前 章
昨夜、NHKの衛星第二で放映された市川 崑・監督の映画『東京オリンピック』を観た。
放映されるまでの時間で、私は視聴するか、どうかを躊躇し、
ためらいながら視聴したが、胸が熱くなる時が多く、
結果として、最後まで観たのであるが、
ときおり、私のあの頃は、そして社会の移ろいに思いを馳せたのである・・。
第18回オリンピック大会がアジアで初めて東京で開催されたのは、
昭和39年(1964年)10月10日から15日間であった。
『東京オリンピック』と称せられ、
開催前の社会の激動、開催中のにぎわい、
そして開催後の社会の変貌に、
日本の社会全体の空気が変わったこの時代、
私なりの思いを綴ることにする。
第一章
私は都心の高校に入学したのは、
昭和35年4月からで、文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒で、
写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。
東京郊外の地元の小・中学期であったので、
都内の中学生卒が多い中、今までの劣等生てあったので、初めて本気で勉強に励んだり、
都心育ちの同級生と交遊したりした。
高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、映画館に通ったり、
女の子と付き合ったり、友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下したのである。
この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。
担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたのである。
結果として、私は安易な二流大学の潰しのきく商学部に入学したのは、
昭和38年4月であった。
クラブのワンダー・フォーゲルで山歩きをしたりしたが、
映画館には相変わらず通っていた・・。
秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。
そして、翌年になると、
都心は東京オリンピックの開催年で、
日増し毎に景観が変貌していた・・。
私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、
と通告したのである。
東京オリンピックの開催中、
私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、
通い続けて観たしていた。
ある時、渋谷駅に乗り換えた時、
街中から
『日本女子のバレーボール、金メダル・・』
と聴こえてきた。
東京オリンピックが終り、翌年の1月から、
専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、
と記憶している。
指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉委員長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。
私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。
もとより、シナリオを学ぶ為に、
文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。
この間に、アルバイトとして、会社から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役で、撮影所に通ったりしたが、
アメリカ・テレビ劇の日本語訳の発声には失敗していた。
こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって一本立ちには程遠かったのである。
この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から、新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、
浅い交遊をしたりしていた。
第二章
こうしてアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、シナリオ・ライターの世界も先々大変であると、
改めて認識させられた。
私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。
この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、
翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。
そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。
私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。
私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、
寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。
このような折、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。
私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。
大企業に中途入社する為に、コンピュータの専門学校で技術を習得した後、
何とか中途入社できたのは25歳であった。
まもなく企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられ、
休日に小説の習作をする気力もなくなったのである・・。
そして、私は遅れた社会人なので、
業務の熟練と年収に、早く同年齢に追いつこう、と決意し、
私の青年時代は終りを告げたのである。
最終章
私はこれまで東京オリンピックの前後の自身の流れを綴ってきたが、
肝要な映画、そして社会状況の移ろいを表現する。
私は市川 崑・監督の『東京オリンピック』の映画は、
『ビルマの竪琴』(1956年)以来、敬愛している監督なので、
封切館で観た。
これ以前、『東京オリンピック』の映画の総監督として、
黒沢 明、今井 正、今村昌平、そして大島 渚などの諸氏が候補となり、
結果として市川 崑に落ち着いた、
と映画雑誌などで知ったりしていた。
その上、完成した試写会を観た後、
河野一郎・オリンピック担当相が不満をもらした、
と新聞などで私は読んでいた。
世にいう《芸術か記録》映画の差異であった。
私はこうした拙(つたな)い知識の上で、
初めて満員の映画館で鑑賞したのである。
テレビに於いては、
オリンピックの競技のそれぞれの種目を克明に放映されてきたり、
新聞も連日に詳細に掲載されていた。
こうした前提条件を考えれば、上記に記した名高い監督でも、
後日に上映される映画作品としては、どのように表現するか、
思案したり、躊躇したり、色々と悩ましたと思われる。
まして、市川 崑のような運動に疎(うと)く、
オリンピックの競技のそれぞれの種目が解からないお方と私は想像したので、
脚本に携わった和田夏十、谷川俊太郎、白坂依志夫、
そして市川 崑の諸氏は、前人未踏のような心境で創作された、
と直感したのである。
作品の評価としては、何より競技に疎い素人の共同脚本であったのが、
成功された、と確信したのである。
競技の前後の選手の表情、しぐさ、
勝者と敗者の安堵、喜び、落胆の情景、
そして観衆の表情、ときおり自転車競技などの周辺の光景・・
私は《みっともない》、《もったいない》と昨今で死語となった社会状況を、
あの頃の時代には日本に於いて数多くの人がしぐさに現れ、
そして優しい表情をたたえていたシーンを観て、
昨夜、40数年過ぎて、再見し、
あやうく涙が溢れそうになったのを付記しておく。
尚、映画の評価には関係ないが、
女子の体操で、ベラ・チャスラフスカの美麗を観て、
あの頃までは女性が競技したが、
これ以降の少女の競技に化し、私は興味を失くしている。
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昨夜、NHKの衛星第二で放映された市川 崑・監督の映画『東京オリンピック』を観た。
放映されるまでの時間で、私は視聴するか、どうかを躊躇し、
ためらいながら視聴したが、胸が熱くなる時が多く、
結果として、最後まで観たのであるが、
ときおり、私のあの頃は、そして社会の移ろいに思いを馳せたのである・・。
第18回オリンピック大会がアジアで初めて東京で開催されたのは、
昭和39年(1964年)10月10日から15日間であった。
『東京オリンピック』と称せられ、
開催前の社会の激動、開催中のにぎわい、
そして開催後の社会の変貌に、
日本の社会全体の空気が変わったこの時代、
私なりの思いを綴ることにする。
第一章
私は都心の高校に入学したのは、
昭和35年4月からで、文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒で、
写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。
東京郊外の地元の小・中学期であったので、
都内の中学生卒が多い中、今までの劣等生てあったので、初めて本気で勉強に励んだり、
都心育ちの同級生と交遊したりした。
高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、映画館に通ったり、
女の子と付き合ったり、友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下したのである。
この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。
担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたのである。
結果として、私は安易な二流大学の潰しのきく商学部に入学したのは、
昭和38年4月であった。
クラブのワンダー・フォーゲルで山歩きをしたりしたが、
映画館には相変わらず通っていた・・。
秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。
そして、翌年になると、
都心は東京オリンピックの開催年で、
日増し毎に景観が変貌していた・・。
私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、
と通告したのである。
東京オリンピックの開催中、
私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、
通い続けて観たしていた。
ある時、渋谷駅に乗り換えた時、
街中から
『日本女子のバレーボール、金メダル・・』
と聴こえてきた。
東京オリンピックが終り、翌年の1月から、
専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、
と記憶している。
指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉委員長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。
私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。
もとより、シナリオを学ぶ為に、
文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。
この間に、アルバイトとして、会社から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役で、撮影所に通ったりしたが、
アメリカ・テレビ劇の日本語訳の発声には失敗していた。
こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって一本立ちには程遠かったのである。
この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から、新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、
浅い交遊をしたりしていた。
第二章
こうしてアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、シナリオ・ライターの世界も先々大変であると、
改めて認識させられた。
私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。
この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、
翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。
そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。
私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。
私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、
寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。
このような折、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。
私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。
大企業に中途入社する為に、コンピュータの専門学校で技術を習得した後、
何とか中途入社できたのは25歳であった。
まもなく企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられ、
休日に小説の習作をする気力もなくなったのである・・。
そして、私は遅れた社会人なので、
業務の熟練と年収に、早く同年齢に追いつこう、と決意し、
私の青年時代は終りを告げたのである。
最終章
私はこれまで東京オリンピックの前後の自身の流れを綴ってきたが、
肝要な映画、そして社会状況の移ろいを表現する。
私は市川 崑・監督の『東京オリンピック』の映画は、
『ビルマの竪琴』(1956年)以来、敬愛している監督なので、
封切館で観た。
これ以前、『東京オリンピック』の映画の総監督として、
黒沢 明、今井 正、今村昌平、そして大島 渚などの諸氏が候補となり、
結果として市川 崑に落ち着いた、
と映画雑誌などで知ったりしていた。
その上、完成した試写会を観た後、
河野一郎・オリンピック担当相が不満をもらした、
と新聞などで私は読んでいた。
世にいう《芸術か記録》映画の差異であった。
私はこうした拙(つたな)い知識の上で、
初めて満員の映画館で鑑賞したのである。
テレビに於いては、
オリンピックの競技のそれぞれの種目を克明に放映されてきたり、
新聞も連日に詳細に掲載されていた。
こうした前提条件を考えれば、上記に記した名高い監督でも、
後日に上映される映画作品としては、どのように表現するか、
思案したり、躊躇したり、色々と悩ましたと思われる。
まして、市川 崑のような運動に疎(うと)く、
オリンピックの競技のそれぞれの種目が解からないお方と私は想像したので、
脚本に携わった和田夏十、谷川俊太郎、白坂依志夫、
そして市川 崑の諸氏は、前人未踏のような心境で創作された、
と直感したのである。
作品の評価としては、何より競技に疎い素人の共同脚本であったのが、
成功された、と確信したのである。
競技の前後の選手の表情、しぐさ、
勝者と敗者の安堵、喜び、落胆の情景、
そして観衆の表情、ときおり自転車競技などの周辺の光景・・
私は《みっともない》、《もったいない》と昨今で死語となった社会状況を、
あの頃の時代には日本に於いて数多くの人がしぐさに現れ、
そして優しい表情をたたえていたシーンを観て、
昨夜、40数年過ぎて、再見し、
あやうく涙が溢れそうになったのを付記しておく。
尚、映画の評価には関係ないが、
女子の体操で、ベラ・チャスラフスカの美麗を観て、
あの頃までは女性が競技したが、
これ以降の少女の競技に化し、私は興味を失くしている。
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