夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

我家の『国民健康保険料』・・♪

2008-07-11 19:52:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活4年生の身であるが、
先程、市役所より『平成20年度 国民健康保険納税通知書』が到着した。

今年の7月から来年の3月まで、
医療、支援、介護分の総計174,000円を支払いなさい、
と通知であった。

私は昨年は、132,600円で、一昨年は、83、400円であった。


ご存知の通り、国民健康保険料は、前年度の収入に基づいて、
家族構成、お住まい地域により差が生じが、
算出されている。

私は昭和16年度の秋にサラリーマンを定年退職し、
翌年も勤めていた企業の所属する健康機関に継続していたが、
支払い請求額の通知を受けて、
少し高いなぁ、とため息をついたのである。

私は定年後に年金生活に入ったが、昭和19年9月生まれであるので、
年金満額支給は62歳になってからであった。
従って、2年間は年金支給額は、ほぼ半額程度であった。

その後、健康保険を企業の所属していた健康機関から国民健康に切り替え、
最初の『国民健康保険料』は夫婦合算で、
たった年間83,400円であり、余りにも低いので、
驚いたのである。


先程も家内と通知書を確認しあったが、
昨年は、132,600円、今年は174,000円か、
と微苦笑したのである。

家内は、年金受給額が変わらないのに少し高いわ、
と云ったりしている。

私は日本は本格的に高齢者社会となり、医療・介護に巨額な経費を国・市町村が、
それなりに負担して頂くのだから、
国民の責務として、ある程度の負担は止む得ない、
と苦笑しながら、家内に云ったりしていた。


尚、私は現役のサラリーマン時代の最後の頃は、
毎月、健康保険と介護保険で総額3万円前後であった。

しかし、この頃は給与より天引きされていたので、
厚生年金、雇用保険と同様に、
勤めていた企業も、それなりに負担して下さった上の私の支払い額であったので、
長年、無頓着であったのである。



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私も人生、『七転八起』・・。

2008-07-11 13:24:50 | 定年後の思い
私は人生の半(な)かばの年金生活の4年生の身であるが、
半生を振り返ってきた時、
あの時に、もしも何かがあったならば、私達の今の生活も大幅に狂っていた、
と思う時がある・・。

私は中小業の民間会社のレコード会社を定年退職後、
ブログの世界を知り、余すことのないように幼年期から現役時代、
そして年金生活の思い等を綴ってきた。

私は綴る際は、自身の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はあうした思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して重要なのである。
従って、数多く綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡、
と云っても差し支えない。


私は幾たびも綴ってきたが、幼年期は農家の三男坊として生を受けたが、
父、祖父が死去された後は、衰退し生活に困窮した時期もあったが、
母の孤軍奮闘に寄り、何とか世間並みの生活が出来るようになった。

私は長兄、次兄の優等生であったので、
何かしらいじけた劣等生で小・中学時代を過ごした。

高校生になると、長兄、次兄の影響のない高校であったので、
自縛から解放されたかのように面持ちとなり、
普通の生徒で、多少個性が強い程度であった。

大学を中退したのは、東京オリンピックの頃で、
アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をし、
新人の小説コンクールの最終予選の寸前で3度ばかり落選したりしていた。

30代に普通の家庭が築けるの、と素朴な叱咤を叔父さんから云われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。

結果として、安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。
幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方の助力もあり、
ある大企業に中途入社できたのは、
昭和45年の春であり、25歳の時であった。

その後、大企業の音楽部門のひとつがレコード会社として独立され、
私は異動させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。


この間は家内と結婚したり、1戸建ての家を構え、
住宅ローンが重く苦心惨憺な時期も過ごした。

会社の勤務も数多くのサラリーマンと同様に多忙で、
落伍者になるまいと、それなりに奮闘したのである。

ぎっくり腰で1ヶ月ばかり入院した40代の後半があったり、
レコード会社の合併などで完全外資となり翻弄された時代もあり、
そして業界のピークとなるのは、私が50代のなかばであった。

こうした暗澹たる空気の中、私の勤めていた会社もリストラが行われ、
希望退職優遇制度の名の下で定年前に退職を余儀なくされたり、
人事異動が盛んに行われ、私のように出向となった人もいた。


こうした機会に、私達夫婦はどのような老後の生活をしたいのか、
と真剣に話し合った。
私達夫婦は子供も恵まれなかったので、老後は2人だけの家庭となるので、
残された歳月、片割れになった時を念頭にしたのである。

老後の資金も肝要なので、私は出向先の不馴れな物流情報センターで、
何とか頑張れて、定年退職を迎えることが出来たのである。


そして定年退職後は、予定通り年金生活となり、
程々の貯蓄を取り崩しながら、古びた1戸建てに家内と生活を過ごしている。

ご近所の奥様と立ち話などをした時、
悠々自適な生活で羨ましいわ、と云われたりしているが、
私は官公庁、大企業の首脳部を卒業されたエリートではなく、
数多い中小業に勤めた普通のサラリーマンであったので、
高収入、高額な退職金には無縁で、程遠い生活実態である。


私の日常は小説、随筆などの読書はもとより、
映画を居間で鑑賞したり、
音楽を聴いたりしていることが多いのである。
そして青年時代に文章を綴り家庭生活を過ごすが夢であったので、
体力の衰えた今は小説の習作もままならず、
大幅な変貌してきたが、プログ等で随筆形式を目指して、毎日投稿し、
生きがいとなっているのである。


このように改めて、私の簡略な軌跡を明示してきたが、
この中でひとつでも欠けていたら、
私の今の生活はないのである。

家内から、働かなくても生活できるのだから、
と度々云われたりするたびに、
私は拙(つた)ない自分の半生のひとこまが甦(よみがえ)ったりしている。



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