夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我が故郷、亡き徳富蘆花氏に尋(たず)ねれば・・。 《7》

2009-05-30 18:36:59 | 我が故郷、徳富蘆花氏に尋ねれば・・。
徳富蘆花の【みみずのたはこと】に於いて、最初の『故人に』の第1章~第5章まで転載させて頂きながら、
私なりの思いも重ねて綴ったりしている。

この後の【みみずのたはこと】は、『都落ちの手帳から』と副題され、
『千歳村』ではじまる。

私が転記させて頂いている出典は、従来通り『青空文庫』によるが、
『青空文庫』の底本は岩波書店の岩波文庫の徳富蘆花・著の【みみずのたはこと】からである。

【・・
   都落ちの手帳から

     千歳村

       1

明治39年の11月中旬、彼等夫妻は住家(すみか)を探すべく東京から玉川(たまがわ)の方へ出かけた。


彼は其年の春千八百何年前に死んだ耶蘇(やそ)の旧跡と、
まだ生きて居たトルストイの村居(そんきょ)にぶらりと順礼に出かけて、
其8月にぶらりと帰って来た。

帰って何を為(す)るのか分からぬが、
兎(と)に角(かく)田舎住居をしようと思って帰って来た。
先輩の牧師に其事を話したら、玉川の附近に教会の伝道地がある、
往(い)ったら如何だと云う。
伝道師は御免を蒙る、生活に行くのです、と云ったものゝ、
玉川と云うに心動いて、兎に角見に行きましょうと答えた。
そうか、では何日(なんにち)に案内者をよこそう、と牧師は云うた。


約束の日になった。案内者は影も見せぬ。
無論牧師からはがき一枚も来ぬ。彼は舌鼓(したつづみ)をうって、
案内者なしに妻と二人(ふたり)西を指して迦南(カナン)の地を探がす可く出かけた。

牧師は玉川の近くで千歳村(ちとせむら)だと大束(おおたば)に教えてくれた。
彼等も玉川の近辺で千歳村なら直ぐ分かるだろうと大束にきめ込(こ)んで、
例の如くぶらりと出かけた。

       2

「家を有つなら草葺(くさぶき)の家、
而して一反でも可(いい)、己が自由になる土を有ちたい」

彼は久しく、斯様な事を思うて居た。

東京は火災予防として絶対的草葺を禁じてしまった。
草葺に住むと云うは、取りも直さず田舎に住む訳(わけ)である。
最近5年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家も、
東京では田舎近い家で、草花位つくる余地はあった。
然し借家借地は気が置ける。

彼も郷里の九州には父から譲られた少しばかりの田畑を有って居たが、
其土は銭に化けて追々(おいおい)消えてしまい、
日露戦争終る頃は、最早一撮(ひとつまみ)の土も彼の手には残って居なかった。
そこで草葺の家と1反の土とは、新に之を求めねばならぬのであった。


彼が2歳から中2年を除いて18の春まで育った家は、
即ち草葺の家であった。
明治の初年薩摩境に近い肥後(ひご)の南端の漁村から熊本の郊外に越した時、
父が求めた古家で、あとでは瓦葺(かわらぶき)の一棟が建増されたが、
母屋(おもや)は久しく茅葺であった。

其茅葺をつたう春雨の雫(しずく)の様に、
昔のなつかし味が彼の頭脳に滲(し)みて居たのである。
彼の家は加藤家の浪人の血をひいた軽い士の末(すえ)で、
代々田舎の惣庄屋をして居て、農には元来縁浅からぬ家である。

彼も十四五の頃には、僕に連れられ小作米取立の検分に出かけ、
小作の家で飯を強いられたり無理に濁酒の盃をさゝれたりして困った事もあった。

彼の父は地方官吏をやめて後、県会議員や郷先生(ごうせんせい)をする傍、
殖産興業の率先をすると謂って、女(むすめ)を製糸場の模範工女にしたり、
自家(じか)でも養蚕(ようさん)製糸(せいし)をやったり、
桑苗販売(そうびょうはんばい)などをやって、いつも損ばかりして居た。

桑苗発送季の忙しくて人手が足りぬ時は、
彼の兄なぞもマカウレーの英国史を抛(ほう)り出して、
柄(え)の短い肥後鍬を不器用な手に握ったものだ。
弟の彼も鎌を持たされたり、苗を運ばされたりしたが、
吾儘で気薄な彼は直ぐ嫌(いや)になり、疳癪(かんしゃく)を起してやめてしまうが例であった。


父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、
出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ、神樹などの苗を仕入れて帰り、
其他種々の水瓜、甘蔗(さとうきび)など標本的に試作(しさく)した。

好事となると実行せずに居れぬ性分で、
ある時菓樹(かじゅ)は幹に疵つけ徒長を防ぐと結果に効(こう)があると云う事を何かの雑誌で読んで、
屋敷中の梨の若木(わかき)の膚を一本残らず小刀で
メチャ/\に縦疵(たてきず)をつけて歩いたこともあった。

子の彼は父にも兄にも肖ぬなまけ者で、
実学実業が大の嫌いで、父が丹精して置いた畑を荒らして廻(まわ)り、
甘蔗と間違えて西洋箒黍(ほうききび)を噛(か)んで吐き出したり、
未熟の水瓜を窃(そっ)と拳固で打破って川に投げ込んで素知(そし)らぬ顔して居たり、
悪戯(いたずら)ばかりして居た。

十六七の際には、学業不勉強の罰とあって一切書籍を取上げられ、
爾後養蚕専門たるべしとの宣告の下に、近所の養蚕家に入門せしめられた。
其家には14になる娘があったので、当座は真面目に養蚕稽古(げいこ)もしたが、
1年足らずで嫌になってズル/\にやめて了うた。
但右の養蚕家入門中、
桑を切るとて大きな桑切庖丁を左の掌(てのひら)の拇指(おやゆび)の根にざっくり切り込んだ其疵痕(きずあと)は、
彼が養蚕家としての試みの記念として今も三日月形に残って居る。


斯様な記憶から、趣味としての田園生活は、久しく彼を引きつけて居たのであった。

       3

青山高樹町の家をぶらりと出た彼等夫婦は、
まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。
唯有(とあ)る饂飩屋(うどんや)に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。

松陰神社で旧知(きゅうち)の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿(しゅく)のはずれまで歩き、
交番に聞いて、地蔵尊(じぞうそん)の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。
余程往って最早(もう)千歳村(ちとせむら)であろ、
まだかまだかとしば/\会う人毎に聞いたが、中々村へは来なかった。

妻は靴に足をくわれて歩行に難(なや)む。
農家に入って草履を求めたが、無いと云う。
漸(ようや)く小さな流れに出た。
流れに沿(そ)うて、腰硝子の障子など立てた瀟洒(しょうしゃ)とした草葺(くさぶき)の小家がある。
ドウダンが美しく紅葉して居る。
此処(ここ)は最早千歳村で、彼風流な草葺は村役場の書記をして居る人の家であった。
彼様な家を、と彼等は思った。


会堂(かいどう)がありますか、耶蘇教信者がありますか、とある家(うち)に寄ってきいたら、
洗濯して居たかみさんが隣のかみさんと顔見合わして、
「粕谷だね」と云った。

粕谷さんの宅は何方(どちら)と云うたら、
かみさんはふッと噴(ふ)き出して、
「粕谷た人の名でねェだよ、粕谷って処だよ」
と笑って、粕谷の石山と云う人が耶蘇教信者だと教えてくれた。


尋ね/\て到頭会堂に来た。
其は玉川の近くでも何でもなく、見晴(みはら)しも何も無い
桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。

病人か狂人かと思われる様な蒼い顔をした眼のぎょろりとした50余の婦(おんな)が、
案内を請う彼の声に出て来た。
会堂を借りて住んで居る人なので、一切の世話をする石山氏の宅は直ぐ奥だと云う。
彼等は導かれて石山氏の広庭に立った。

トタン葺(ぶき)の横長い家で、一方には瓦葺の土蔵(どぞう)など見えた。
暫(しばら)くすると、草鞋ばきの人が出て来た。
私が石山(いしやま)八百蔵(やおぞう)と名のる。
年の頃50余、頭の毛は大分禿(は)げかゝり、猩々(しょうじょう)の様な顔をして居る。
あとで知ったが、石山氏は村の博識(ものしり)口利(くちきき)で、今も村会議員をして居るが、
政争の劇(はげ)しい三多摩の地だけに、昔は自由党員で壮士を連れて奔走し、
白刃の間を潜(くぐ)って来た男であった。

推参(すいさん)の客は自ら名のり、
牧師の紹介で会堂を見せてもらいに来たと云うた。
石山氏は心を得ぬと云う顔をして、牧師から何の手紙も来ては居ぬ、
福富儀一郎と云う人は新聞などで承知をして居る、
また隣村の信者で角田勘五郎と云う者の姉が福富さんの家に奉公して居たこともあるが、
尊名は初めてだと、飛白(かすり)の筒袖羽織、禿(ち)びた薩摩下駄(さつまげた)、鬚髯(ひげ)もじゃ/\の彼が
風采(ふうさい)と、煤竹(すすたけ)色の被布を着て痛そうに靴を穿(は)いて居る白粉気も何もない女の容子(ようす)を、
胡散(うさん)くさそうにじろじろ見て居た。

然し田舎住居がしたいと云う彼の述懐を聞いて、
やゝ小首を傾(かし)げてのち、それは会堂も無牧で居るから、都合によっては来てお貰(もら)い申して、
月々何程かずつ世話をして上げぬことはない、と云う鷹揚(おうよう)な態度を石山氏はとった。

兎に角会堂を見せてもろうた。
天井の低い鮓詰(すしづめ)にしても百人がせい/″\位の見すぼらしい会堂で、
裏に小さな部屋(へや)があった。

もと耶蘇教の一時繁昌した時、
村を西へ距(さ)る1里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、
其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、
石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来たが、
近来久しく無牧で、今は小学教員母子が借りて住んで居ると云うことであった。


会堂を見て、渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。


晩秋の日は甲州の山に傾き、膚寒い武蔵野の夕風がさ/\尾花を揺(ゆ)する野路を、
夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。
何処(どこ)やらで夕鴉(ゆうがらす)が唖々と鳴き出した。
我儕(われら)の行末は如何なるのであろう? 何処に落つく我儕の運命であろう? 
斯く思いつゝ、二人は黙って歩いた。


甲州街道に出た。あると云う馬車も来なかった。
唯有(とあ)る店で、妻は草履(ぞうり)を買うて、靴をぬぎ、
3里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい新宿へ来た。

・・】


氏は5年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家であったが、
かって熊本の郊外で、2歳から中2年を除いて18歳の春まで育った家は、
草葺の家であり、母屋は茅葺となっていた。
そして、家の周囲には桑畑の広がっていた。

こうした思いが茅葺につたう春雨の雫(しずく)の様に、
氏はなつかしい思いが根底にあり
田舎で草葺(くさぶき)の家に住み、畑の一反でも、己が自由になる土を有ちたい、
と思いが重なっていた。

先輩の牧師にこのような思いを伝えたら、
玉川の附近に教会の伝道地がある、と進められたが、
伝道師にはなるつもりはないが、田舎生活をしたいので、
下見に行く、と返答した。

牧師は案内者をよこす約束をしてくれたが、
当日に肝要の案内者は影も見せず、牧師からの連絡もなく、
やむえず妻を伴い、玉川の近くで千歳村だと教えてくれたのを頼りに、
都心の『青山高樹町』から歩き出した・・。

そして、まだ工事中の玉川電鉄の線路を『三軒茶屋』まで歩き、
昼食代わりに饂飩屋(うどんや)で、饂飩を食べた。

その後、『松陰神社』で旧知の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿のはずれまで歩き、
交番に聞いたりしながら、、地蔵尊の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。

そして千歳村をめざしたが、会う人々に尋ねながら歩くが、村には到着は出来なく、
この間に妻は靴に足をくわれて歩行の妨げとなったりしたので、
農家に入って草履を求めたが、無いと云われたりした。

この後、小さな流れに出て、流れに沿っていたら、
腰硝子の障子など立てた瀟洒(しょうしゃ)とした草葺の小家があり、
ドウダンが美しく紅葉した。

この後、ある家に立ち寄り、洗濯して居たかみさんたちに、
『会堂(かいどう)がありますか、耶蘇教信者がありますか』
と訊ねた後、
やっとの思いで、会堂に到着したのである。

この地は玉川の近くでも何でもなく、見晴しも何も無い
桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。


この後は、村の博識(ものしり)口利(くちきき)で、今も村会議員をして石山氏の宅に寄った後、
会堂を案内してもらったりし、
渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。

そして、晩秋の日は甲州の山に傾き、膚寒い武蔵野の夕風が吹き、
尾花を揺(ゆ)する野路を、夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。

この後、甲州街道に出たが、あるといわれ頼りにした馬車も来なく、
ある店で、妻は草履(ぞうり)を買うて、靴をぬぎ、
3里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい『新宿』に着いたのである。


こうしたのが概要であるが、
この当時に於いて、案内人もなく、詳細の地図もなく、交通便が乏しい中、
徳富蘆花夫婦は、未知の千歳村粕谷にある会堂をめざして歩いたのである。
そして帰路も、夕暮れの肌寒い中、甲州街道を12キロばかりを歩き、
都心の新宿に着いたのである。

私は読みながらも、原宿、青山高樹町に住んでいた徳富蘆花夫婦が、
田舎生活を目指すために、千歳村の粕谷の情景はどうような思いで感じられたか、
私は昭和20年代の神代村の情景を思い出すと、少しは重なると思いながらも、
胸が熱くなったのは確かなことである。


尚、私が無知であったのは、
【・・
耶蘇教の一時繁昌した時、
村を西へ距(さ)る1里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、
其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、
石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来た
・・】
と氏は綴られているが、
あの当時、私の実家の神代村の隣接した調布町に於いて、
耶蘇教が繁昌した時に会堂まであったことは、
少し驚きながら、特に教示されたのである。


                          《つづく》
                         


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ここ一週間は、我が故郷に、ものぐるいとなり・・♪   

2009-05-30 10:24:22 | 定年後の思い
私は過日の24日(日曜日)から、このサイトに於いて、
【 我が故郷、先人に尋(たず)ねれば・・。 】と題して、6編ばかり連載して投稿している。

まだ連載の半ばであるが、私の現在と幼年期をゆきかいしながら、
明治後期と大正時代の頃を作家・徳富蘆花氏の随筆に導かれて、
深く思いを馳せ、日中はもとより夢の中でも徳富蘆花氏と会話することもあり、
無我夢中になっている。


こうした心情は、『我が故郷、先人に尋(たず)ねれば・・。』の第一回で、
【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昭和19年9月に今住んでいる近くの実家で、
農家の三男坊として生を受けた。

私はこのサイトに於いては、私の幼年期から昨今まで、数多く綴ったりしているが
ここ数年、私の生まれる以前の昭和時代はもとより、
大正、明治時代の我が故郷の実態である情景、生活など知りたくなったりしている・・。


父は昭和28年に病死され、そして祖父も後を追うように昭和29年に死去し、
私としては小学生であったので、
この頃の情景はある程度は鮮明に残っている。

母は無念ながら10年前に他界したが、
私は敗戦前の昭和時代の頃の我が家の出来事はもとより、
周辺の移ろう情景なども聞いたり、教えられたりした。

この間も、親戚の叔父、叔母、近所の小父、小母さんなどに訊(たず)ねたり、
教示されたりしてきた。

そして、図書館などに行き、『郷土史』などを読んだりしてきたが、
つたない私は、この時代を鮮明に整理を出来なかったのである。


こうした思いでいると、私は数キロ近くに『蘆花公園』があることにに気づき、
思わず微笑んだのである。

http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index007.html

正式名所は『蘆花恒春園』であるが、このサイトの公園概要に明記されている通り、

【・・
「不如帰」「自然と人生」「みみずのたはこと」などの名作で知られる明治・大正期の文豪、徳富蘆花(健次郎)と愛子夫人が、
後半生を過ごした住まいと庭、それに蘆花夫妻の墓地を中心とした旧邸地部分と
その周辺を買収してつくられました。

蘆花は明治40年2月まで、東京の青山高樹町に借家住まいをしていましたが、
土に親しむ生活を営むため、当時まだ草深かった千歳村粕谷の地に土地と家屋を求め、「恒春園」と称し、
昭和2年9月18日に逝去するまでの約20年間、晴耕雨読の生活を送りました。
・・】
と解説される。

そして作家の徳冨蘆花氏は数多くの随筆を遺されているが、
千歳村の粕谷(現在:世田谷区粕谷)の地に約20年間生活されていたので、
遅ればせながら、何かこの地域に関する随筆はと探した結果、
『みみずのたはこと』の作品を知ったのである。

・・】

この『みみずのたはこと』に誘発されて、精読し、
私の幼年期の昭和20年代と徳富蘆花氏の明治後期、大正時代を交差しながら、
この一週間を過ごしている。


こうした私の悪い癖は、このサイトでも、2007年8月25日に於いて、
【 ときには、ものぐるいとなり・・♪ 】と題して、
投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は定年退職後の3年生の身であり、趣味の本を読んだり、映画を観たり、
そして音楽を聴いたりしているのが多い。

本に関しては、小説、随筆、歴史書、現代史が圧倒的に多く5000冊程度、
映画の場合はVCT、DVDを専用棚に於いて1000本前後をときおり選択し、居間で観ている。
音楽についてはレコード、カセット、CD、DVDがやはり専用棚として3000枚ぐらい保管して折、
CDラジカセで聴いたりしていることが多い。

友人などに上げたりしてきたが、若き青年時代に映画青年、文学青年の真似事をした折、
倹約したり、一食を抜いて購入した本、レコード、そして映画を観たりしたので、
中々捨てきれないのである。

古ぼけた一軒屋でこのような中でつつまれていると、
誰しも同じような体験があると思われるが、
私は熱病のように無我夢中となったりする時があった。

一時的な3ケ月前後で終わることが多いが、
少なくとも1年以上続いたのを振り返った時、
私なりに微苦笑しているのである。

音楽の場合は、昭和46年にシャンソンの【バルバラ】、その後は【金子由香里】を盛んに聴いていた。
この頃はレコードであったので、擦り切れる程度の百回以上聴き惚れていた・・。

平成元年の頃には、【中島みゆき】を偶然に聴き、
平成9年の頃に【X JAPAN】をテレビで観て、
惚れ込んでしまった。

映画の場合は、脚本家として【橋本 忍】で東京オリンピックの頃であり、
映画監督の場合だと【デビット・リーン】、【セルジオ・レオーネ】に夢中になったりしていた。

本の場合は、小説分野は【立原正秋】には二十歳の頃、
随筆の場合は【山口 瞳】、紀行文は【宮脇俊三】を平成の初めの頃に知り始めた。

テレビの脚本は圧倒的に【倉本 聰】が多く、随筆も数多く精読している。

昨今は、【藤原正彦】、【塩野七生】の本が増えてきている。


私は単細胞の為か、ともかく惚れこんだら命がけの恋と同様に、
時を忘れ、寝る間をほしんで物狂いになるのである。

いずれにしても私のつたない感性で、
偶然に目に留まったり、聴いたりした人々の方達である。
そして、私なりの人生の心の宝物と思ったりしている。

尚、このように綴ると、私自身の思想、信条、そして日常の心情が解かるので、
発露をするのは少し危険かしら、と微苦笑しているのである。

・・】

恥ずかしながら、齢を重ねても私の悪い癖は、
ときたま活火山のようになるので苦笑する。

尚、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と名言にあるので、私は困ったなぁ、と思ったりすることがある。




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