私は民間会社の中小業に35年近く勤めて定年退職し、年金生活を過ごしている身であるが、
昨夜の深夜、偶然にある公式サイトのひとつの記事を読み、思わず引き込まれ、
読み終わった後、涙を浮かべていた・・。
《・・大手システム会社に勤めるシステムエンジニアのEさんは、
リストラされずに生き残った「勝ち組」。
しかし不況期に会社を去った仲間も再就職ができずに地獄を見ているが、
残ったほうにもつらい日々が待っていた。
大手企業は仕事量が減ったためのリストラは、過去に何度も行っていて、
すでに適正以下の人数で仕事を回している状態。
そこから一段のリストラを行ったのだから、仕事量は格段に増えた。
会社は現場の状況を無視して「効率よく仕事をするように」と言うばかり。
もちろん残業代はカットされて収入は横ばい状態。
精神的にも肉体的にも耐えられないところに来ている。
Eさんは膨大な仕事量の処理に追われて、いつ心が折れてもおかしくない状態に追い込まれている。
それは妻も同じ。
収入は横ばいなのに教育費などの出費は増える一方で、家計簿は理想とはほど遠い。
とはいえ世間的に見れば高い1000万円の年収があるのだから
「家計管理すらできないダメな妻」と自分を責め、落ち込んでいる。
ただEさん夫婦は、多感な時期を迎えた子どもが私立中学に入学したばかりなので、
転校だけは避けたいということで思いが一致している。
しかし残念ながらEさんに選択肢はほとんどない。
年収ダウンを覚悟して会社に地方転勤を願い出るか転職するかだ。
現在の年収を維持しようとすると忙しさも変わらないので、家計を見直すことで減収分を乗り切るしかない。
(略)
Eさん世代は自分の父親がモーレツ社員だったはず。
ほとんど家に帰ってこなかったけれど、働きに応じて収入が増える時代だったので、
家を買い、車を買い、家電製品を充実させるという「夢」を実現させることができた。
Eさん夫婦はそれが「普通」だと思い込んでいて、
自分たちもゼロからスタートしてモノを充実させるという夢を実現できなければ、
負け犬になると思い込んでいる。
もう時代が違うと認識して、モノの豊かさではなく、
家族の絆のような精神的な豊かさを追求する生活に切り替えるべきだろう。
(略)
・・》
このような概要で、この間に《・・そこで転勤や転職で、
収入が30%減の年収700万円になっても耐えられる家計を考えよう・・》
という内容で具体的な家計内の対応策が提言されていた記事であった。
この私が偶然に読んだ記事は、
http://www.sankeibiz.jp/econome/news/120623/ecd1206231126002-n1.htm
☆【Sankei Biz】<==【暮らし】<==【家計の病気119番】年収1000万円世帯 ☆
そして情報誌と名高い【PRESIDENT Online】で掲載された記事でもある。
たまたま私は中小業が多い音楽業界のあるレコード会社に35年ばかり勤め、
この間の1971(昭和46)年1月から1992〈平成4〉年9月まで、
22年近く情報畑のシステムに携わり、悪戦苦闘が多い体験をしたりしてきた。
こうした関連で、幾たびのシステム開発などの時、準大手システム会社のSE(システムエンジニア)と
業務上で交流をしたりしてきたので、
今回の記事を昨今のシステム会社の社員の過酷な実態も学びながら、最後まで読まされてしまったのであった。
私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋に、
大学を中退して映画青年の真似事をした後、文學青年の真似事をしたが、
やがて敗退し、あえなく挫折した。
やむなく何とか大企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に入学したのは1969(昭和44)年の24歳の時であった。
たった一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、
知人のご尽力もあり、この当時ある大手の音響・映像の会社に何とか中途入社できた。
そして音楽事業本部の管理畑である商品管理の現場を勤めて、
まもなくこの中のひとつのレーベルが外資系のレコード会社として新設され、
私も転籍の辞令を受けた。
翌年の1月中旬に本社のコンピュータ専任者の辞令を受け、私なりに奮闘がはじまった・・。
システムの運用、開発に関しては、既に音楽事業本部の情報関係者で完成していたので、
枝分かれのように部分独立させて、私は企業システムの運用に未知、不慣れもあり、
この情報関係者の先に出向き、教示して頂き学んだりした。
このような関係で長らくの音楽事業本部の本社の要員と業務上で、交流を重ねたりした。
この当時はある有数なデーターセンターに処理委託をしていたので、
私たちは幾たびのシステム開発、部分開発の時は、もとより多忙であったが、
その後は安定していれば、運営業務だけとなり安楽な日々もあったりした。
そして私が40歳の少し前の頃になると、
私の勤めていた会社の業績が悪化して、コンピュータの自社導入で経費削減を図れ、
と首脳部のひと言で、奮闘した・・。
そして、システムの開発に際して、骨幹は準大手システム会社と打ち合わせを重ねたり、
枝分かれの部分のプログラムを私も作成したり、
オペレーションまでしたり、もとより睡眠時間を削りながら奮戦した。
こうした開発時は日曜日だけは休んだりしたが、幾たびか徹夜の日をしたり、
明け方のひととき、床にダンボールを敷き、30分ぐらい少しまどろんだりして、
洗面所に行き顔を洗い、そして日中も奮闘して、何とか翌年に軌道に乗せたりした。
その後、幾たびか部分改定をすると、もとより開発期限もあり、多忙であった。
こうした間に、レコード業界の団体基幹であるレコード協会が、
情報システム部会が新設されて、各社のシステム責任者が集い、
共通のシステムを協議するすることになり、私も出席したりした。
こうした情報システム部会で、他社のシステム状況を少しばかり学んだりした。
レコード会社の中では、親会社が家電メーカー関連などもあり、
レコード売上の上位グループの会社は、
システム総合管理でも、専任者、コンピュータと関連の設置、外部に委託範囲でも、
私が溜息するほど多く恵まれていたのである。
そして、大手メーカーは余裕があっていいよなぁ、
と心の中で呟(つぶや)きながら、その後も幾たびかシステム改定をしたりしていた。
こうした何かと悪戦苦闘している中、1992〈平成4〉年9月、
経理のレコード販売店の請求・回収業務の債権管理の責任者が退社され、
私はこの部署に異動されられ、長年の情報畑から別れを告げた。
その後、外資の親会社の要請で、国内のあるレコード会社と合併して、
私も移籍させられた。
1970、80年代は音楽業界は、それぞれのレコード会社は躍進したが、
90年代を迎えると、特に外資系は、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。
そして1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年から
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、
私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。
私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。
この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたのである。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
このような私の拙(つたな)い現役サラリーマンの軌跡があるので、
今回の主人公の心情は痛いほど解り、涙を浮かべたのである。
昨今は政治は混迷を増し、経済も低迷、そして社会も劣化する中、
一流企業でもここ10数年に幾たびかリストラ烈風となり、
国家公務員、そして地方公務員でも安住な職場でもなくなってきている。
こうしたニュースを知るたびに、
私たちも過酷な障害レースで奮戦し、ゆるやかに収入の向上となり、確かな明日に希望がもている時代でもあった。
果たして現役のサラリーマン諸兄は、益々短期に成果を要求される時代、
踏みとどまって高収入を得て、過酷な業務も大変、まして退社して再就職も熾烈・・
このようなことを深夜の2時過ぎまで、無力となった私は考えさせられたのである。
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昨夜の深夜、偶然にある公式サイトのひとつの記事を読み、思わず引き込まれ、
読み終わった後、涙を浮かべていた・・。
《・・大手システム会社に勤めるシステムエンジニアのEさんは、
リストラされずに生き残った「勝ち組」。
しかし不況期に会社を去った仲間も再就職ができずに地獄を見ているが、
残ったほうにもつらい日々が待っていた。
大手企業は仕事量が減ったためのリストラは、過去に何度も行っていて、
すでに適正以下の人数で仕事を回している状態。
そこから一段のリストラを行ったのだから、仕事量は格段に増えた。
会社は現場の状況を無視して「効率よく仕事をするように」と言うばかり。
もちろん残業代はカットされて収入は横ばい状態。
精神的にも肉体的にも耐えられないところに来ている。
Eさんは膨大な仕事量の処理に追われて、いつ心が折れてもおかしくない状態に追い込まれている。
それは妻も同じ。
収入は横ばいなのに教育費などの出費は増える一方で、家計簿は理想とはほど遠い。
とはいえ世間的に見れば高い1000万円の年収があるのだから
「家計管理すらできないダメな妻」と自分を責め、落ち込んでいる。
ただEさん夫婦は、多感な時期を迎えた子どもが私立中学に入学したばかりなので、
転校だけは避けたいということで思いが一致している。
しかし残念ながらEさんに選択肢はほとんどない。
年収ダウンを覚悟して会社に地方転勤を願い出るか転職するかだ。
現在の年収を維持しようとすると忙しさも変わらないので、家計を見直すことで減収分を乗り切るしかない。
(略)
Eさん世代は自分の父親がモーレツ社員だったはず。
ほとんど家に帰ってこなかったけれど、働きに応じて収入が増える時代だったので、
家を買い、車を買い、家電製品を充実させるという「夢」を実現させることができた。
Eさん夫婦はそれが「普通」だと思い込んでいて、
自分たちもゼロからスタートしてモノを充実させるという夢を実現できなければ、
負け犬になると思い込んでいる。
もう時代が違うと認識して、モノの豊かさではなく、
家族の絆のような精神的な豊かさを追求する生活に切り替えるべきだろう。
(略)
・・》
このような概要で、この間に《・・そこで転勤や転職で、
収入が30%減の年収700万円になっても耐えられる家計を考えよう・・》
という内容で具体的な家計内の対応策が提言されていた記事であった。
この私が偶然に読んだ記事は、
http://www.sankeibiz.jp/econome/news/120623/ecd1206231126002-n1.htm
☆【Sankei Biz】<==【暮らし】<==【家計の病気119番】年収1000万円世帯 ☆
そして情報誌と名高い【PRESIDENT Online】で掲載された記事でもある。
たまたま私は中小業が多い音楽業界のあるレコード会社に35年ばかり勤め、
この間の1971(昭和46)年1月から1992〈平成4〉年9月まで、
22年近く情報畑のシステムに携わり、悪戦苦闘が多い体験をしたりしてきた。
こうした関連で、幾たびのシステム開発などの時、準大手システム会社のSE(システムエンジニア)と
業務上で交流をしたりしてきたので、
今回の記事を昨今のシステム会社の社員の過酷な実態も学びながら、最後まで読まされてしまったのであった。
私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋に、
大学を中退して映画青年の真似事をした後、文學青年の真似事をしたが、
やがて敗退し、あえなく挫折した。
やむなく何とか大企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に入学したのは1969(昭和44)年の24歳の時であった。
たった一年ばかりソフトコースの学科を専攻して学び、
知人のご尽力もあり、この当時ある大手の音響・映像の会社に何とか中途入社できた。
そして音楽事業本部の管理畑である商品管理の現場を勤めて、
まもなくこの中のひとつのレーベルが外資系のレコード会社として新設され、
私も転籍の辞令を受けた。
翌年の1月中旬に本社のコンピュータ専任者の辞令を受け、私なりに奮闘がはじまった・・。
システムの運用、開発に関しては、既に音楽事業本部の情報関係者で完成していたので、
枝分かれのように部分独立させて、私は企業システムの運用に未知、不慣れもあり、
この情報関係者の先に出向き、教示して頂き学んだりした。
このような関係で長らくの音楽事業本部の本社の要員と業務上で、交流を重ねたりした。
この当時はある有数なデーターセンターに処理委託をしていたので、
私たちは幾たびのシステム開発、部分開発の時は、もとより多忙であったが、
その後は安定していれば、運営業務だけとなり安楽な日々もあったりした。
そして私が40歳の少し前の頃になると、
私の勤めていた会社の業績が悪化して、コンピュータの自社導入で経費削減を図れ、
と首脳部のひと言で、奮闘した・・。
そして、システムの開発に際して、骨幹は準大手システム会社と打ち合わせを重ねたり、
枝分かれの部分のプログラムを私も作成したり、
オペレーションまでしたり、もとより睡眠時間を削りながら奮戦した。
こうした開発時は日曜日だけは休んだりしたが、幾たびか徹夜の日をしたり、
明け方のひととき、床にダンボールを敷き、30分ぐらい少しまどろんだりして、
洗面所に行き顔を洗い、そして日中も奮闘して、何とか翌年に軌道に乗せたりした。
その後、幾たびか部分改定をすると、もとより開発期限もあり、多忙であった。
こうした間に、レコード業界の団体基幹であるレコード協会が、
情報システム部会が新設されて、各社のシステム責任者が集い、
共通のシステムを協議するすることになり、私も出席したりした。
こうした情報システム部会で、他社のシステム状況を少しばかり学んだりした。
レコード会社の中では、親会社が家電メーカー関連などもあり、
レコード売上の上位グループの会社は、
システム総合管理でも、専任者、コンピュータと関連の設置、外部に委託範囲でも、
私が溜息するほど多く恵まれていたのである。
そして、大手メーカーは余裕があっていいよなぁ、
と心の中で呟(つぶや)きながら、その後も幾たびかシステム改定をしたりしていた。
こうした何かと悪戦苦闘している中、1992〈平成4〉年9月、
経理のレコード販売店の請求・回収業務の債権管理の責任者が退社され、
私はこの部署に異動されられ、長年の情報畑から別れを告げた。
その後、外資の親会社の要請で、国内のあるレコード会社と合併して、
私も移籍させられた。
1970、80年代は音楽業界は、それぞれのレコード会社は躍進したが、
90年代を迎えると、特に外資系は、本国の要請で利益の追求が厳しくなり、
各会社は総合見直しとなり、会社間の統廃合もあり、人員削減も行われはじめた。
そして1998年に売上の主軸となるCDがピークとなり、この少し前の年から
私の勤めた会社も同様に、早期退職優遇制度の下で、上司、同僚、後輩の一部が業界から去ったりし、
人事異動も盛んに行われたりし、
私も50代のなかば、取引先の物流会社に出向を命じられ、
この中のひとつの物流センターに勤務した。
私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。
この間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に定年退職を迎えたのである。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
このような私の拙(つたな)い現役サラリーマンの軌跡があるので、
今回の主人公の心情は痛いほど解り、涙を浮かべたのである。
昨今は政治は混迷を増し、経済も低迷、そして社会も劣化する中、
一流企業でもここ10数年に幾たびかリストラ烈風となり、
国家公務員、そして地方公務員でも安住な職場でもなくなってきている。
こうしたニュースを知るたびに、
私たちも過酷な障害レースで奮戦し、ゆるやかに収入の向上となり、確かな明日に希望がもている時代でもあった。
果たして現役のサラリーマン諸兄は、益々短期に成果を要求される時代、
踏みとどまって高収入を得て、過酷な業務も大変、まして退社して再就職も熾烈・・
このようなことを深夜の2時過ぎまで、無力となった私は考えさせられたのである。
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