第一章
1昨日、駅前の本屋に行った時、
帰路は小学校に通った旧街道を歩いて帰宅した。
私が実家の近くに、家を構えたのは、28年前であり、
この直後には家の周辺を家内と度々散策したが、
旧街道は何故かしら避けていたようだった。
それから、3年過ぎた頃、家内と旧街道を歩いた。
小学校までの道程は、15分程度であり、
旧家の道路沿いは多少変わっていたが、原則として昔からの面影はあった。
私の家は幼年期は農家であり、
戦前は農業学校の実習生を受け入れ、田畑を耕していて、
それ以外の田畑は10人前後の小作人に耕しを依頼していた。
戦後の農地改革に寄り、雑木林を除く田畑は2町歩以内と制限されたので、
小作人の方に安価で払い下げられた。
駅までの道程には、10数軒の地主がいたが、
こうして田畑は分散化となった。
第二章
戦前、敗戦後にしても旧家の地主は、村の名誉職になると、
1日過ぎると、田畑は日毎に1作、1列分が無くなる、
と後日私は聴いている。
村の名誉職、村長、助役、会計の立場になると、
自身の収益より村の為に、持ち出しが多く、村民から慕われた・・。
中には、これとは別の話も聴いた。
私達の程々に遠い大河が流れている村では、
護岸工事の完成する戦前の昭和でも、
洪水、台風等の被害に遭われ、わずかな土地持ちの家でも、
泣く泣くその地の大地主にわずかばかりで買い上げられ、
小作人となった人達の話も聴いている。
地主の人達にも村を思う見識に差異がある、
ということである。
昭和26年の春になった時、私は小学校入学した。
祖父、父、父の兄弟の叔母の2人、
そして母、兄の2人、妹の2人という家族構成であった。
祖父、父、母、叔母達は、田畑を耕し、
農繁期の時などは、農業大学の実習生の3名を受け入れ、
別棟に寝泊し、田畑の耕しをして頂いた。
祖父は、村の名誉職に就いていたので、
ときたまスーツに着替え、自転車で村役場に行ったりしていた。
私は祖父のこの姿を観ると、
うちのおじいちゃん、かっこいいし、偉いんだぁ、
と子供心に思っていた。
祖父と父は、大学まで通ったことのない学歴であったので、
私の1番の上の兄、長兄には、
ともかく学がなければと、
小学5年生前後から家庭教師を付けたりしていた。
長兄はこの期待に応(こた)え、私の通った小学校の卒業生で、
国立の中学校に入学出来たのは、長い歴史のある小学校で初めてであったので、
特に祖父と父達は喜んだ・・。
秋の収穫を終える頃には、農地解放前の小作人の人達が、
何がしを持参して、祖父に手渡していた。
多分、農地解放のお陰で、安い価格で土地を取得でき、
自分達も地主になれた礼を込めて、謝礼として持参して下さった、と今は思う。
歳末の頃になると、旧家同士、餅つきを交互に手伝い、
正月用のお供え、年末年始ののし餅、と
その家族に見合った量を造っていた・・。
この頃の時代でも、旧家と旧小作人との交際は、
歴然として残っていた・・。
その後、我が家がまもなく没落の一途をたどるとは、
近所の方達を含め、どなたも想像が出来なかった。
第三章
父が肝臓を悪くなり、寝込んでいまい、町医者が、ときおり我が家に来たのは、
私が小学校2年になったばかりであった。
そして、3学期になると、父は死去した。
その後、2ヶ月後に、祖父も無くなった。
大黒柱の男手を失った農家は、没落の一途をたどった。
母、未婚の叔母2人、そして長兄は中学校2年、次兄は小学5年、
私は3年、妹は1年、そして末の妹は4歳だった。
農家の場合は、田畑の技術のノウハウは、
大黒柱の指示により、運営されていたので、
残された成人の女手では、なすすべもなくなって行く・・。
親族関係の人々の支援があったが、
農業の主体は、やはりその家の人々が行わざるを得ないので、
田畑を少しずつ手放していった。
こうして、私が中学1年になった時、
母はアパート経営を始め、何とか普通の生活水準となった
この間、周囲の人々から、風のうわさが聴こえて来た。
『あの家は駄目になったょ・・
今度、田畑を売って、アバート経営だと・・』
歳を重ねた今、私は旧街道を歩くと、複雑な心境になる。
東京の郊外は、昭和30年過ぎた頃から、急速に住宅地に変貌し始めた・・。
どの旧家も田畑を切り売りを始めたりしていたが、
落ち目になると噂(うわさ)が聴こえたりした。
今、こうして旧街道を歩くと、旧家の宅地本体だけは、
幾分小さくはなっているが、
依然と私の実家同様に、昔の面影を残し、保持している。
1昨日、駅前の本屋に行った時、
帰路は小学校に通った旧街道を歩いて帰宅した。
私が実家の近くに、家を構えたのは、28年前であり、
この直後には家の周辺を家内と度々散策したが、
旧街道は何故かしら避けていたようだった。
それから、3年過ぎた頃、家内と旧街道を歩いた。
小学校までの道程は、15分程度であり、
旧家の道路沿いは多少変わっていたが、原則として昔からの面影はあった。
私の家は幼年期は農家であり、
戦前は農業学校の実習生を受け入れ、田畑を耕していて、
それ以外の田畑は10人前後の小作人に耕しを依頼していた。
戦後の農地改革に寄り、雑木林を除く田畑は2町歩以内と制限されたので、
小作人の方に安価で払い下げられた。
駅までの道程には、10数軒の地主がいたが、
こうして田畑は分散化となった。
第二章
戦前、敗戦後にしても旧家の地主は、村の名誉職になると、
1日過ぎると、田畑は日毎に1作、1列分が無くなる、
と後日私は聴いている。
村の名誉職、村長、助役、会計の立場になると、
自身の収益より村の為に、持ち出しが多く、村民から慕われた・・。
中には、これとは別の話も聴いた。
私達の程々に遠い大河が流れている村では、
護岸工事の完成する戦前の昭和でも、
洪水、台風等の被害に遭われ、わずかな土地持ちの家でも、
泣く泣くその地の大地主にわずかばかりで買い上げられ、
小作人となった人達の話も聴いている。
地主の人達にも村を思う見識に差異がある、
ということである。
昭和26年の春になった時、私は小学校入学した。
祖父、父、父の兄弟の叔母の2人、
そして母、兄の2人、妹の2人という家族構成であった。
祖父、父、母、叔母達は、田畑を耕し、
農繁期の時などは、農業大学の実習生の3名を受け入れ、
別棟に寝泊し、田畑の耕しをして頂いた。
祖父は、村の名誉職に就いていたので、
ときたまスーツに着替え、自転車で村役場に行ったりしていた。
私は祖父のこの姿を観ると、
うちのおじいちゃん、かっこいいし、偉いんだぁ、
と子供心に思っていた。
祖父と父は、大学まで通ったことのない学歴であったので、
私の1番の上の兄、長兄には、
ともかく学がなければと、
小学5年生前後から家庭教師を付けたりしていた。
長兄はこの期待に応(こた)え、私の通った小学校の卒業生で、
国立の中学校に入学出来たのは、長い歴史のある小学校で初めてであったので、
特に祖父と父達は喜んだ・・。
秋の収穫を終える頃には、農地解放前の小作人の人達が、
何がしを持参して、祖父に手渡していた。
多分、農地解放のお陰で、安い価格で土地を取得でき、
自分達も地主になれた礼を込めて、謝礼として持参して下さった、と今は思う。
歳末の頃になると、旧家同士、餅つきを交互に手伝い、
正月用のお供え、年末年始ののし餅、と
その家族に見合った量を造っていた・・。
この頃の時代でも、旧家と旧小作人との交際は、
歴然として残っていた・・。
その後、我が家がまもなく没落の一途をたどるとは、
近所の方達を含め、どなたも想像が出来なかった。
第三章
父が肝臓を悪くなり、寝込んでいまい、町医者が、ときおり我が家に来たのは、
私が小学校2年になったばかりであった。
そして、3学期になると、父は死去した。
その後、2ヶ月後に、祖父も無くなった。
大黒柱の男手を失った農家は、没落の一途をたどった。
母、未婚の叔母2人、そして長兄は中学校2年、次兄は小学5年、
私は3年、妹は1年、そして末の妹は4歳だった。
農家の場合は、田畑の技術のノウハウは、
大黒柱の指示により、運営されていたので、
残された成人の女手では、なすすべもなくなって行く・・。
親族関係の人々の支援があったが、
農業の主体は、やはりその家の人々が行わざるを得ないので、
田畑を少しずつ手放していった。
こうして、私が中学1年になった時、
母はアパート経営を始め、何とか普通の生活水準となった
この間、周囲の人々から、風のうわさが聴こえて来た。
『あの家は駄目になったょ・・
今度、田畑を売って、アバート経営だと・・』
歳を重ねた今、私は旧街道を歩くと、複雑な心境になる。
東京の郊外は、昭和30年過ぎた頃から、急速に住宅地に変貌し始めた・・。
どの旧家も田畑を切り売りを始めたりしていたが、
落ち目になると噂(うわさ)が聴こえたりした。
今、こうして旧街道を歩くと、旧家の宅地本体だけは、
幾分小さくはなっているが、
依然と私の実家同様に、昔の面影を残し、保持している。