私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨夜、60年前に亡くなった祖父の夢を見て、
どうして祖父が夢の中で、お逢いできたのかしら、と微苦笑したりした。
夢の中では、祖父から買い物を命じられて、生まれて初めての近所の雑貨屋に行く状況であり、
どうして今頃・・ぼんやりと思い重ねたりした。
やがて思い当るとすれば、過ぎし6日の数多くの方が『仕事始めの日』、
私は平素の買物専任者であり、スーパーに行ったりした。
そして精算のレジの場所で並んでいると、前にいる6歳前後の男の子が不安そうに、
買い求めた品を差しだして、財布からお金を出していた状景を見てしまったのである。
帰宅後、私は家内に、この男の子の買い物精算時のことを話したりした・・。
こうした余情が私の心の片隅に残っていたのか、60数年前の私の幼年期、初めて買物を
思い馳せられてしてしまった・・。
☆今回、掲載した写真は、私が小学校に通学した道で、かすかな原景に残っている所を
昨年の11月初旬に撮ったりしたが、もとより60年前は遥かに素朴で、整備されてなく細道であった☆
私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、
雑木林、竹林などがある旧家であった。
長兄、次兄に続いて私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。
しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
私が地元の小学校に入学したのは、1951年(昭和26年)の春であり、
それ以前は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。
託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。
幻燈機は若い方には不明と思われるが、
現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。
私も生家に於いても、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。
総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。
こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。
私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であるが、
この当時は駅の周辺は商店街があったが、駅までは15分の道のりであるので、
生家の周辺には、この店しかなかったのである。
私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
夕暮れの少し暗くなった人気のない村道をトボトボ歩き、この店に行った。
そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と云ったりした。
店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡を満たし、その後は一升瓶に移したりした。
この当時は、冠婚葬祭で一升瓶を贈答したり、年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、
平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。
この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。
『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。
そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。
そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。
後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたりした・・。
昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋から頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。
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昨夜、60年前に亡くなった祖父の夢を見て、
どうして祖父が夢の中で、お逢いできたのかしら、と微苦笑したりした。
夢の中では、祖父から買い物を命じられて、生まれて初めての近所の雑貨屋に行く状況であり、
どうして今頃・・ぼんやりと思い重ねたりした。
やがて思い当るとすれば、過ぎし6日の数多くの方が『仕事始めの日』、
私は平素の買物専任者であり、スーパーに行ったりした。
そして精算のレジの場所で並んでいると、前にいる6歳前後の男の子が不安そうに、
買い求めた品を差しだして、財布からお金を出していた状景を見てしまったのである。
帰宅後、私は家内に、この男の子の買い物精算時のことを話したりした・・。
こうした余情が私の心の片隅に残っていたのか、60数年前の私の幼年期、初めて買物を
思い馳せられてしてしまった・・。
☆今回、掲載した写真は、私が小学校に通学した道で、かすかな原景に残っている所を
昨年の11月初旬に撮ったりしたが、もとより60年前は遥かに素朴で、整備されてなく細道であった☆
私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、
雑木林、竹林などがある旧家であった。
長兄、次兄に続いて私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、
幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、
私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。
しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
私が地元の小学校に入学したのは、1951年(昭和26年)の春であり、
それ以前は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。
託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。
幻燈機は若い方には不明と思われるが、
現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。
私も生家に於いても、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。
総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。
こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。
私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であるが、
この当時は駅の周辺は商店街があったが、駅までは15分の道のりであるので、
生家の周辺には、この店しかなかったのである。
私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
夕暮れの少し暗くなった人気のない村道をトボトボ歩き、この店に行った。
そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と云ったりした。
店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡を満たし、その後は一升瓶に移したりした。
この当時は、冠婚葬祭で一升瓶を贈答したり、年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、
平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの時代であった。
この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。
『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に云いながら、重くなった一升瓶を受け取った。
そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。
そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。
後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたりした・・。
昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋から頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。
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今日は、エクセルソフトの自動読み込みがやっと解決しました。
内容は、お恥ずかしいのでご勘弁ください。
私は家内と共に、13日の早朝から昨夜の夜遅くまで、
函館に滞在した旅行をしていましたので、ご返事遅れてお詫びします。
>懐かしいです。
>もう小学校低学年の頃か記憶定かでないけど、近所の店に、ウスターソースの量り売りを空き瓶もって買いにいきました。
ときおり私は幼年期の頃の夢を見たりする時もありまして、
祖父、父が健在の頃の農家の児としての夢を見たり、
その後に祖父、父に病死されて、貧乏な時期を過ごした体験もあり、
夢からさめた後は、複雑な思いで微苦笑したりしています。
日本は1955〈昭和30〉年の頃まで、敗戦後の食べ物、衣服、住居、そして家電商品など・・
今から振り返りますと、決して豊かでなかったのですが、
多くの方が一生懸命に働ければ、明日に希望が持てた時代でしたので、
ある面、多くの方が享受できた稀な時代であった、と思い馳せたりしています。