夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ふたたび、庭の手入れに専念・・!?

2009-05-22 07:58:12 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
曇り空の朝を迎えているが、日中は晴れ間となるが22度前後、
夜には雨が予測されている。

ここ数日、私達夫婦は玄関庭、主庭の樹高を少し短めにしょう、
と話し合ったりしていた。

昨夜、天気予報を視聴していたら、
明日は平年並みのお天気だから、剪定に最適かしら、
とお互いに笑いあったりしていた。


私は庭の手入れに関しては、孤軍奮闘する役目であるが、
一年に数回は家内が手助けをしてくれる。
家内は蚊(か)が苦手であるが、体力は私よりあるので、
ときおり私は、あの枝を切りましょう、と家内に云われたりし、
追われる時もある。


果たして、体力も衰えた私は、どこまで小奇麗にできるか解からないが、
樹木の剪定などは労力の成果は明きらかになる作業なので、
喜びのひとつでもある。

そして庭の手入れの後、清めて下さるように、雨が降る、
このように期待しながら、久々に健全な汗を流そう、と思ったりしている。



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昨年度、最も愛された曲は、青山テルマ feat.Souljaの『そばにいるね』・・。

2009-05-21 16:31:59 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
日常の多くは小説、随筆の読書をしているが、
ときおり音楽も聴いたりしている。

先ほど、ネットで音楽専門サイトの【MUSICMAN-NET】の記事を読んでいて、
私は思わず微笑んだのである。


【 JASRAC賞発表で「そばにいるね」が著作物使用料1位に 】

と題された記事である。

【・・
[ビジネスニュース]
2009年5月20日 Musicman編集部

20日、昨年度の著作権使用料の分配額が多い作品を表彰する「JASRAC賞」が発表され、
青山テルマ feat.Souljaの「そばにいるね」が2009年国内作品の金賞を受賞した。

「そばにいるね」は、2008年度インタラクティブ配信部門の分配第1位、
カラオケ部門第5位など、数多くの分野において上位にランクインしている。

銀賞は、アニメ 創聖のアクエリオンの主題歌「創聖のアクエリオン」が受賞し、
銅賞はGReeeeNの「キセキ」が受賞した。

外国作品賞を受賞した「ZOOM ZOOM ZOOM」は6年連続の受賞となる。

なお、2008年の国内作品金賞は、宇多田ヒカルの「Flavor Of Life」、
2007年は「ハウルの動く城BGM」が受賞している。

▼日本音楽著作権協会(JASRAC)
 → http://www.jasrac.or.jp/

・・】

記事の原文
http://www.musicman-net.com/cgi-bin/public/n-view.cgi?hid=07-47-0029

注)記事の原文に対し、あえて改行を多くした。



このような記事であり、著作権使用料の分配額が多い作品ということは、
実質お金を払われ中で、数多くの人々から最も愛された曲だ、
と思ったりしたのである。

そして、私は齢を重ね、体力は衰えてきたが、
感性は少し若いかしら、と微笑んだのである。


私はこのサイトに昨年の2008年12月4日に於いて、
【 年金小父さん、青山テルマの『そばにいるね』も聴いている・・!? 】
と題して、投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は年金生活の五年生の64歳の身であるが、
昨夜.ネットでニュースを検索していたら、

【 2008年、「iTunes Store」で最もダウンロードされた楽曲が発表 】

と題された記事があり、私は読んだりしたのである。


私の定年後の年金生活は、小説・随筆などの読書することが多いが、
居間に保存しているでビデオ・テープ、DVDの映画を観たり、
或いはカセット、CD、DVDの音楽を聴いたりしている。


そして、遅ればせながら、この半年は『YouTube』も愛用し、
ときたま聴いたりしているのである。

私が初めて『YouTube』を知った時は、
これは音楽業界はバンドラの箱が開けられた、と思いながら衝撃を受けたのである。

(略)

このような思いで齢を重ねた年金小父さんも何かと音楽に興味があったので、
昨夜報じられた、

【 2008年、「iTunes Store」で最もダウンロードされた楽曲が発表 】
12月3日9時13分配信 BARKS

と題された記事を精読したりした・・。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

【・・
800万曲以上の楽曲をそろえる世界最大の音楽配信サービス「iTunes Store」で、
2008年に日本国内で最もダウンロードされた楽曲およびアルバムが発表された。

【関連情報】「iTunes2008 トップソング」チャート(全100作品を掲載)

iTunesの発表した2008年の年間「トップソング」チャートによると、
1位となったのは、青山テルマ feat. SoulJaの「そばにいるね」。
1月23日にシングルリリースされたこの楽曲は、
着うたフル(R)で史上初の200万ダウンロードを突破。
ギネスブックにも「日本で最も売れたダウンロード・シングル」として掲載されるなど、
2008年、圧倒的な支持を集めた楽曲といえるだろう。
ちなみに、7位には青山テルマの楽曲「何度も」がチャートインしている。

また、2位にチャートインしたのは、GReeeeNの「キセキ」。
TBS系ドラマ『ROOKIES』の主題歌だったこの楽曲。
こちらも着うた(R)、着うたフル(R)でともにミリオン突破するなど、
若者を中心に大ヒットした。
またGReeeeNは、メンバーHIDEの実兄であり、
プロデューサーでもあるJINとのつながりで、
BACK-ONとのコラボレーションバンドBAReeeeeeeeeeNとしても2008年デビューを飾り世間を騒がせた。
なおGReeeeNは、「愛唄」が8位にもチャートインしている。

・・(略)

・・】

注)記事の原文にあえて改行を多くした。


私は6月の下旬に、若い人から話題となりヒットしている青山テルマの『そばにいるね』を視聴し、
最近の若い方たちはこのような曲を聴いているのか、
と思いながら、6度ばかり視聴し、才気を秘められた女性に、
私なりに魅せられ好感したのである。

(略)


・・】


この私は、このサイトに昨年の2008年12月10日に於いも、
【 今宵は、改めて青山テルマの『そばにいるね』を何度でも視聴し・・♪ 】
と題して、投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は年金生活の5年生であるが、
先ほど、【YAHOO! JAPAN】のトップページの下段で、

【いま、知っておきたい エンターテインメント情報】を何気なく見ていて、
思わず『テルマちゃんだぁ・・』
と心の中で呟(つぶや)いたのである。

そして、
【・・
本日、ニューシングルをリリースした青山テルマをはじめ、
楽しいおすすめコンテンツや、エンタメ情報をご紹介。】

と副題されて、
青山テルマ 青山テルマが歌うラブソング 等がメニューされて折、
私は青山テルマちゃんの写真が掲載されていたので、
見惚(みと)れたのである。

そして、今宵も何度か 青山テルマちゃんの『そばにいるね』を
視聴しょう、と思ったのである。

(略)
・・】


と投稿した身なので、微笑んだのである。


【 『そばにいるね』 作詞、作曲・SoulJa 唄・青山テルマ 】
http://www.youtube.com/watch?v=M80XXxMKFWw




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ときには、文房具屋、そして本屋に寄れば・・。

2009-05-21 12:47:06 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
昨日、夏のような30度近い暑さの中、駅前に出かけた・・。

私の住む所は京王線の『仙川』、『つつじヶ丘』駅、
そして小田急線の『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』駅のほぼ中間地点で、
調布市の片隅で、世田谷区と狛江市に隣接している場所でもある。
そして、これらの駅前には、徒歩で15分から25分程度の道のりでもあり、
私は散策がわりに歩いたりしているが、
ときおりバスを利用すると10分足らずである。

昨日は、この中のひとつである『仙川』の駅をめざして、歩いたのである。

家内から鉛筆の『B』か『2B』が欲しい、と要望されたのである。
『仙川』駅の商店街には、文房具用品が販売している店は三軒あり、
都立の高校、音楽専門学校の『同朋学園』、そして女子校の『白百合学園』もあるので、
本屋も少なくとも三店ばかりある。

家内は平素のメモ書き、旅行の試案などは、
以前はポールペンを使ったりしていた後、シャープ・ペンシュルを使い、
そして鉛筆の『HB』を使っていたのであるが、少し筆感が柔らいのが欲しい、
呟(つぶや)いたりしてた。

私の住む近くの最寄り駅もコンビニ、スーパーなどの影響で、
文房具屋が淘汰されることが多く、
私もポールペン、A4の厚手のノートのお気に入りも少なく、
困窮する時もあり、こうした折は文房具屋に数軒探し求めたりしている。

このようなことであるが、家内の三菱鉛筆のHiーuni『B』と『2B』を
それぞれ1本づつ買い求め、
お気に入りになれば良いがと思い買い求め、
そして私が日常のメモ書きとして愛用しているポールペンの
パイロットのSUPER-GPの0.7の『黒』、『青』、そして『赤』も購入したのである。


この後は駅ビルの2階に『啓文堂書店』に寄った。
私は仙川駅の周辺の本屋に於いては、この本屋を利用している。
馴染みのある書棚で、新刊本、文庫新書、文庫本などを見ながら、
読みたい本を探すのもひとつの楽しみである。

結果として、私は三冊の本を買い求めたのである。
ひとつは小説家の丸山健二氏に寄る随筆の書き下ろし『新・作庭記』(文藝春秋)でる。
過日、新聞の出版社の新刊広告欄で見かけ、
この本が読みたくて、私は暑い中、駅前に歩いてきた理由のひとつであった。
この作者の作庭に関する真摯で深い思いの『安曇野の白い庭』(新潮社)を
2000年の5月に読み、その後も再読したりしていた・・。

このことに関しては、あるサイトに於いて、
【 丸山健二の『安曇野の白い庭』を再読して・・♪ 】と題して、
2005年5月1日に私は投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
小説家の丸山健二氏の『安曇野の白い庭』を再読した。

この本は、新潮社より2000年4月25日に発売され、
本屋に買い求めに行ったが、在庫なく取り寄せたので、
たぶん5月初旬に読んでいるはずである。

最近、再読してみたが、最初に読んだより、
より一層この人の強靭な志(こころざし)が伝わってくる。


小説家のひとりが庭に関する限り、すべて独力で創り上げる。

樹木、草花の選定、石の配置を独創を持ち、自己の信条を貫く格闘記である。

それには当然なこととして、自己の思想に基づいて、
誰の手立ても借りず、木を植え、石を運び配置し、
樹木、草花の手入れもする。

この間、自己の生活信条、考え方のうつろい、文学の考え、
一般社会とのかかわり等が散見できる。

こうした人が、現世のこの世にいる自体、驚くべきなことである。
・・】

このように綴っていたので、作庭記の続編として読んでみたくなり、
私は無条件のように購入したのである。


この後の一冊は、佐野眞一・著の『凡宰伝』(文春文庫)である。
亡くなった小渕元総理を描いた作品と思われるが、
こうした分野に苦手であるので、避けていた一冊でもあった。
ここ数年、著作者の佐野眞一氏の数多くの作品に魅せられているので、
未読のひとつとして購入したまでである。


そして三冊目は、中川淳一郎・著の『ウェブはバカと暇人のもの ~現場からのネット敗北宣言である』(光文社新書)である。

私はこの本を数週間前に店頭で見かけたが、
《・・どいつもこいつもミクシィ、ブログ
    インターネットは普及しすぎた

  「頭の良い人」の話はもういい。
  「普通の人」「バカ」の話をしょうじゃないか。》

と本の帯に明示されたり、

本書の中で第一章として、
《 ネットのヘビーユーザーは、やっぱり「暇人」 》
と題されていたので、
私は少し不快な気持ちとなり、敬遠していたのである。


私は遅ればせながら定年退職の数ヶ月前にインターネットを自宅に開設した身で、
その後は梅田望夫、佐々木俊尚の両氏をはじめとするウェブに関する数多くの本を読み、
学んできたひとりである。

私は屈折の多い人生を過ごしてきたので、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、
と思ったりしたのである・・。

そして、定年後まもなくしてブログの世界を知り、
文章修行と思いながら、ブログ、ブログに準じたサイトに投稿文を日々重ねてきた。
そして、亡くなるまでに、歴然とした随筆をひとつだけは残したい、
と人生の敗者復活戦のような思いで、投稿している身でもある。


こうした深い思いのある私は、
《 ネットのヘビーユーザーは、やっぱり「暇人」 》
と明記されれば、
私は心の純潔を穢されたようで、不愉快な心となり、購入を見送ってきたのである。

しかし、やはり気になり読んでみたくなり、買い求めたのである。


帰路、住宅街を歩き、雑木林の小道を通り、帰宅したのである。


そして、昨夜から深夜にかけて、
中川淳一郎・著の『ウェブはバカと暇人のもの ~現場からのネット敗北宣言である』を読んだのであるが、
著作者はウェブの前線で奮闘されている方で、
日本のウェブの現状を怜悧に描き、企業と個人の利用の実態と問題点を提示され、
私は微苦笑しながらも数多く学んだりした。

何よりも著作者は、ウェブに対する人々の理念と実質は大いに違う実情に憂いながらも、
根底には限りなく愛(いと)おしさを秘めた良書でもある。





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『人生50年・・』と古来には、表現されていたが・・。 《下》

2009-05-20 08:10:12 | 定年後の思い
私は定年退職後まもなくして偶然にブログの世界を知り、
私は若き日々より中断したこともあったが日記を書いたりし、
これとは別の状況で色々と綴ったりしてきたが、
改めて何らかの形式で公表したく、これ幸いと幾つかのブログ、
ブログに準じたサイトに加入して綴ってきた。

定年退職後の身過ぎ世過ぎの日常で日々に感じたこと、
或いは思考したことを心の発露とし、明記してきたことはもとより、
幼児からサラリーマンの退職時までの色々な思いを
書き足らないことも多々あるが、余すことなく綴ってきている。

誰しも人それぞれに、苦楽の光と影を秘めて日常を過ごしているのが人生と思っているが、
私なりに時には、ためらいを感じながらも心痛な思いで、
綴ったりしてきたこともあった。


私は昭和19年に農家の三男坊として生を受けたこと、
祖父や父が長兄、次兄と男の子に恵まれたので、
秘かに今度は女の子を期待していたらしく、私は何となく感じて、いじけたこと。
そして、小学生に入学しても、兄ふたりは優等生で、
私は中学生までは劣等性だったこと。

小学二年の時に父が42歳の時に病死され、まもなく祖父も亡くなり、
農家の旧家でも大黒柱のふたりが亡くなることは、没落し、貧乏になること。
そして、幼年期には本といえば、『家の光』しかなく、
都心から引越してきた同級生の家には沢山の本があり、愕然としたこと。


高校時代になって初めて勉学が楽しくなり、
遅ればせながら読書にも目覚めたり、小説らしき習作を始めたこと。

そして大学を中退してまで映画・文学青年の真似事をしたり、
その後は幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、落胆したこと。

この後は、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
大手の民間会社に中途会社にできたこと。

そしてまもなくレコード会社に異動して、
六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、時代の最先端にいる、と勘違いしたこと。
この間、幾度も恋をしたが失恋の方が多く困惑したことや、
結婚後の数年後に若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたこと。

そして、定年の五年前に出向となり、都落ちの心情になったこと。


このように私は大手のサラリーマンの一部に見られるエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎えたのである。

私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。


私は定年退職時の五年前頃からは、
漠然と定年後の十年間は五体満足で生かしてくれ、
後の人生は余生だと思ったりしている。

昨今の日本人の平均寿命は男性79歳、女性86歳と何か本で読んだりしているが、
私は体力も優れていないが、
多くのサラリーマンと同様に、ただ気力で多忙な現役時代を過ごしたり、
退職後も煙草も相変わらずの愛煙家の上、お酒も好きなひとりであるので、
平均寿命の前にあの世に行っている、確信に近いほどに思っている。

世間では、よく煙草を喫い続けると五年前後寿命が縮じまるという説があるが、
身勝手な私は5年ぐらいで寿命が左右されるのであるならば、
私なりの愛煙家のひとりとして、
ときおり煙草を喫ったりしながら、思索を深め日々を過ごす人生を選択する。
そして、昨今は嫌煙の社会風潮があるので、
私は場所をわきまえて、煙草を喫ったりしている。


このように身勝手で屈折の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、
と思ったりしたのである・・。

私はこれといって、特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意したのである。


私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

何よりも多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かったのである。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨 長明が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。


こうして定年後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日常生活で、
家内とふたりだけの生活の折、買物の担当をしたり、
散策をしながら、四季折々のうつろいを享受し、
長年の連れ合いの家内との会話も、こよなく大切にしている。

そして時折、何かと甘い自身の性格と文章修行に未熟な私さえ、
ときには総合雑誌の『サライ』にあった写真家の竹内敏信氏の連載記事に於いては、
風景写真を二葉を明示した上で、文章も兼ね備えて掲載されていたが、
このような形式に誘惑にかられ、悩んだりする時もある。

私が国内旅行をした後、投稿文に写真を数葉添付して、旅行の紀行文の真似事をすれば、
表現上として言葉を脳裏から紡(つむ)ぐことは少なくすむが、
安易に自身は逃げる行為をしていると思い、
自身を制止している。

そして、言葉だけによる表現は、
古来より少なくとも平安時代より続いてきたことであるので、
多くの人の心を響かせるような圧倒的な文章力のない私は、
暗澹たる思いとなりながらも、まだ修行が足りない、と自身を叱咤したりしている。


そして拙(つたな)い才能には、
何よりも言葉による表現、読書、そして思索の時間が不可欠であり、
日常の大半を費(つい)やしているので、年金生活は閑だというのは、
私にとっては別世界の出来事である。

このような思いで今後も過ごす予定であるので、
果たして満天の星のひとつになれるか、
或いは挫折して流れ星となり、銀河の果てに消え去るか、
もとより私自身の心身によって決められることである。


余談であるが、私と同じような年金生活をしている方で、
生きがいを失くし、目に輝きを失くした方を見かけたりすると、
齢ばかり重ね、孫の世代の人々にお恥ずかしくないのですか、
と私は思ったりしている。




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『人生50年・・』と古来には、表現されていたが・・。 《上》

2009-05-19 10:43:41 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
先ほど、ぼんやりと一冊の本を少し読み、苦笑させられた・・。

医学評論家の水野 肇の監修に寄る『~365日のヘルスプラン~ 健康歳時記』(三宝出版)であり、
この中のひとつのコーナーとして『健康日誌』が設定されている。

昨日の5月18日に於いては、『人生五十年』と題されて、掲載されていた。
【・・
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢まぼろしの如くなり、
一度生を受け、滅せぬ者のあるべきか」。
天下統一を目の前にして織田信長は腹心である明智光秀によって滅ぼされた。
その死の直前に舞ったのが、
「人間五十年・・・」とうたわれる『敦盛』である。

現在では、日本の男女とも平均年齢が70歳を越え、
世界に冠たる長寿国を誇っている。
・・】
このように掲載されている。
注)原文をあえて改行を多くした。


私が苦笑したのは、もとより『敦盛』は遥か昔の源平の戦いの時代である。

源平の戦いの一戦である須磨の浦における『一ノ谷の戦い』に於いて、
平家軍の主力は源氏軍に圧倒されて、敗走をはじめた。

【・・
平清盛の甥っ子で平経盛の子である若き笛の名手でもあった武将の平敦盛は、
退却の際に、愛用の漢竹の横笛と称される青葉の笛を持ち出すのを忘れしまい、
これを取りに戻った為に、敗走する退却船に乗り遅れてしまう。

敦盛は出船しはじめた退却船を目指して、渚に馬を飛ばす。
退却船もこれに気付いて、岸へ船を戻そうとするが、
逆風で思うように船体を寄せられない。
敦盛自身も荒れた波しぶきに手こずり、馬を上手く捌けずにいた。

そこに源氏方の武将の熊谷次郎・平直実(熊谷直実)が通りがかり、
格式高い甲冑を身に着けた敦盛を目にすると、
平家の有力武将であろうと踏んで一騎打を挑む。

敦盛はこれに受けあわなかったが、
直実は将同士の一騎打ちに応じなければ、兵に命じて矢を放つと威迫した。
多勢に無勢、一斉に矢を射られるくらいならと、
敦盛は直実との一騎打ちに応じた。

しかし悲しいかな実戦経験の差により、
百戦錬磨の直実に一騎打ちでかなうはずもなく、
敦盛はほどなく捕らえられてしまう。

直実がいざ頸を討とうと組み伏せたその顔をよく見ると、
元服間もない紅顔の若武者。
名を尋ねて初めて、数え年16歳の平敦盛であると知る。

直実の同じく16歳の子である熊谷小次郎・平直家(熊谷直家)は、
この『一ノ谷合戦』で討死したばかり、我が嫡男の面影を重ね合わせ、
また将来ある16歳の若武者を討つのを惜しんでためらった。

これを見て、組み伏せた敵武将の頸を討とうとしない直実の姿を、
同道の源氏諸将が訝しみはじめ、
『次郎(直実)に二心あり・・次郎もろとも討ち取らむ。』
との声が源氏諸将から上がり始めたため、
直実はやむを得ず敦盛の頸を討ち取った。


『一ノ谷合戦』は源氏方の勝利に終わったが、
若き敦盛を討ったことが直実の心を苦しめる。
合戦後の論功行賞も芳しくなく同僚武将との所領争いも不調、
翌年には屋島の戦いの触れが出され、
また同じ苦しみを思う出来事が起こるのか、と悩んだ直実は世の無常を感じるようになり、
出家を決意して世をはかなむようになる。


このような伝説を学んだ織田信長は、
直実が出家して世をはかなむ中段後半の一節から、

《 思へばこの世は常の住み家にあらず
  草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
  金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
  南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
  人間五十年、化天[1]のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
  一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
  これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ 》

という詞章があり、
織田信長がこの節を特に好んで演じたと伝えられている。

「人間(じんかん)五十年」は、人間の定命は50年であるとの意。
「化天」は、六欲天の第五位の世化楽天で、
一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8000歳とされる。

「下天」は、六欲天の最下位の世で、
一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされる。
人間の命は化天あるいは下天の住人に比べれば儚いものであるとしている。

しかし、実際には直実の嫡男である直家の戦死は脚色であり、
実際には家督を継いで53歳で死去している。
これは当時の平均寿命を全うしたといえる年齢である。
・・】
この原文のほぼ大半は、フリー百科事典と知られている【ウィキペディア(Wikipedia)』より引用した。


私が高校生以来四十数年に幾多の本で学んだりし、
フリー百科事典と知られている【ウィキペディア(Wikipedia)』を読んだりし、
拙(つたな)い雑学の身の上であるが、
古来の平均的な寿命と現代は余りにも違うと苦笑したのである。


                            《つづく》


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ときには純白な蓮(ハス)の花に心を託(たく)せば・・。

2009-05-18 10:20:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
一昨日はここ三週間怠けていた庭の手入れを日中の大半に専念し、
昨日は小雨が降ったり、止んだりしていた日中であったので、
朝の10時半過ぎ午後の3時過ぎまで、畳に横たわり、
布団を一枚かけて、本を読んだりしていた。

今朝は早朝の4時に目覚めたが、眠気を感じたので、
再び寝付いてしまい、目覚めたのは7時過ぎだあった。

朝の陽射しは燦燦と庭を照らし、
家内は洗濯の合間に掃除をしていて、
『久々に良いお天気ねぇ・・』
と私は照れながら家内に朝の挨拶代わりに云ったりしていた。

朝食後、私はテラスに下り立ち、簡易椅子に座り、
モミジのたわわな枝葉の下に身を寄せて、読売新聞を読んだりした。
そして煙草を喫ったりしていたが、興味のない記事ばかりであり、
樹木の枝葉を眺めたりしていた。
微風が吹くと、群生した小判草(コバンソウ)の草花は首を傾げたように揺れ、
たわわな半化粧(ハンゲショウ)もかすかに揺れている・・。

日中は初夏のような陽射しになるか、と思ったりしていると、
蓮(ハス)の花が思い出された・・。


私は東京の郊外に昭和19年に農家の子として生を受けた。
祖父、父が中心となり、ある程度の田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。
田んぼの外れに半反程度の広さの蓮専用の水田があった。

父、祖父が亡くなる小学生の前半までは、毎年この時節は幼いなりに楽しんでいた。

7月の下旬に蓮の花は莟となり、8月の初めにお盆を迎えるので、
祖父か父が6本前後採ってきた・・。

私は祖父にねだって、大きな葉をひとつ貰ったりした。
水を少し入れると、水玉になるので、幼児なりに楽しんだのである。

そして泥だらけの中で、
どうしてあんなに白い花が咲くの、
と子供心に不思議となったりした。

お盆の時、仏壇の前に畳一帖ぐらい台を設置し、
位牌の前に、盆棚を置いて、野菜、果物を供えたりしている。
外れに茄子(ナス)や胡瓜(キュウリ)に割り箸で足を付けて、
馬や牛にみたてたりしている。
台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮の葉を浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の草花を飾り、この中で蓮の花が中核となっていた。

夏休みが終わった頃、蓮の田んぼに行くと、
花が終り、可愛い蜂の巣のような実となっていた。

数週間過ぎた頃、この実を採り、
少しむくとどんぐりのような形の実が出てきて、
食べたりした後、少し甘い香りが残った・・。

やがて蓮の葉が枯れる頃になると、
祖父、父が泥だらけの地中から大きくふくらんだ蓮根を取り出し、
食卓を彩った。

私は蓮(ハス)と呼んでいたが、
後年になると、レンコン、と世間で言ったりしているので、
戸惑いを覚えたりしている。


このような想いでがあるので、
公園などで淡い紅色した華やかな大賀蓮(オオガハス)観かけた時とか、
名のある寺の観せる美麗な蓮は、
あれは蓮じゃない、
と幼児の思いに還ったりしている。

定年退職後の翌年の夏、
黒羽山の大雄寺の高僧が綴られているのを知った。

【・・
泥中に生じ汚れなく、幽香を漂わせる蓮の花は、
清浄、柔軟、可憐から、他の植物にはない特徴があることから、
仏教の象徴的な意味を持つものとなっている。

泥の中で成長し根を張り、清楚な美しい花を見せる。
そして、普通の花は、まず花が咲いてから実をつけるものだが、
蓮は花をつけると同時に実を中に詰めたつつみが出てくる。
このことから蓮は、過去・現在・未来を同時に体現しているとされている。
・・】
こうようなことを綴られている。


私は宗教に関しては興味はないが、
泥の中から茎を出し、純白な花びらを見せてくれるので、
私なりの身過ぎ世過ぎの日常生活を過ごして折、
改めてこうした純白の花を眺めると、
何かしら私の心を洗い清めてくれる随一の花と思っている。


このような深い思いがあるので、私の住む周辺は昭和30年の初めに頃になると、
田畑は消え、住宅地に変貌したので、
私は国内の旅行で、地方の郊外で偶然に蓮の花を見かけたりすると、
しばらくのあいた見惚れながら、まぶたが熱くなってしまうのである。



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改めて、ときおり私が月を眺めたりする時は・・♪

2009-05-17 17:44:52 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
夜のひととき、玄関庭に下り立ち、煙草を喫ったりしている。
そして、ときおり月を眺めながら、満月に近い時などは、
月もにっこりと微笑(ほほえ)でいる、と私は感じながら思わず微笑させられたりしている。

ある時、星がきらめている付近に三日月を眺めたりした。
私が三年前の秋頃は、三日月を見ると、絢香(あやか)ちゃんだ、
と呟(つぶや)いたりしていた。

ご年配のお方の一部には、お解かりにならないと思うが、
若き女性でシンガーソング・ライターして折、
初期の頃は『三日月』などの名曲を発表された才気あふれるお方で、
私は久々に優れた感性のある人と直感し、魅了された人である。

この絢香(あやか)ちゃんに私は魅せられた頃、
私はあるサイトに【 秘かに、絢香という歌手に魅了・・・♪ 】と題し、
2006年11月5日に投稿しているが、一部を再掲載をする。

【・・
この三ヶ月、ラジオなどで絢香という歌手の歌声に魅了されている。

私は定年退職後の年金生活をし、齢を重ねた62歳の身である。

私は日頃から音楽も好きであるが、
ここ5、6年は若手の音楽には興味を薄れている。

・・

先程、ヤフーの無料動画で、
絢香(ayaka)の『I believe』、『Real voice』、『三日月』の三曲を視聴したが、
歌詞と歌声に改めて魅せられている。

何が好いかといわれても、男女の間の恋しさと同様に、
感覚、そして感性の問題である。

62歳の齢を重ねた身であるが、
ブームなどという浮ついた時代を超える名曲のひとつ『三日月』を
改めて毎晩視聴するつもりだ。
・・】

このように熱中していたひとりであった。


今の私の心は、絢香ちゃんの世界からは遠ざかっているが、
月を眺めれば、過ぎ去った日々に思いを馳(は)せたりしている・・。

私は齢を重ねた64歳の身であるが、
それなりに幾たびの出来事を思い返したりし、微苦笑をしている。

そして時折、ほのかな思いに心を寄せたりし、
私はそれぞれの時節の月から享受をさせられている。

古人の時代より歌人達が、月を眺め哀歓を寄せたりして、
詠(よ)まれた歌が数多く残されている。

あの頃から長い歳月が過ぎているが、人の心は変らぬ思いがあり、
私なりに月に眺むる時、ときおり残されている名歌を心の中で呟(つぶや)き、
心を寄せたりしている。


巡り逢ひて見しやそれとも
     分かぬ間に雲隠れにし夜半(よわ)の月かな
        
                    作者・紫 式部


秋風にたなびく雲の絶え間より
       漏れ出づる月の影のさやけさ

作者は・・確(たし)か・・左京太夫・・あきすけ・・だったかしら、
と思い返したりしている。


私は月は眺(なが)むることであり、月に行き探検されるなどは、
私にとっては論外と思っている。

そして私は科学などの発達より、
何よりも情緒や情感をこよくなく大切にし、日々を過ごしている。


最後に、齢を重ね年金生活の私さえ、感動を頂き、
瞬時に綾香(あやか)ちゃんの歌詞と歌声に魅せられた『三日月』に敬意をし、
添付させて頂く。

【 『三日月』 作詞・綾香、作曲・西尾芳彦、唄・綾香(ayaka) 】

http://www.youtube.com/watch?v=cGGIBgCuTTs





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私の人生の応援歌のひとつは、『旅の夜風』・・♪

2009-05-17 01:01:00 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
私は時折、苦節した時などに口づさむ歌がある。

現役時代のサラリーマン時代だった時、業務で苦戦した時とか、
親戚との確執にさいなまれた時など、ときたま唄ったりした。


♪花も嵐も 踏み越えて
 行くが男の 生きる道
 泣いてくれるな ほろほろ鳥よ
 月の比叡(ひえい)を 一人行く

【 『旅の夜風』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・霧島昇&ミス コロムビア 】


と心の中で唄ったりして、自身を慰め、そして励ましたりしていた。


私が小学三年の春、祖父が亡くなり、
その前年に父に死去されて、母は私を含め五人の子供が残されたので、
母がよく鼻歌を唄ったりしていた。


♪優しかの君 ただ独り
 発(た)たせまつりし 旅の空
 可愛い子供は 女の生命(いのち)
 なぜに淋しい 子守唄

【 『旅の夜風』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・霧島昇&ミス コロムビア 】


この頃は、ラジオからよく流れていた、と子供心に記憶がある。


家内は戦前、戦後の歌謡曲は、私より詳しい。
家内の父が歌謡曲が好きで、唄に自信を深めていたので、
家の中、勤務先の交際の折、よく唄っていたらしい。

時折、こうした歌を私が鼻歌を唄ったりすると、
家内が、NHKの『素人のど自慢』の鐘の音を真似て、
『カァ~ン』と微笑みながら、云ったりしている。


私は人生の苦節の折、よく鼻歌として唄ったりし、心の中で唄ったりし、
励まされる貴重な唄のひとつである。


尚、この歌が昭和13年に上映された松竹映画の『愛染かつら』の主題歌であり、
原作が小説家・川口松太郎が雑誌『婦人倶楽部』に連載された、
と知ったのは恥ずかしながら5年前であった。



【 『旅の夜風』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・霧島昇&ミス コロムビア 】
http://www.youtube.com/watch?v=YRJvKrI76MU





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ときには、『白い花の咲く頃』を鼻歌で唄いながら・・。

2009-05-16 22:42:04 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
曇り空の中、庭の手入れをする為に9時過ぎに下り立った。
家内は初夏の衣料準備をしているので、お互いに孤軍奮闘する日中でもある。


玄関庭から樹木の剪定をしたり、草抜きをしていたが、
紫露草(ムラサキツユクサ)、秋海棠などこの時節から容姿を現(あらわ)し、
初夏から彩る草花に微笑んだりしていた。

主庭にある小判草(コバンソウ)は、麦穂の色合いのように薄緑色から淡い黄金色に染められ、
半化粧(ハンゲショウ)と唐糸草(カライトソウ)は成長しはじめ、
アメリカン芙蓉(フヨウ)も姿を現して二週間が過ぎ、伸長している。

そして、伊予柚子(イヨ・ユズ)がたわわに白い花を咲かせて折、
私は微笑みながら、この樹木の下とその周辺を草抜きをしていた時、


♪白い花が 咲いていた
 ふるさとの 遠い夢の日

【 『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】


思わず鼻歌を唄っていたのである。

♪さよならと 言ったら
 黙って うつむいてた
 お下髪(さげがみ)
 悲しかった あの時の
 あの 白い花だよ

【 『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】

私が小学校に入学する前の年、ラジオから盛んに流れていて、
幼児なりに心で覚えてしまい、
その後、白い花を見ると、何かしら鼻歌を小声で唄ったり、
或いは心の中で唄ったりしている。


この後、歩道に面した垣根の周囲を草抜きをしながら、


♪白い雲が 浮いてた
 ふるさとの 高いあの峰

【 『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】


と鼻歌を唄っていたら、人影を感じたので、見上げたら、
近所で見かける小学4年生ぐらいの男の子が立ったいた。

『おじさんの唄っている歌・・
 うちのお爺ちゃん・・よく唄っているよ・・』
と男の子は私に云った。

『そぉ・・じゃ・・君のお爺ちゃん・心清き人だょ・・
 私とお友達になれそうだょ・・よろしく云っていてね・・』
とお調子者の私は男の子に云った。

男の子は少し首を傾げたが、少し微笑みを浮かべて立ち去った。


この後、私は心の中で、

♪さよならと 言ったら
 こだまが さよならと
 呼んでいた
 淋(さみ)しかった あの時の
 あの 白い雲だよ

【 『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】


と唄ったりした。


そして、私は午後4時過ぎに疲労困憊となり、作業は中止とし、
お風呂に入った後、昼食を抜きだったので、早めの夕食としたのである。
そして、居間の食卓テーブルから、わずかに見える伊予柚子の白い花を眺めたりし、
微笑んだりした。


【 『白い花の咲く頃』 作詞・寺尾智沙、作曲・田村しげる、唄・岡本敦郎 】
http://www.youtube.com/watch?v=DGYq9QSq1eQ




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ときには、庭の手入れに最適・・。

2009-05-16 07:52:51 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
曇り空の朝を迎え、ぼんやりと主庭のテラスに立ち、
樹木を眺め、煙草を喫ったりしていた。

新緑の色合いは、この二週間ばかりで黄緑色から新緑色、深緑に染められ、
枝葉は伸びて折、
地上は入梅、初夏に彩る草花が雑草の中で、伸長してきたいる。

日中は曇り空で20度前後が予測され、夕方の6時過ぎからは雨が降りだす、
と地元の天気情報は報じていた。

私は暑さも苦手であり、旅行や小用などで庭の手入れを怠っていたので、
日中のひととき庭のの手入れに専念しょうと思った。

果たして、体力も衰えた私は、どこまで小奇麗にできるか解からないが、
樹木の剪定、草むしりの労力の成果は明きらかになるから、
喜びのひとつでもある。

庭の手入れの後、清めて下さるように、雨が降る、
このように期待しながら、久々に健全な汗を流そう、と思ったりしている。



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夢うつつ、私の初めての独り旅は・・。

2009-05-15 06:59:52 | 
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
過日の5月10日(日曜日)から1泊2日の短かな旅で、
家内と共に伊豆七島のひとつ『新島』を初めて訪れた。

伊豆七島は大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島と東京都の地域に所属し、
太平洋に浮かぶ諸島であるが、
新島は白い砂浜が広がり、北方は黒い砂浜も観られ、
南部の断崖には白ママの断層と称せられた真っ白に彩(いろど)られた断層が
果てしないように続いた美景が観られる。

そして、蒼い海原から幾重の波間が陽射し受けて光を帯びながら、
海風と共に潮の香りと匂いを感じ、浜辺に押し寄せてくる風情の情景で、
古来より余り変わらない素朴な風景が残されている
限りなく愛(いと)しい島である。


このように感じた私は帰宅後に、いつものように旅行先の思いを、
このサイトに5通ばかり投稿したりしていた。
そして、買物、散策をしたりし、読書をしていたのであるが、
今回の旅で陽射しを浜辺などで受け、日焼けを増したせいか疲れてを感じ、
昨日の夕方に少しばかり布団にもぐり、夕寝をしたのである。

私は夢の中で、伊豆大島に寄り散策したのであるが、
私は今の64歳であるが、大島の情景は昭和35(1960)年の頃なのである。
そして二十歳前後のガイドさん、お土産売り場の40代の女性にからかわれ、
談笑をしていたのである・・。
この時、中学校の悪友が15歳の姿、
そして私が初恋の人と勝手に決めていた同級生も乙女の姿で近寄ってきて、
『船の出る時間に・・間に合うのかょ』
と悪友が私に云ったり、
『XXくん・・急いでねぇ』
と乙女に私は云われたりしたが、

『あと30分あるから・・充分だょ・・』
と私は応えながらも、だけどおかしいょ、と呟(つぶや)いたりしていたのである。

ありえないことだょ、と私は首をかしげた時、
目覚めたのであるが、私は伊豆の大島かょ、とぼんやりと布団の中で、
呟いた時、私が生まれて初めて独りで旅行が蘇(よみがえ)ってきた・・。


この時の旅行に関しては、
このサイトに於いて、【 若き頃、初めての独り旅の想いで・・♪ 】と題して、
昨年の2008年7月9日に投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私が初めて独りで旅行に思い立ったのは、
昭和35(1960)年の高校1年の夏休みの時であった。

夜、晴海埠頭(はるみ・ふとう)から乗船し、早朝に伊豆大島を訪れた後、
午後に出航する観光船で伊豆半島の下田港に向かい、下田に宿泊する。
そして翌日は半島の西岸をバスで北上しながら観光めぐりした後、
修善寺に宿泊した後は、三島まで私鉄を利用し、国鉄で東京駅に帰京するプランであった。

このプランは、ご近所の旅行会社に勤めていた方から立案して頂き、
クーポン券のような周遊予約済の観光ルートであった。


旅行鞄のボストンバックを提げて、
ワイシャツと黒の長ズボン、革靴と通学とまったく同じ様な容姿で、
東京の晴海埠頭から東海汽船の観光船で、大島行きに乗船した。

確か夜の10時に出航し、翌朝の4時前に大島の岡田港の沖で着いて、
島の朝が動き始める6時頃に入港した、と記憶している。

この間の乗船していた時は、大部屋のゴロ寝のような感じで、
私は大広間の片隅に横たわり、警戒心もありボストンバックを握りながら、
不安げに眠れない深夜を過ごしたのであった。

岡田港に下船した時、高波警戒の注意報の掲示板があり、
少し不安げに私は見つめていた。

私は午前中に大島の観光バスで半日周遊をした後、
午後、元町港から下田港行きの観光船に乗り、
下田の観光ホテルに予約済みであったのである。


このような思いがあったので、うつろな思いで、
初めての大島の情景を車窓から眺めていた。

半日周遊観光の終点は元町港であったが、
下田港方面は本日欠航、
と私は掲示板を見て、小心者の私はどうしょう、
と内心うろたえたのである。

しばらくした後、下田港、伊東港は欠航、
熱海港は2時過ぎに出航、と報じられた・・。

私は遠う廻りであったが、熱海港行きの観光船に乗船したが、
観光客で満席となり、私は客室に入らず、
ボストンバックを握り締め、サン・デッキ付近の小さな椅子に腰掛けた。


空一面は、わずかな雲で快晴の青空が拡がり、
私は燦燦と照り昼下りの陽射しを全身に浴び、
果てしなく海原が広がる情景を眺め、
そして潮風を受けながら、
私は心身爽快な心となった・・。

この頃の時代は、俳優の加山雄三が演じた若大将シリーズ映画が、
盛んに映画館で上映されていた時代であったせいか、
海に魅了される人たちの思いも解かったように心持ちとなったのである。


わずか1時間半ばかり航路であったが、
熱海港を下船後、私は東海バスの下田行きの路線バスの乗車場所を何とか探し、
乗り込んだのである。

この時代は、伊東から下田までの伊豆急行が開通前の時期で、
盛んに工事をしていたので、埃りっぽい中をバスで南下したのを、
おぼろげに記憶している。


下田に着いた後、予約した観光ホテルを探し当て、
大浴場で心身を清めていたが、余り疲れを感じることなく、
何とか予約した観光ホテルに着けた、
という思いが強く、安堵したのである。

夕食の時、若き仲居さんから、
『何か・・お飲みものは・・』
と私は訊(き)かれ、
『・・サイダー・・お願い・・』
と私は和服を召した綺麗なお姉さんの仲居さんに、
不馴れな浴衣姿で照れながら云ったりした。


この後の周遊は予定通り順調であった。

私はまもなく16歳を迎える前、独りで初めての旅行をし、
今となっては、愛惜ある旅のひとつとなった。

・・】


このように投稿していたのであるが、今の私にとっては、
ビールの味も知らず、
若い仲居さんに綺麗な女の人、と感じながらも、
うっとりと恥ずかしげに見つめるだけの少年であったので、
微笑んだり、苦笑しながら読んだりしていたのである。



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ふたたび、伊豆七島の『新島』に思いを馳せれば・・。

2009-05-14 11:37:08 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
昨夜11時過ぎに総合月刊雑誌の『文藝春秋』を布団に持ち込み、
数ページ読んでいるうちに寝付いてしまった。
そして朝の4時に目覚めたのであるが、まだ早い、と思いながら、
再び、寝付いてしまい、目覚めたのが7時過ぎであった・・。

2階の寝室から居間に下り立てば、家内は洗濯の合間に掃除をして折、
私は朝の陽射しの射し込む居間のソファーにぼんやりと座った後、
洗面をし、煎茶を淹れたりした。

そして、居間の前にあるテラスに下り立ち、
ぼんやりと陽射しにつつまれた新緑の樹木を眺めながら、煙草を喫ったりしていた。

この後、テラスの近くにあるモミジの枝葉の下に、
簡易椅子に座り、読売新聞の朝刊を30分前後で目を通した後、
ぼんやりと煙草を喫ったりした。

こうして緑陰に身を寄せて、微風が吹くと、
草花の数多くの小判草が首をかしげるように揺れている。

こうした情景を眺めたりしていると、
過日、伊豆七島の新島に訪れた光景が蘇(よみがえ)ってきた・・。


広大に白い砂浜に燦燦と照りつけ、片隅の一面に可愛いハマユウの花がたわわに咲き、
果てしなく続くような海原の蒼さと打ち寄せる波間は陽射しで光を帯び、
浜辺に穢れのない波が押し寄せ、白い砂浜を濡らしていた・・。

このような光景を私は見つめたりし、
たった滞在したのは丸一日であったが、大型チェーン店のスーパーはもとより、コンビニ、本屋などはなく、
何よりも村人達は携帯電話にすがることもなく、さりげな話し声で満ちていた。

そして、街並みで人家が一番多い本村、そして北方の若郷の集落の人々は、
老人にしても前向きにたんたんと生活され、活気ある表情を感じられたりした。

こうした情景は、私の住む街では、遥か遠い昔の昭和30年なかばまであったかしら、
と思いを重ねたりした。


このようなことを思ったりした時、かすかに上空に飛ぶ音を残し小さな飛行機のセスナが観え、
確か新島空港が私の住む調布の小さな飛行場を結ぶ航路だった、
と思いだされた。
たった30分ほどで、有視飛行であるので、ときおり欠航もあるが1日4便ある、
と観光協会の人から教示されたが、
余りにも生活環境、風土、文化の違いを感じ、戸惑いを感じたりしたのである。

漁業を主体とし、農業を営まれ、観光業などで日常を過ごされる素朴な新島、
都心の郊外で人情は失われつつ利便性にあふれた街、
と私は思ったりした。
そして、私は長年に都心のサラリーマンをしていたので、
都会の垢に染まり、利便性に甘受しているので、
ひとりの旅人としては素朴な新島に限りなく愛(いと)おしさを感じるが、
私の日常生活を過ごすには無理がある、と実感させられたのである。


私は幼年期は農家の児として育ったので、
山すそに住む山彦にもなれないし、海辺の住む海彦にもなれないので、
程ほど平坦な里に住むまぎれない里彦のひとりだった、
と苦笑しながら、燦燦と照るつける白い砂浜に座り込み、ときおり潮風を受けたりしていた。


このようなことを陽射しにつつまれた新緑の樹木を眺めながら、
モミジの緑陰に身を寄せて、煙草を喫ったりし、
1時間ばかり思いを重ねたりしていた。



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愛(いと)しき光と風、そして波打ち寄せる『新島』  ~最終章~

2009-05-13 18:10:35 | 
       最終章 光と風、そして打ち寄せる波

私は新島の南部の特例のクルージングを終え、黒根港で下船した時、
乗船させて下さった船を眺めたりしていた・・。

澄み切った快晴の中、蒼い海原の波間を眺め、潮の香りと匂いを感じ、そして海風を受けながら、
愛(いと)おしいような島々の情景に心を寄せたり、
真っ白に彩(いろど)られた断層が果てしないように続く白ママ断層の光景に見惚(みと)れていたひとときに、
思いを馳せたりし、改めて深く心に残っていたことに気付かされたりした。


この後、昼食の前の2時間を私達夫婦は、付近を散策した。
新島港の前から少し南に歩き出すと、
岩山の上に神殿のような円柱がそびえいる『湯の浜露天温泉』に少し驚いたりしたが、
昨今流行(はやり)の水着着用なので、私は苦笑したりした。

私は少なくとも日本男児のひとりであるので、
素肌で大浴場、露天風呂に入浴するように、厳しく育てられたので、
こればかりは水着着用などと柔な精神に反するので、断念したのである。

この後、『湯の浜露天温泉』の足湯の傍にたたずんでいると、
脱衣場から石段をあがると露天風呂らしく、
若き奥様がビキニの水着の容姿で、三歳ぐらいの男の子を連れていた。
男の子も可愛い水着のパンズ姿には微笑んだりしたが、
やはり若き奥様のビキニの水着姿は、私は齢を重ねてもまぶしすぎるのであった。

そして南へ道路に面した歩道を少し歩くと、
岩山が観えたので、道路の脇の石段を下りると、砂浜が少し続き、
海岸の水際に近づくと小岩の状景となり、水際には大きな岩があり、
岩間の間から波が打ち寄せていた。
私はこの一帯に大きな露天風呂にすれば、素晴らしい光景になる、
と余計なことを思ったりした。


この後、港に戻り途中、コーガ石の高い塔が観え、
そばを通り過ぎる時、バーベキューが出来る施設があった。

そして私は石段を下りる時、草花が生い茂る中に、
『光と』 『風と』 『波』 『の』 『塔』
と五つばかりの小さなコーガ岩が斜面にあり、
私は草花で少し覆われていたので、
『光』、『風』、そして『波』、と解釈したのである。


この後は港の前を過ぎて、白い砂浜が水際まで広がっている砂浜に、
私達は下り立った。
里村のエビネの花は散った後の時節、
砂浜の外れにハマユウの小さな花がたわわに咲き、
この付近に私は座り、携帯灰皿を取り出して、煙草を喫ったりした。
そして、快晴の中、前方の波間を観たり、そして彼方の海原を見つめていたりした。

家内は水際を歩き、貝殻を拾い集めたりしていた。

私はぼんやりと、観光協会で頂いた観光ガイドのパンフレットを開き、
昨夜に読み込んだ最後のページを読んだりした・・。

中腹の山すそと思われる雑木林の中に、少し拓けた土の小道があり、
この周辺に海辺の方からの明るい陽射しが射し込み、
前方は蒼い海が彼方まで広がり、そして空は青い空となっている情景の一葉の写真であった。

この写真を背景として、
【・・
日常の暮らしから遠く、空と海をへだてた世界。
 でもどこか懐かしい、そして心躍る、島への旅。
       東京から南へ約150キロの新島。
島に下り立った瞬間に聞こえてくる胸の高鳴り。
  白いコーガ石に囲まれた家々を通り抜けて、
              海岸へと続く道。
木々のあいだ、その先にある水平線の彼方からやってくる。
         潮風と心を通わせ、白い砂浜に一歩足を
                踏み入れてみてください。
   きっと「おかえり」と波の音が答えてくれるでしょう。

          あなたの心に残る感動を。思い出を。
・・】

このように綴られた観光ガイドであり、
新島村役場の産業観光課が発行されたひとつであった。


この詩のようなひとつの散文を深く読み返していたのである。


昼食のお弁当も観光協会の前で頂き、
私達夫婦は付近の長椅子に座り、私はビールを呑みながら食べたりした。
そして、新島港の出港時間の午後1時45分の少し前の集合時間まで、
石段、椅子に腰かけて、燦燦と照る中、海上の蒼い海原を眺めたり、
打ち寄せる光る波間を見つめながら、ビールを呑み続けたりした。

帰路の『セブンアイランド』の船内で、
私は陽射しを久々に浴びて疲れたのか、ビールを呑み過ぎたのか解からないが、
眠りこけたのである。
そして、眠りの中でも、
東海汽船の謝恩企画により、添乗員となった社員の奮闘はもとより、
新島の観光協会、民宿の方たち、村役場の多大なお陰で、
格安な支払い旅費で、たった実質滞在一日の旅であったが、
深く心に残る旅だった、と感謝致します、
と寝言で云ったかは、私には記憶にはかったのである。

                            (終わり)


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愛(いと)しき光と風、そして波打ち寄せる『新島』  ~第三章~

2009-05-13 09:27:56 | 
       第三章 海上から新島を眺めれば

民宿に泊まった翌朝、朝食を海上観光協会の前で頂いた後、
新島を海から眺めましょう、というショートクルーズの特別企画コースがあり、
私達グループは新島港の近くにある黒根港に徒歩で10分足らずに移動した。

平素は新島と式根島の定期航路と使用されている船で、
観光協会の特別のご好意により、私達は新島の南部を海上から眺める特例の航路に乗船できた。

私達は、定期船の展望席の椅子に座ったりしながら、
澄み切った快晴の中、蒼い海原の波間を眺め、潮の香りと匂いを感じ、そして海風を受けながら、
新島港に近い地内島を観たり、かっては陸続きであった式根島を眺め,
蒼い海原をまじかに見ながら、新島の南部の断崖を見つめたりした。

そして、新島の最南端を通り過ぎると、
低い断崖からそびえるように高い絶壁が幾重にも観え、
このすべてが真っ白に彩(いろど)られた断層が果てしないように続き、
私達のグループの数多くの人たちは、思わず歓声をあげながら見惚(みと)れていた・・。
観光協会の若き女性も、
『白ママの断層・・いつ観てもすごい・・』
と小声で呟(つぶや)いていた。

http://www.niijima.com/cgi-local/news/news.cgi?mode=event1

そして私達のグルーフの多くは、デジカメでこの美景を撮ったり、
或いは記念写真として、白ママ断層を背景に微笑みながら、
お互いに撮りあったりしていた。

船はゆったくと10分ぐらい白ママ断層を航路した後、
帰路に向かったが、私は、
『良かったねぇ・・船から眺めると・・蒼い海原を通して・・真っ白な断層が観られる・・
たとえ空から眺めても・・こうした美景は観られないょ・・』
と家内に云いながら、私は白ママ断層の美景を褒めたたえていた。

家内は、そうよねぇ、と云いながら、
遠ざかる白ママ断層を名残りおさそうに見つめていた。



                           《つづく》

次回は島内の海辺の散策を掲載を予定




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愛(いと)しき光と風、そして波打ち寄せる『新島』  ~第二章~

2009-05-12 19:51:35 | 
    第二章 新島の素朴な情景は

初日、観光協会の前で海鮮バーベキューの昼食を頂いた後、
『景勝地を巡るバス観光』と称せられた特別企画コースがあり、
新島村役場の所有のマイクロバスに乗車した。
私達グループ18名と東海汽船の添乗員、ドライバーは村役場の職員の若い男性がされ、
案内されるガイドは観光協会の若き女性であった。


http://www.kanko-kyokai-niijima.net/map/map.htm


丘陵の低い所に白い三角屋根が観えたのは、
『新島村博物館』であり、この島の形成された推移、
島内で人々の営みの暮らしなどが映像、模型を含めてわかりやすく展示されている。
そして、館外の近くに茅葺きの民家が復元されて折、
どなたでも理解できるかっての生活状況となっている。

天上の梁が太く、私は若きガイドさんに問い合わせれば、
平均的な民家を想定して復元した、と云うので、
私の住む調布市のかっての時代より、この地は裕福ですよ、
と私は微苦笑しながら云ったりした。


この後、山すその高台にある『富士見峠展望台』で下車したが、
周辺は霧につつまれて、遥か下界に島内で一番の人が多い本村の街並みたりしたが、
無念ながら、解説にあるように、
式根島はもとより、神津島、三宅島は霧の彼方につつまれ、
まして晴れた日には伊豆半島、富士山も一望できることもあると書かれていたが、
お互いに、無理よねぇ、と苦笑しながら乗車した。

そして、マイクロバスは山すその道路を下ったら、視界がひらけ晴れ渡っていた。
その後、島の北方を目指し、真新しい大きなトンネルに入った。
ガイドさんに寄れば、
平成12年に北方にある若郷の集落が大地震に遭い、多大な災害に遭われ、
従来の山すその道も分断されたので、このトンネルが新設された、とのこと。

トンネルを抜けると、『渡浮根展望台』があり、眼下には若郷の漁港や住居の街並みが観えたが、
この新島の全てでも2千人程であり、まして小さな集落の若郷は小さな街並みに感じられたのである。

私達の乗ったマイクロバスは、若郷前浜に行き、
護岸工事が完璧になされた所、そして黒い砂浜の広がる浜辺を散策した。
人影は私たちのグループしか見当たらず、私は少しため息をしながら、
波間を見たり、黒い砂浜を歩いたりし、少し寂しいんじゃないの、と心の中で呟(つぶや)いていた・・。


この後は、再びトンネルを通り、東の海岸に向かった。
白い砂浜が遥か彼方まで続くような海岸で、
『羽伏浦海岸』と大きく看板もあり、太平洋の海上から幾重にも大きな波間が観え、
若い男女の20名前後がサーフィンに挑んでいた・・。
私はサーフィンをしている人をまじかな前方200メートル先で初めて見たのであるが、
健気にも幾度も挑む姿には、若さの活力はもとより、好感しながらも私の心を元気づけてくれた。

そして、私達夫婦は白い砂浜を散策したりした。


民宿に戻り、夕食を頂いた後、
家内は『貝細工』の講習を受け、初めての試作品を作り、
部屋に帰り、私に見せて、お互いに微笑んだりした。

そして、近くの『まました温泉』に民宿の自動車で東海汽船の添乗員が送迎をして下さると云うので、
私は露天風呂から満天の星空が眺められるかしら、と淡い期待をしていたが、
平素のだらけた生活を過ごしているのが、天上の神々に知れたらしく、
かすかに星が観える程度であった。

私達は民宿に戻ると、ロビーの脇でビールを買い求め、
こじんまりとした六畳間で私は布団の上であぐらをかき、
少し疲れたねぇ、と家内に云ったりした・・。



                           《つづく》

次回は島内の主辺のクルーズなどを掲載を予定



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