
と私は尋(たず)ねたのであるが、
無念ながら、販売員のお方は花木に全く無知の方である上、観光バスの出発も迫ってきたので、
私は妥協して買い求めたりした。

帰宅後、まもなく地植えにしたが、かぼそい樹形であったが、
夏の終りの頃まで、10数輪咲いてくれた。

そして毎年成長して、3年過ぎた初夏に、
樹高は2メートルを超えて、100輪ぐらい花を咲かせ、私は悦んだのである。
               
私はここ20数年、我が家の小庭にある樹木・花木・草花に関しては、
太陽の恵みの陽差し、そして雨、その地の土に馴染んで成長しなさい、と身勝手な主(あるじ)の私であるが、
この木槿(ムクゲ)は、自力で私の期待に応(こた)え、勢い良く成長してくれた。

しかしながら数多くの花は咲くが、花火のように多彩な色合いを彩(いろど)るのである。
無念ながら宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)の純白の色合いには遠く、
紫紅色の花が彩(いろど)ってくれる高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)に近い花びらもあり、
或いは淡い紅色の花びらもあり、どうしてなの、と私は戸惑ったりしてきた。
               
花木の園芸の栽培のお方が、たわむれに各種の木槿(ムクゲ)を取り混ぜて、
この中のひとつとして、我が家にある花火のような色々な花びらを咲かせる木槿(ムクゲ)になったのかしら、
と無知な私は思ったりしている。

数年前、駅前の園芸店で純白の色合いである宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)を見かけて、
立ち止まって眺めて、樹高30センチで花びらが6輪咲いていた。
そして価格札には、野口英世のお札の値段と同じで、私は心が動いた・・。

そして30秒ぐらい思案したが、結果として私は断念した。

確かに底紅で花びらは純白の色合いの宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)には、
気品ある美を感じて、圧倒的に魅了されて17年過ぎてきたが、
我が家の雑種のような木槿(ムクゲ)は、健気(けなげ)にも我が家の地に馴染んで、
早や7年が過ぎ、愛(いと)おしさを増してきている。

そして我が家の木槿(ムクゲ)でも、朝の冷気が残る頃、花びらは秘かに開き、
日中の熱い陽射しを受けながら凛とした色合い見せて、
夕暮れの時に閉じ、花の命(いのち)は終わりを告げるように、儚(はかな)さを感じさせる。
               
このような一輪が花びらは、わずか一日で命を果てるが、
たわわな莟(つぼみ)からは、競演するように初夏から盛夏に向けて彩(いろど)り、
古来より『槿花(きんか)一朝の夢』と伝えられていることに、
この時節にときおり私は眺め、深く教示させられている。

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洗濯・乾燥機、早朝に一時故障して、やむなく家内は手洗いをして・・。

2013-07-08 14:09:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私たち夫婦は子どもに恵まれなかったので、たった2人だけの家庭で、
雑木の多い小庭の中で古惚けた一軒屋に住んでいる。

私の住む地域は、一昨日の6日に気象庁は梅雨明けです、と宣言され、
平年ならは学童が夏休みに入る頃の20日前後であったので、
少し早いじゃないの、と天上の気候の神々の采配に戸惑ったりしていた。

昨日の7日は、35度を超えて、平素の買い物専任者の私は、
スーパーを往還しながら、熱いじゃないの、と何かと暑さに苦手な私は、ため息をしたりした。

ここ一週間ぐらい家内は、私より早く目覚めて、家内は早朝から、掃除、洗濯に奮闘したり、
或いは台所で皿洗いなどをしている。
               

今朝、私は6時過ぎに目覚め、一階の洗面所に行くと、
家内は浴室の洗い場のタイルの上で、大きなプラスチックの桶で、
手洗いで洗濯していた・・。

私は驚いて言葉をかけ、何かしら洗濯機が故障して、やむなく手洗いをしている、
このような意味合いの言葉を私に言った。

この後、家内はこの洗濯機のあるメーカーの『取扱説明書』を取りだして、見たりしていたので、
機械音痴の私でも見たりした後、
私は朝食などは後回しだ、と言いながら家内と共に洗濯機を一時間ぐらい触れたりした。

そして周辺の部品の清めたりした後、
家内はテストょ、と一時的に試験運転したら、何とか作動したのであった・・。


この我が家にある乾燥機能付きの洗濯機は、過ぎ去りし年の2010(平成22)年の1月初旬に買い求めた・・。
               
この当時の2010(平成22)年の1月2日、家内は朝6時過ぎに、いつものように洗濯を始めたのである・・。
家内は原則として毎朝、この頃の時間に始めているが、
昨日の元旦ぐらいは洗濯をやめていたので、朝から張り切っていた・・。

まもなく家内が、
『洗濯機が突然に停止し・・何回も電源のスイッチを押しても・・ダメみたい・・』
と私に言ったのである。

私は電源コードなども含めて、色々と試みたが、肝要の洗濯機の電源ランプが点(つ)かないのである。

この後、購入した時に添付されてくる『取扱説明書』の
《 困ったなと思われたときは 》の欄を見たが、該当しないのである。

電源基盤の故障と思われるが、いかんせん新年早々なので、
メーカーの修理相談窓口も年末年始の休暇と思われ、
やむえず家内は意を決して、風呂場の洗い場で手洗いの洗濯を始めた・・。
          
この後、ときたま家内は私を呼び、
パジャマ、バスタオルの大きなものは、お互いに両端を手で持ち、絞り上げようとしたりした。
水が搾(しぼ)り出されて、洗濯機の脱水の能力は凄いね、
と私は言いながら、お互いに苦笑したりした。

そして、タオルなどの小さなものは、お互いに絞り、
やがて最小限の洗濯ものの最小限を終え、家内は外の干し場にかざしていた。

しばらくした後、家内は、
『洗濯物・・凍(こお)っているわ・・』
と私に言ったので、私は干し場に行ったりした。

そして物干し竿にハンガーにつるされた私のパジャマの上は、
確かに凍って、奴っこ凧(だこ)のように角ばった形をしていたので、私は苦笑したりした。

このように新年早々、我が家では予期せぬ出来事に、私たち夫婦は戸惑ったりした。

そしてこの後、家内は第2次の手洗いの洗濯をはじめている・・。
          

その後、私たちはメーカーの仕事始めの4日頃の修理依頼をし、
修理が完了する日まで、やむなく家内は手洗いの洗濯を決意したりした。

そして私は家内の手洗いの悪戦苦闘が余りにも可哀想ので、
年始でコイン・ランドリーの営業稼動している所をネットで調べ上げて、
家内に伝えたところ、もうしばらく手洗いをするわ、と言ったりした。
          

やがて4日の朝、この洗濯機のメーカーの修理相談窓口が朝の9時過ぎに連絡できる前に、
この洗濯機の『保証書』などを確認したところ、
1999(平成11)年5月5日、購入日となっていた。

そして2003(平成15)年3月には、
コントローラ、回転センターの修理を依頼して、数万円要していたことも想いだされた。

私は家内に10年は過ぎているので、たとえ修理をしたところ、
数年過ぎたら故障すると思われるので、
この際、買い替えをしょう、と私は家内に言ったりした。

しばらく家内はためらっていたのであるが、ようやく買い替えを決意した。

私はネットであるメーカーの洗濯機の画面を開き、家内と交代した。
家内はA型の性格らしく、几帳面に一時間ばかり検索して、
乾燥機付きの時代なのね、とポッリと言ったりした。

そして希望の機種をふたつ選択して、あるメーカーの商品相談口に電話をして、
商品の特徴などを確認した後、あとはお値段だわ、と私に言った。

この後、私は家電のある量販店に電話をして、価格と納品日を交渉した後、
家内に伝えて、やっと新たな洗濯機の機種が決定した。

そして私は、家電量販店は電話で確約ができない、と言われて、
やむなく私は4日の午前中に家電量販店に行き、機種を確認した後、価格と配達日の再確認をしたりした。

このようなことで、私は日中の大半を要し、少しは疲れたかなぁ、と苦笑したりしたが、
もとより、家内は手洗いをしてきたので、やはり手洗いの洗濯は大変だわ、
と家内はぼやいたりしていた・・。

このように洗濯機に関して、過ぎし年の2010(平成22)年の新年早々に我が家では騒動があった。
                    

我が家の敷地の西側は、10メートルぐらい隣接した場所にマンションがあり、
この関係で、冬の時節は陽当たりが半分程度となり、
家内は外干しをした後、2階の陽当たりの良い洋間に干したりしてきた。
そして家内は乾きに満足しない場合は、ガスファンヒーターの温風で乾かしたりした。

もとより雨の降る時は、やむなく室内干しとなり、その後はガスファンヒーターの温風で乾かしたりした。

私は買い改めた機種の10年前の頃から、敷地の関係で陽当たり良くない時期もあるし、
もとよりガスファンヒーターの温風で乾かしたりすると、肺に良くないよ、
と幾たびか乾燥機を買い求めよう、言ったりしてきた・・。

しかしながら家内は決断つかないらしく、これまで躊躇(ためら)ってきたりした。

結果的に新婚時代からの2代目が故障して、やっと3代目は乾燥機能付きの洗濯機となった。
                          

こうした関連で我が家は、特に冬の時節、そして梅雨の時節は、
朝から洗濯の後、外干したりし、その後に乾燥機能が昼下がり過ぎまで、活躍することが多い。

我が家の乾燥機能付きの洗濯機は、洗面所の横に設置しているが、
昼下がり過ぎに乾燥機能が1時間ぐらい回転している状況を、ときには私は眺めると、
あたかも孤軍奮闘しているように健気(けなげ)に回転している状況に、微笑みながら見たりすることもある。
          

この我が家として肝要な乾燥機能付きの洗濯機が、早朝に一時停止したので、
もとより家内は困苦し、やむなく手洗いをしたりした。

乾燥機能付きの洗濯機は確かに利便性があるが、半導体で自動制御しているので、
数10年前に普及していた単体の洗濯機、乾燥機の方が良かったかしら、
と何かと機械音痴の私たち夫婦は微苦笑したりしている。

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七夕(たなばた)、ささやかな秘めたる想い・・。

2013-07-07 12:35:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝6時過ぎ、ぼんやりとカレンダーを見ると、
『七夕』と明示されていたので、
きょうの7日は『七夕(たなばた)の日』だったか、と教えられたりした。

そして、ぼんやりと数年前までは、『七夕(たなばた)の日』に関しては、
現代風に解釈したならば、遠距離交際の恋人たちが、
待ち焦(こが)がれてたった一年に一度だけ秘かに逢える日、
と齢ばかり重ねた私は、固く信じてきたひとりであった。

しかしながら、織姫と彦星の関係は恋人でなく夫婦であった、と知った時は、
私は、夢をこわさいでね、と微苦笑したことがあった。
               

私は齢を重ねるたびに、幼年期の頃の出来事を思いだすことが、多くなっている。
こうした時に、幼年時代に七夕の飾り、短冊のことも思いだされる・・。

私は1944〈昭和19〉年の秋、東京の郊外で農家の三男坊として生を受けた。

祖父と父が中心となり、小作人の手を借りながら、程々に広い田畑を耕していた農家であった。
そして敗戦後、農地改革などで田畑の多くは強制収制となり、ある程度は狭ばまったが、
それなりに旧家として維持されていた。

こうした中で、七夕(たなばた)に関しては、
私が小学生の頃まで、生家の庭の隅に竹に短冊を吊るす慣わしだった。
東京の都心は、もとより全国の各地は『七夕(たなばた)の日』は7月7日が多かったが、
東京の郊外の付近の一部の地域に於いては、一ヶ月遅れの8月7日であった。

          
               現在、私の住む周辺は竹林がなく、私が5月中旬、近くの『実篤公園』で撮った一葉。

宅地に隣接している竹林から、兄と共に私は孟宗竹の今年成長した5メートル前後の若竹を一本だけ伐って、
庭の片隅みに兄たちが杭を打ち、安定させていた。
父の末妹の叔母が嫁ぐ前だったので、お正月の小倉百人一首と同様に、
叔母の指導の下で、私は妹のふたりと共に飾りだてをすることが多かった。

こうした毎年過ごし、1952〈昭和28〉年の3月、私が小学2年の3学期、父に病死され、
その翌年の1953〈昭和29〉年の5月に祖父が亡くなった。

農家の大黒柱の2人が亡くなり、母と叔母、そして長兄、次兄、私、そして妹の2人が残されたが、
もとより農業の技量、大人の男手を失くしたので、生家は没落しはじめた・・。


私は祖父の葬儀が終わった後、学校に行くと、担任の女の先生から、職員室に呼ばれた。
『XXくん、貴方のお父さん、お祖父さんも亡くなってしまい、
大変に可哀想と先生は思っていますが・・貴方、男の子でしょう・・
お母さんに心配させるようなことは・・分かっているわよね・・』
と私に言った。

そして
『男の子は、頑張るのよ・・』
と先生は私に握手してくれた。

私は、その夏、短冊に秘かに書こうとしたが、少しためらっていた・・。

《 せんせい、あくしゅもいいけど、
              だきしめてほしい・・ 》

叔母や妹が短冊に何かしら綴っているので、私は本心を書けなく、ためらっていた。
そして私はやむなく、

《 せいせいも げんきで
            ぼくもがんばります 》
と何とか読める汚(きたな)い字で書いた。

短冊を吊るしている時、叔母が、
『どういうことなの・・』
と私に言ったりした。

『何でもない・・何となく・・』
と私は下を向きながら答えた。

私は小学生の時は、兄ふたりは成績が良い優等生で、
私はいじけた『2』と『3』の多い劣等生で、可愛げもない児であったが、
齢を重ねた68歳の今、それなりに苦くも懐かしい想いでとなっている。
          

このようにささやかな想いでもあり
短冊に関しても、確か18年前の頃だったと思われるが、
私なりに深い思いであり、今でも鮮明に私の心の片隅に残っている。

この当時も、私は現役のサラリーマンで数多くの人と同様に、多忙な時期であった・・。

春先に大幅な人事異動であり、私も異動し、ある部署に落ち着いたと感じた夏季休暇に、
家内と宮城県の作並温泉に3泊4日で滞在した。

上野駅から仙台駅までの新幹線は、わずか2時間ばかり、そして在来線に乗り継ぎ作並駅まで1時間弱で、
駅前から宿泊する観光ホテルの迎えのマイクロバスで到着した。

そして、私たち夫婦はホテルの周辺のラベンダーの丘陵、渓流で魚釣りをしたり、散策をしたりし、
のんびりと過ごしていた。

翌日のひととき、ホテルのロビーの一角に、
3メートル前後の竹に5色の短冊が飾り付けられていたことに気付いた。

私は昼の風呂上り、浴衣姿でロビーの一角を歩いていた時、
この短冊を何気なしに読んだのである・・。

数多くの短冊を読んだが、ひとつの短冊に心を惹(ひ)かれた・・。

《 らいねんも このホテルに
      かぞく ぜんいんで こられますように 》

と小学生の上級生の女の子らしい綴りで書かれていた。
          
私は作並温泉に訪れる途中で、
仙台市内の華麗で豪壮な七夕(たなばた)を少し観えたが、
この女の子のひとつの短冊に籠(こ)められた願いが、心に沁みた・・。

そして私は華美な仙台の七夕もそれなりに良いが、遥かにこの短冊のひとつに魅了され、
この人生の微笑みを頂き、心を寄せたのである。


このようにささやかな想いでがあり、私はこうした情愛が限りなく愛(いと)おしく、
華美な飾りより、たったひとつの願いを託した尊ぶ心に、圧倒的に魅了される。

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高齢者の熱中症の予防対策、ぐうだらで単細胞の私でも、再確認させられて・・。

2013-07-06 12:28:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
雑木の多い小庭に古ぼけた築後36年の家に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
              
私は今年の誕生日を迎えると69歳となり、家内も64歳となり、
共に厚生年金、わずかながら企業年金を頂いている身である。

昨夕、私の住む市から、私宛に『平成25年度 介護保険料 決定通知書』が郵送され、
私は見たりして、昨年と支払額は同じだ、と微苦笑したりした。

この後、この通知書に別紙が同封されていて、私は思わず精読させられた・・。

《 熱中症にご注意下さい!
    熱中症の発生は、例年7月から8月がピークになります。
    熱中症を正しく理解し、元気に夏を乗り切りましょう。》

この見出し文が大きく掲げられた横には、

《 熱中症患者のおよそ半数は、高齢者(65歳以上)です 》
と大きく明示されていたので、予防法が詳細に明記されている箇条書きを読んだりした。
               
◎暑さを避けましょう
    ○日影を選んで歩く。
    ○日傘を利用したり、帽子を活用する。
    ○室温は28度を超えないようにしましょう。

◎服装に工夫しましょう
    ○皮膚表面まで気流が届き、汗を吸って肌の表面から蒸発させるような通気性が良く、
     吸湿・速乾性のある服装が理想です。

◎こまめに水分補給をしましょう
    ○高齢者は体温調節が十分でないことがあります。
     のどの渇きを感じなくとてもこまめに水分補給をしましょう
     (ただし、持病がある方は主治医にご相談下さい)
     また、大量の汗をかいた時には塩分補給も忘れずに。

◎急に暑くなる日に注意しましょう
    ○熱中症は梅雨明けの7月下旬から8月上旬に多発する傾向があります。
     暑さに慣れていない梅雨明けや、熱帯夜の翌日、
     久しぶりの暑い環境で活動する場合などは十分に注意しましょう。

このような優しい文面が、福祉健康部・高齢者支援室から通知されたのである。
               

我が家の夏の対策として、私は外出の時の買い物、散策の時は扇子(せんす)、
帰宅後の家の中では、団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりしている。

そして我が家はエアコンが稼働するのは、原則として『梅雨明け』の7月20日前後から、
初秋を迎える『秋のお彼岸』の9月21日前後となっていて、初秋を迎えるのが、ここ9年の習性となっている。

私は幼年期は農家の児として育った為か、寒さには強く、暑さに何よりも苦手な身であり、
家内は寒さに弱いが、夏の暑さは30度ぐらいでは平然としている。

このように家内はクーラーの冷風が苦手であり、私はクーラーの冷風をこよなく愛するタイプである。

家内からすれば、女の人は冷え症の方が多く冷風は禁物なのよ、
と天上の神のような声に私には聴こえたので、
これ以来、私なりに多少耐え、古風なタイプでない私でも、梅雨明けの頃までは、
何かと団扇(うちわ)のお世話になっている。
          

昨日の午後、私の住む地域の天気情報は、
明日より一週間ばかり30数度の猛暑が予測されますので、熱中症に注意しましょう、
と報じられれていた。

そして家内は高齢者4年生の私の身を案じて、クーラーの自動清掃を夕方からセットした。
こうして我が家としては、本日よりクーラーの冷風の生活が始まっている。


こうした中で、我が家は家内の指揮のもとで、 簾〈すだれ〉を各部屋に掛けているのが、
ここ10数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸があるが、この季節はカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして居間を中心に、和室、洋室、茶室、玄関、洗面所、トイレの窓際まで、
簾〈すだれ〉を付けている。
          

私は日常の買物の専任者であり、独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
          
私の住んでいる処は、東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅で、
生家も近く、結婚前後の5年を除き、63年ばかり住んできたので、
この地域の『里っ児』でもある。

最寄駅は京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような中間地域となっている。

いずれもバスの利便性は良いが、年金生活を始めてからケチの性格に変貌した為か、
路線バスを利用することなく、原則として散歩も兼ねて歩いたりしている。

そして現役のサラリーマン時代の通勤の時は勤務地の関係、
或いは昨今の都心に買物、旅行をしたりする時は、
更にバスの利便性も良いので、『成城学園前』を利用したり、ときには散策をしたりしている。

こうした辺鄙(へんぴ)な所に私は住み、定年後の年金生活の日常に於いて、
その日に応じて歩き廻ることが多い。
          
私は夏用のストレッチパンズの長ズボンの数種類、アロハシャツかスポーツシャツの半そで、
そしてウォーキング・シューズとなり、夏用の帽子を深めにかぶり、サングラスをして、
扇子〈せんす〉を扇〈あお〉ぎながら、颯爽と歩くことが多い。

そして紳士用の小物入れのB5サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
財布、メモ・ノート、ポールペン、ハンドタオル2枚、ハンカチ2枚、煙草、ライター、携帯灰皿などを入れ、
買い物したり、散策したりしている。
          
しかしながら燦々と照らす道を歩いたりすると、汗がひたたり落ちる・・。
やむなくハンドタオルで顔などを拭(ぬぐ)いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、足早に歩いているのが実情である。

こうした中で、暑さに負けそうと思う時、単細胞の私は冬の寒さの情景を思い浮かべて、歩いたりしている。

そして喉の渇きを感じたら、最寄りの自動販売機で、冷たい煎茶を買い求めたりしている。
或いは疲れを感じたら、大きな樹の下の付近のベンチに腰掛けて、緑陰に心身寄せている。
          
しかしながら、確か一昨年の猛暑の35度を超えた時、
私は駅前より路線バスのクーラーに身をゆだねて、3回ばかり利用して、帰宅したことがあった。
こうした根底には、もとより熱中症で倒れて救急車、病院にお世話になるのは勘弁して欲しい、
と願ったからである。

こうした思いもあり、今年の夏、余り熱くならないでねぇ、と青空を見上げながら、
天上の気候の神々に祈願している。

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風邪気味の私、赤ちゃん返りのように、昼も夜もよく眠り・・。

2013-07-05 15:09:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
一昨日の3日の日中、家内のボディガードそして荷物持ちのお供で、
徒歩15分ばかりのホームセンターで買い物に私たち夫婦は出かけた。

その後、駅前のスーパーで買い物した後、付近のファミリーレストランのような食事処で昼食をした後、
我が家の最寄りのスーパーで買い物をした後、帰宅した。

この間、4時間ばかりであったが、何かしら私は疲れを感じた・・。

帰宅後、私は思い当るとすれば、前日の2日に駅前の歯科医院で治療を受け帰宅した後、
日常の買い物専任者の私は、初夏のような陽気の中、スーパーに2店ばかり廻り、奮闘していた。
          
3日の夜、私は疲れを感じながら、居間で扇風機の風に身を寄せながら、
深夜まで本を読んだりした。

そして昨日の4日の朝、少しだるさを感じて、風邪気味かしら、と感じて、
昼寝でもすれば回復すると思い、本日は買い物を中止して安息日、
と私は家内に宣言したりした。

そして私は9時過ぎに2階の寝室に行き、夏掛けの布団にもぐり、扇風機の微風の中、
本を読みだしたが、30分過ぎる頃に眠った。
そして目覚めると、再び本を読んだりした。

遅い昼食を2時過ぎに、家内と共に頂いた後、少し熱っぽく、頭も重く感じたので、
やむなく風邪薬を呑み、再び寝室で横たわると、
まもなく眠りに落ちた・・。

そして夕暮れの5時に目覚めて、ぼんやりと一階の居間に下り立った。

この後、日中によく眠ったので、もとより夜は熟睡できず、眠れるかしら、
と身勝手ながら感じた。
          
夕食後、やがて9時過ぎに私は寝室で横たわって、
本を読んでいる中、眠ってしまった。

今朝、6時に目覚め、心身覇気がないが、
我ながら赤ちゃん返りのように、よく眠った、と微苦笑したりした。

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慈父のように敬愛してきた人のひとり、ささやかな私の想いは・・。

2013-07-04 15:00:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
ここ2週間ぐらい新聞の折込チラシで、ときおりデパートなどの『お中元』の広告が入っている。

今朝のひととき、私は見たりすると、私の現役時代だったサラリーマンの時代を想いだした。

私の現役時代は、お中元、お歳暮などの社交辞令は苦手であったので、
なるべく避けていた。

しかしながら不得意な私でも、人生の岐路にたたされた時、
或いは救いの手を差しのべて下さった方には感謝して、
年賀状を送信し、お中元、お歳暮の時は、ご自宅に訪問させて頂いた。

私の就職、結婚の時は、特にご尽力を頂いて、感謝している方である。
               
私が大学を中退し、アルバイトや契約社員などをして映画・文学青年の真似事しはじめたのは、
東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年であった。
その後、あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転身する為に、
コンピュータの専門学校を一年ばかり学び、安定した大手の民間会社に中途入社を希望していた。

こうした中、私の生家の遠い親戚の資産家のお方から、
このお方の知人で、この当時は大手の映像・音響メーカーの首脳陣のひとりのお方を紹介して頂いた。

そして、この首脳陣のお方のご尽力もあり、
私はこの大手の映像・音響メーカーに中途入社できたのは、1970(昭和45)年の春であった。

入社してまもなく音楽部門のひとつの大手レーベルが、
レコード会社として独立し新設されたので、私は異籍させられ、
中小業であるレコード会社に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となった。
          
この間、この首脳陣のお方のご自宅にお中元、お歳暮のたびに訪問した時、
温かなまなざしで私に応対してくれた。
そして奥様もさりげなくつつみこんで下さり、このご夫婦から高潔さを私は教示を受けた。

その後、私が結婚する時に、ある格式ある式場を懇願して紹介して頂いたので、
ご夫妻に披露宴に参列して頂いたりし、私たち夫婦は何かとお世話になった。

このような形を25年過ぎれば、私も齢を重ねたが、
このお方、奥様からはお逢いし話すたびに、茶事、庭、絵画、音楽などの素養が格段違う、
と私たち夫婦は実感させられたりした。

私の定年退職の時、私の日常生活ではとても口に出来ない美酒を頂戴した後、
まもなくこのお方は、ご高齢であったので、亡くなわれた。
          
そして告別式に私たち夫婦は参列した時、改めて高潔なお人であった、
と思いを深めたりした。

しかし、民間会社の大手の首脳まで栄達されたお方であったから、
もとより怜悧な力量もあったと思われるが、
私たち夫婦はこのお方の限りなく優しいプライベートの面しか接してこなかったのも、
事実でもある・・。

しかしながら私にとっては、小学2年の時に父に病死されたこともあり、
慈父のような人と秘かに36年ばかり思い続けたお方でもあった。

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シニアのお方で、何かと魅せられて愛読しているサイトを、あえて公開すれば・・。

2013-07-03 19:08:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私は民間の中小業に35年近く勤め2004(平成16)年の秋に定年退職した後、
私の半生は屈折の多い人生だったので、せめて残された人生は・・と思いながら
直ちに年金生活にして、身過ぎ世過ぎの日常生活を過ごしてきたが、
私は随筆、ノンフィクション、現代史などの読書に続いて、つたないながら文章を綴るのが好きである。

退職してまもなくして、偶然にブログの世界を知り、
日々に感じたこと、或いは思考したことを心の発露としてあふれる思いで、
原則として少なくとも毎日1通は投稿し、綴ったりしてきた。

投稿の内容は、定年後の身過ぎ世過ぎの年金生活の日々の思いはもとより、
過ぎ去った幼年期から定年退職するまでを余すことなく綴り、投稿を重ねてきた・・。

このように私はパソコンが故障、或いは国内旅行をしていない限り、
毎日投稿をしてきたので、少なくとも定年退職後の丸8年半過ぎた日々の思いは、
私の日常の証(あかし)のひとつでもある。

そして私はブログサイトを5つばかり彷徨(さまよ)い、この【gooブログ】に一本化して、
早や4年が過ぎている。
          
こうした中で、数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
私は励まされたり、微笑んだりして、年金生活を過ごしたりしてきた。

私はブログを投稿する際、最後までお読み頂けるように工夫したり、
その上に数多くの方にお読み頂けるように、試行錯誤をしたりしているが、
日本だけでもブログをされている方は、数千万人と風の噂で聞いたりしていた。

そして私の加入している【gooブログ】のサイトでも、この当初は150万人の加入数いたので、
私は誰からも読まれなく無視されることは、悲しきことで愕然とするので、
ブログを始めて4年過ぎた頃、やむなく対策を思案した。

こうした意味合いからのひとつの目途として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたないなりにブログの体験上で学んだりした。

そしてあるブログのランキングに加入したりしてきたが、
2008〈平成20〉年の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了されていたので放置していたが、
その後、過ぎし2010〈平成22〉年の秋に、ブログのランキングの『にほんブログ村』に、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて再加入した。

そして、少しばかり加入ジャンル部門を彷徨〈さまよ〉った上、
『にほんブログ村』に関しては、シニア系の『60代』に加入し、ランキングを少しばかり気にしたりしていた。
          

こうして『にほんブログ村』は、早や3年近くになっているが、
この間に長く私が魅了されて、深く愛読しているサイトがある。

もとより『にほんブログ村』の加入数はこの当時は64万人以上、
この中のシニア日記系は1,200人は超えているので、
たまたま私が読んで魅了されて、少なくとも半年以上に及び愛読してきたサイトであり、
恥ずかしながら公表すれば、この私のサイトの【ブックマーク】に2年前の頃から明示した。
               
いずれもシニア系の【シニア】、『60歳代』で、
魅了されたサイトをご本人のご承諾も得ずに、勝手に掲載させて頂いている。

そして素直に発露すれば、『にほんブログ村』の『お気に入りメンバー』の機能があり、
私は少なくとも男性39名、女性41名を登録して、この方の投稿された愛読者のひとりとなっている。

こうした中で、数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
私は励まされたり、微笑んだりして、年金生活を過ごしたりしてきた。

何よりも人生の思いを深く学び、生きた人生の教科書と確信を深めている。
               

昨今、私の加入している【gooブログ】に於いては、【読書管理】機能が新設され、
《・・あなたのブログが読者登録されると、その都度メールでお知らせする機能です。
・・「読者登録機能」とあわせてご活用ください。・・》があり、
私もブログ上に愛読しているお方を公開しょうかしら、と懸案したりした。

しかしながら私はシニア層のお方に関しては、『にほんブログ村』のシニア系の【シニア】が殆どなので、
同じ公開するならば、
これまで私が秘かに愛読してきたお方のサイト公開の方が心身よい、と判断して、
あえて公開する。
          

私が好感しているサイトは、齢ばかり重ね幾つになっても独断と偏見の多いが、
日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、
淡々と綴られているのに圧倒的に感動を覚(おぼ)える。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感銘させられたりしている。

そして本、映画などの批評、小説、詩、短歌、俳句などの創作に於いて、
その人なりの独創性にあふれた投稿文に接した時、震(ふる)える程、感銘を受ける。

私が険悪するのは、芸能人に関する話題を表示する方達である。
例えば、音楽のアーティストの歌に関することは芸の批評は良好であるが、
私生活の話題を投稿するのは程度の低い週刊誌と同様である。

私は若き頃に映画、文学青年の真似事をして、あえなく敗退し、
そして定年退職時まで35年近く音楽業界のあるレコード会社に勤めた身であるが、
芸能人の私生活の話題をする時間があったら、
ご自身の日常生活を大切にする時間に当てて欲しい、と思っているからである。

私が困惑するのは、日常の生活の不満を何時も落書きのように投稿される方、
そして大手メディアの文章を毎日転載し、少しばかりのコメントを掲載される方である。

或いは、私は犬、猫などの動物は苦手なので、
こうしたサイトはなるべく読むことは避けている小心者である。
          
私は何かと気弱くせに自己顕示欲の強い私は、公開するのはためらいもあるが、
あえて今回、公表する次第である。

魅了されたお方のサイトで、少なくとも私が半年以上に及び愛読させられたお方のサイトであり、
ここ数カ月でも、圧倒的に魅せられるお方もいるが、
こうしたお方は、半年過ぎたら追加させて頂く。

このような思いで、先ほどの午後5時より私の加入している【gooブログ】の『ブックマーク』に登録していたら、
遅ればせながら登録対象が50名と知り、
残りがわずかとなり、私はどのお方を選定させて頂くか、単細胞で熱愛者の私は迷っている。

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