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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ふるさとの旧街道を歩く時・・♪   《初出2006.4.24.》

2008-04-29 13:26:26 | 幼年・少年時代の想いで
   第一章

1昨日、駅前の本屋に行った時、
帰路は小学校に通った旧街道を歩いて帰宅した。

私が実家の近くに、家を構えたのは、28年前であり、
この直後には家の周辺を家内と度々散策したが、
旧街道は何故かしら避けていたようだった。
それから、3年過ぎた頃、家内と旧街道を歩いた。

小学校までの道程は、15分程度であり、
旧家の道路沿いは多少変わっていたが、原則として昔からの面影はあった。

私の家は幼年期は農家であり、
戦前は農業学校の実習生を受け入れ、田畑を耕していて、
それ以外の田畑は10人前後の小作人に耕しを依頼していた。

戦後の農地改革に寄り、雑木林を除く田畑は2町歩以内と制限されたので、
小作人の方に安価で払い下げられた。

駅までの道程には、10数軒の地主がいたが、
こうして田畑は分散化となった。



   第二章

戦前、敗戦後にしても旧家の地主は、村の名誉職になると、
1日過ぎると、田畑は日毎に1作、1列分が無くなる、
と後日私は聴いている。

村の名誉職、村長、助役、会計の立場になると、
自身の収益より村の為に、持ち出しが多く、村民から慕われた・・。

中には、これとは別の話も聴いた。
私達の程々に遠い大河が流れている村では、
護岸工事の完成する戦前の昭和でも、
洪水、台風等の被害に遭われ、わずかな土地持ちの家でも、
泣く泣くその地の大地主にわずかばかりで買い上げられ、
小作人となった人達の話も聴いている。

地主の人達にも村を思う見識に差異がある、
ということである。

昭和26年の春になった時、私は小学校入学した。
祖父、父、父の兄弟の叔母の2人、
そして母、兄の2人、妹の2人という家族構成であった。

祖父、父、母、叔母達は、田畑を耕し、
農繁期の時などは、農業大学の実習生の3名を受け入れ、
別棟に寝泊し、田畑の耕しをして頂いた。

祖父は、村の名誉職に就いていたので、
ときたまスーツに着替え、自転車で村役場に行ったりしていた。

私は祖父のこの姿を観ると、
うちのおじいちゃん、かっこいいし、偉いんだぁ、
と子供心に思っていた。

祖父と父は、大学まで通ったことのない学歴であったので、
私の1番の上の兄、長兄には、
ともかく学がなければと、
小学5年生前後から家庭教師を付けたりしていた。

長兄はこの期待に応(こた)え、私の通った小学校の卒業生で、
国立の中学校に入学出来たのは、長い歴史のある小学校で初めてであったので、
特に祖父と父達は喜んだ・・。

秋の収穫を終える頃には、農地解放前の小作人の人達が、
何がしを持参して、祖父に手渡していた。

多分、農地解放のお陰で、安い価格で土地を取得でき、
自分達も地主になれた礼を込めて、謝礼として持参して下さった、と今は思う。

歳末の頃になると、旧家同士、餅つきを交互に手伝い、
正月用のお供え、年末年始ののし餅、と
その家族に見合った量を造っていた・・。

この頃の時代でも、旧家と旧小作人との交際は、
歴然として残っていた・・。

その後、我が家がまもなく没落の一途をたどるとは、
近所の方達を含め、どなたも想像が出来なかった。



   第三章


父が肝臓を悪くなり、寝込んでいまい、町医者が、ときおり我が家に来たのは、
私が小学校2年になったばかりであった。

そして、3学期になると、父は死去した。

その後、2ヶ月後に、祖父も無くなった。

大黒柱の男手を失った農家は、没落の一途をたどった。
母、未婚の叔母2人、そして長兄は中学校2年、次兄は小学5年、
私は3年、妹は1年、そして末の妹は4歳だった。

農家の場合は、田畑の技術のノウハウは、
大黒柱の指示により、運営されていたので、
残された成人の女手では、なすすべもなくなって行く・・。

親族関係の人々の支援があったが、
農業の主体は、やはりその家の人々が行わざるを得ないので、
田畑を少しずつ手放していった。

こうして、私が中学1年になった時、
母はアパート経営を始め、何とか普通の生活水準となった

この間、周囲の人々から、風のうわさが聴こえて来た。
『あの家は駄目になったょ・・
今度、田畑を売って、アバート経営だと・・』

歳を重ねた今、私は旧街道を歩くと、複雑な心境になる。

東京の郊外は、昭和30年過ぎた頃から、急速に住宅地に変貌し始めた・・。
どの旧家も田畑を切り売りを始めたりしていたが、
落ち目になると噂(うわさ)が聴こえたりした。

今、こうして旧街道を歩くと、旧家の宅地本体だけは、
幾分小さくはなっているが、
依然と私の実家同様に、昔の面影を残し、保持している。

              



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アメリカを初めて感じた頃の想いで・・♪   《初出2006.3.28.》 ①

2008-04-28 12:56:35 | 幼年・少年時代の想いで
ここ数日、猿谷 要・氏の『物語 アメリカの歴史』を再読した。

副題は、超大国の行方、と題されているいる。

この本は、中央公論社の中公新書シリーズの一冊であり、
中東の湾岸戦争でアメリカを中心とした連合軍が、
圧倒的に勝利した1991年末頃に発売された。

アメリカの文学、文化、生活様式に精通した著作者が、
改めてアメリカの政治、外交、軍事、社会を根底に、
アメリカの人々の心のうつろいをそれぞれの時代を見据えて、
綴られたものである。

私はこの本を書店の店頭で接したのは、1998年の12月であり、
私のそれまでの50年間のアメリカ観を再整理を促され、
色々とアメリカに対する思いが深く思考させられた貴重な本であった。

今回、改めて再読し、思考した事柄を綴ってみよう、と思った。


私がアメリカを意識しはじめたのは、
昭和32年(1957年)前後であった。

テレビに於いて、西部劇の『ララミー牧場』、
ホーム・ドラマの『うちのママは世界一』を観た時だった。

特に『うちのママは世界一』の生活様式には、
中学生だった私は、驚きと羨望となった。

広い居間に大型テレビ、ソファー、
台所では大型冷蔵庫、それらに伴う数多くの食料。

広い家の2階建て、広い芝の庭、
そしてパパの通勤の大型自動車・・。

私はこうした状況が、アメリカの典型的な中流家庭か、
と動揺した後、羨望に変わった。

アメリカとは、何と豊かな国だろうかと、
連続ドラマを観る度に、驚きを隠せなかった・・。


私がアメリカ人を最初に観たのは、小学校2年前後であった。
従って、昭和27年前後、小学校の近くに甲州街道がある。

府中にある米軍基地から都心に向ってジープが走って折、
前列に2人、後列にも2人の4人の黒人兵士が乗っていた。
カービン銃を横に置いた細身で背の高い兵士を観ていた・・。

私は内心どきどきしながら、
《あれが、黒ん坊かょ・・》
と呟(つぶや)きながら、
交通量が殆どない道路を疾走するジープを見送った。

幼年期の無知でも、感覚として私の後年に深く影響をもたらした。

私の幼年期は、いじけた卑屈な可愛げのない男の子で、
特に偏見の持つ子でもあった。



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Ⅰ枚の板チョコの想いで・・♪   《初出2006.2.6.》

2008-04-27 10:50:26 | 幼年・少年時代の想いで
過日、読売新聞で2月14日の『バレンタイン日』に向けて、
バレンタイン・チョコレートの特集記事が載っていた。

本命用、義理用、そして自分用の区分があり、
限定品・初上陸・話題品、美味しいもの、有名ブランド等で、
高価な品だど一粒数百円する、と掲載されていた。

私の現役時代は、程々の値段の義理チョコを頂いたり、
家内からは程々のハート・マークのような品を頂いた・・。

私はこのような時、昔のⅠ枚の板チョコを想いだす・・。


昭和28年に春先、父が他界し、そして祖父もその2ヵ月後に亡くなった。
農家をしていたので、大黒柱の男手を失なった事も痛手であるが、
何より農業のノウハウの技量が無くなり、家は衰退した。
私が小学2年から3年生になる年だった。

祖父の妹がサラリーマン宅に嫁いでおり、この伯母が月に数回、来宅した。

妹2人には、それぞれのお土産を持参し、
私はこの伯母を最寄駅まで送ると、
駅前のお菓子屋さんで、お煎餅とⅠ枚の板チョコを渡してくれた。

今のスーパーの店頭で見かける、
明治製菓か森永製菓のⅠ枚100円前後の板チョコレートである。

私が家内と結婚した時、
私の母に連れられて、この伯母宅に挨拶に行った。

家内には、この途中で、
『昔、内が貧乏の頃、伯母さんには凄く助けられたょ・・
駅まで送って行くと、あの頃、高価だったⅠ枚の板チョコを必ず買ってくれたの・・』
と私は言った。

今の私は辛党であるが、Ⅰ年にⅠ回程度、
この板チョコを買ったりしている・・。




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初冬の藪椿・・♪   《初出2005.12.17.》

2008-04-25 18:49:32 | 幼年・少年時代の想いで
私の家には、3種類の椿があるが、
ひとつは蕾の状況となってきている。

昨日、昼下がり遊歩道を歩いていたら、
陽当たり良い所に、紅色の一重咲きの椿が、
2メートル前後の樹形で満開となっていた。

私は幼時の頃から見慣れた椿であるが、
花の少なくなった初冬の今頃、素朴な花に慰められた・・。


幼時の頃、私が生まれた家では、雑木林の陽当たり良い場所、
陽の当りの少ない所にも点在していたが、
晩秋から春にかけて咲き、移ろっていた・・。

雑木林は祖父や父が余り手を入れていなかったが、
雑然とした樹木の多い中、こんなところに椿がある、
と子供心に思ったりした。

私にとっては、懐かしい幼時に還れる花のひとつである。


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初めての霜・・♪   《初出2005.12.9.》

2008-04-25 12:07:22 | 幼年・少年時代の想いで
朝、戸を開けると、主庭の中心近くが白っぽくなっていた。

家内は
『薄っすらとしていますが、霜よ・・』
と言った。

屋根は、ここ数日前から霜が見えたが、
地面がこのように霜が降りてのは、晩秋を過ぎ、
初冬を迎えた今、初めてであった・・。


この地に移り住んだ時、初めて初冬を迎えた時、5cm前後の霜柱があり、
少し驚いたのを想い出した。


そして、この地域が50年前頃、田畑や雑木林が多かった小学生の時、
近道の畑の中にある小道を通り、霜柱が10センチ前後を踏みしめて、
通学したのも甦(よみがえ)ってきた・・。

そして、下校の2時前後になると、
霜柱の解けた少しぬかるんだ小道をとぼとぼと歩いたりした。

この地域も温暖化となり、そして住宅地が多くなり、
田園の情景も消え去った・・。

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初夏の想い出・・♪   《初出2005.8.24.》

2008-04-22 18:15:01 | 幼年・少年時代の想いで
私の父は、小学校2年の終りの頃に亡くなり、
そして祖父もその2ヶ月後に亡くなった。

結果として、農家の大黒柱が、続けて亡くなり、
未婚の叔母2人と母と私の兄と妹の5人兄妹が残された・・。

その数年以前は、大学の農学部の学生4、5人が、実習研修などで、
夏と秋のひとときは泊りがけで滞在し、程々の広さで農業をしていた。

農家が大黒柱を失うという事は、
人手もさることながら、農家に関する全ての技能が消えたという事なので、
次第に没落していった。


初夏の頃、私は通学する為、
畑の小道や田圃のあぜ道を通り、とぼとぼと歩いて行った。

途中の畑の小道を通ると、トマトとキュウリ、そして茄子畑が並んでいた。

この付近の農家は、朝の5時過ぎには、青果市場に出荷する為に、
その日に応じた野菜類を収穫する。

私が通る頃の8時過ぎは、収穫が終わった後、静寂な畑となっていた。

私は熟れる前のトマトを2つぐらいもぎ取り、
朝露で光沢を帯びたトマトを齧りながら歩いたりした。
或いはキュウリを2ばかりもぎ取り、消毒の白さが残っているので、
ズボンにこすって取り、かぶりついたりした。

このようにして、少年の頃の私は、屈折の多い多感な時を過した・・。


この畑の持ち主には、私の結婚披露宴に来て頂いただいた時、
『小父さんの畑で・・小学校の時・・
トマトやキュウリを大分頂きました』
と私は言った。

『まぁ、あの頃の子供は皆そうだったょ・・』
と小父さんは慰めてくれた。


私はトマトをときたまスーパーなどで買い求めているが、
成熟したトマトより一歩手前の青みが残るトマトが何となく好きである。




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筍(たけのこ)が食卓に・・♪  《初出2005.4.24.》

2008-04-19 14:31:58 | 幼年・少年時代の想いで
昨日、長兄の宅より大きな筍を頂いた。
家内は、早速台所で筍をむき始めた。


遠い昔、私が幼児であった頃、
祖父、父が農家をしていたので、竹林が二反前後あった。

秋になると、地表に根が出そうになったのを三尺近く堀起こし、
地中深く根を埋めていた。
次兄と私は、穴が掘られたのを子供心にいたずらをし、
父によく怒られた。

春先になると、この竹林に子供が入るのを禁じられた。

柔らかな地表が微(わず)かな地割れを見つけて、
筍を掘り出すためであった。
この微かな地割れを二、三尺を堀り、やがて大きな筍を掘り出した。

芽が地表にだしたのは、柔らか味が出てしまい身が固くなるので、
からす、と呼んでいた。
このからすは、値が下がるので、家の人々の食卓にのせられた。
地中にあった良質の筍は、市場に出荷していた。

それから残した筍は、日増しに大きくなり、
若い竹となり、子供心でも著しい成長を眺め、感嘆した心を躍らせていた・・。

夏になると、ひんやりした竹林に入るのが、私は好きだった。
田畑の暑い中、この竹林は涼しく、
ときたま風が吹くと、さわさわとした葉ずれの音を聴き、
心地よいひと時を感じたりしたのである。

秋のある日、竹細工の方が買い付けにきたりした。

この頃の時代は、孟宗竹で籠(かご)、笊(ざる)、作物入れ用等で、
何処の家も使われていた。

その後、父が亡くなり、祖父も他界した。
昭和28年だった。

私の家は、この後に急速に変わり、竹林も無くなった。


今、長兄の宅は、五、六坪の竹林に留めている。
手入れも昔ほど出来なくなったので、
地表に出た、からす、を掘り起こしている。

あの香(かぐわ)しい情景は、
東京のこの付近の郊外では、昭和30年代の前半で消え去ってしまった。

今、庭に出ると、紅梅の根元の周囲には、
蕗(ふき)の葉が微風を受けて、揺れている・・。



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紫木蓮の想いで・・♪  《初出2005.4.7.》

2008-04-19 13:17:13 | 幼年・少年時代の想いで
居間の前と玄関のはずれに2本の紫木蓮がある。

居間の前にあるのは、7分咲きであるが、8割方は小鳥に食べられた。
この花は、7分咲きが最も美しい、と思っている。

玄関庭の方は、油断していたせいか、壊滅状態である。

この樹木は、私が家を建てた時、
長兄の家より、貰い受けて植えたものだった。


その昔、祖父の代まで農家だったので、
庭のはずれに20メートルぐらいの大きな紫木蓮があった。
青空に向けて、花がたわわになっていて、
幼年の私さえ色惚い花だなぁ、と感じ取った。


このような想いでが有るので、
この樹木に対しては、こだわりがある。

今年も大半食べられたが、残りの花がいとおしく眺めた・・。

東京の郊外は、早朝に庭に出ると、曇り空の中、
気温は暖かく微風があり、風自体は甘い香りがした。
昼過ぎに昨日と同様に、晴れわたる、とニュースは伝えている。


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春の時節、西瓜(すいか)で思うこと・・♪  《初出2005.3.22.》

2008-04-19 12:02:30 | 幼年・少年時代の想いで
朝のテレビのニュースで、
西瓜の生産、と店頭が映し出されていた・・。

この前、お墓参りの帰りに、
スーパーの店頭で、小玉だろうか西瓜があった。
値札には、千円と書かれていた。
季節感が狂う、と思っていた。

農家の方は、付加価値を作る為、
色々ご足労された結果だと思うが、釈然としない。
私は場合は、やはり七月頃から、頂くものと思っている。


私が中学一年の時、昭和33年だったが、
親戚の叔母さんが、八十歳に近く、寝たきりになった。

二月頃になると、更に悪化し、
『西瓜が食べたかったわ・・』と言った、と叔父さんが言うので、
私が買いに行く事になった。

私は日本橋の《せんびきや》、新宿の《高野》と廻った後、
渋谷の《西村》でやっと買えたのである。
あの頃の時代は、東京でも多分この三軒しかなかっただろう。

そして叔母さんは、西瓜を食べて、
三日のちに亡くなった・・。

冬に西瓜を食べることは、
この場合は許せると少年ながら思った。

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湧き水の想いで・・♪

2005-05-05 14:22:47 | 幼年・少年時代の想いで
東京の郊外の私の住む周辺には、昭和30年頃まで湧き水があった。

祖父と父が農業をしていた頃、私の所にも湧き水があった。

あたり一面は祖父の田圃であったが、蓮を植えている近くにあった。
湧き水の周囲は、みそはぎを植えていた。
このみそはぎは、夏のお盆の頃になると、仏壇に備え、ピンクの花を咲かせていた。

私は子供心に、湧きでる水を不思議に思ったりしたが、何となく好きになった。


小学5年頃,近くの湧き水が出て、池があったが、
ここに不思議な老人が良く池を眺めていた。
『あのお爺さん、いつも難しそうな顔してるよ・・』
と私は、友に言ったりした。

後年、このお爺さんは、高名な小説家だった。


私が結婚した後、家内と湧き水を観に旅行したりした。

富士山の源流の三島郊外にある柿田川、或いは忍野八海に行った。
伊豆地方の湯島に宿泊した時、湯ヶ島の山葵(わさび)田にも寄った。

私は小さな湧き水が好きである。
国道一号にある湧き水は、壮大しすぎて私の心は充たされなかった。

私には、小学時代に観た故郷のような、小さな湧き水に、
心の渇きからの浄化、を求めているのだろうか。
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柚(ゆず)の樹の想いで・・♪

2005-05-03 15:23:48 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学生の頃、五十年前の事でした。

庭のはずれに大きな柚の樹があり、

晩秋になると、竿(さお)でもぎました。

確か記憶をたどれば、一家の春先までの

楽しみな食べ物のひとつでした。


27年前に家を建てて、付近を家内とよく散策した。

ある時、ちょっと離れた都立公園に行き、帰路、苗木屋さんに立ち寄り、

『旦那さん、これお買い得よ・・』と声を掛けられた。

中年の主婦が、鉢に入った柚を指していた。

『お姉さん・・柚、小さくない?』と私は言った。

『あらぁ、旦那さん、伊予柚なの、だから小振りなの』と言った。

『小振りは、解ったけれど、成るかなぁ・・』と私は言った。

『心配なしよ・・数年したら、食べきれなく程、成ります』と力強く言った。

『そうしたら、家から出荷するか・・』と私は調子よく言った。

お互い、笑いあった。


これが間違いだった《笑》

庭に植え、水をたっぷり上げた。

その後、肥料を施し、数年過ぎた。


花が咲かず、実も成らなかった。

『XXちゃん、地植えが駄目なのかなぁ』と家内に言った。

『貴方、柚は時間が掛かると言うじゃ、ありませんの・・柚の馬鹿・・』と家内は笑っていった。

『苗木の姉さん、調子よすぎだったなぁ・・』と家内に言った。

『・・』家内は笑ってばかりだった。

『だまされたかなぁ・・』と私は未練たらしく言った。


こうして7年が過ぎた・・。

白い花が咲いた。

その晩秋、三つの収穫があった。


翌年の五月になると、若芽が伸びたので、刈り込んだ。

栄養分を主木から枝に行き渡らす為だった。

この秋、収穫ゼロだった《笑》


それから数年、何もしなかった。

晩秋は、確実に十数個、収穫があった。


昨年は豊作だった。

『XXちゃん、やっと念願どおりになったょ・・』と家内に言った。

『だけどね、貴方、この付近の家、柚の成り年、ですって・・』と家内は言った。

私はたわわに成った柚を観ていて、家内の言葉は通り過ぎていった《笑》


私は柚に関しても、苦節十何年であった。
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お茶を摘む頃に・・♪

2005-05-02 11:14:19 | 幼年・少年時代の想いで
遠い昔、昭和26年の頃だった。


祖父と父が農家をしていたので、お茶の樹があった。

宅地からゆるい坂を昇りきり、防風ように欅(けやき)が五十数本あり、

その先は平坦な地で陽当たりがよく、苗床、洗濯の干し場に利用された。

この平坦な所を抜けると畑であり、その先に村道があった。

この村道と畑の境界線にお茶の樹があった。

幅は四尺、高さが五尺で、五十間前後であった。


五月の初旬頃になると、新芽を摘んでいた。

一家総出であった。

私が幼児で三歳の頃は、近くに莚(むしろ)で寝そべっていた、

と母から後年に教えてもらっている。

新芽を摘んだ後、生葉撰り(なまはより)といったお茶の葉から

混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。

その後、生葉を新鮮なうちに、蒸篭(せいろ)で蒸した後、

団扇などであおいで、よくさましていた。

そして、長方形の大きな台の上に炭火をおこし、

その上に鉄板を敷き、先ほどのお茶をもんいた・・。


煎茶として出来た後、大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。

この煎茶は、家族が一年中に使い、来宅した方の一部の方に差し上げたりした。

もっともこの選別は、戸主の祖父の一言によった。


私は幼児の頃、いじけていたので、いたずらをして、父からよく怒られた。

祖父は、長兄、次兄に続き、私も男の子であったので、

不憫に思ったらしく、祖父の名の一字を私の名前にくれた。

祖父からは、可愛がってくれたが、煎茶を淹れるとき、

いいかげんな振る舞いで淹れると怒られた。


私が成人してから、煎茶を淹れる時、ときたま祖父を想い出される。
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呑んべえの予感した頃・・♪

2005-05-01 11:56:29 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学一年の頃でしたから、昭和26年の年だった。


祖父と父は、東京の郊外で農業をしていましたので、

年末近くになると、餅を搗(つ)いた。

祖父の家を含み、六軒の家で交互に手伝う習慣となっていた。


祖父の順番になると、もち米を精米にし、水に漬けた後、

その当日になると早朝から二つ大きな竈(かまど)に火をいれ、

二尺程の正方形の蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、蒸した。

男衆は五人来てくださり、それに私の家の人である。

午後になると、杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗いた。

すべて手作業なので、労力のいる時代だった。


餅になると、お供え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。

長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。

年末から正月のお雑煮、七草を得て、

その後ときたま二月の上旬まで食卓に出される。

このために、十畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。


夕方の六時ごろになると、搗きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に

それぞれ作り、夕食がわりとなった。

男衆は酒が振舞われ、茶碗酒として出された。

近所の叔父さんが、私に言った。
『XXちゃん、何を食べるの』

『う~ん、大根の辛いの・・』と私は言った。

『そうかい、からみねぇ、XXさん、この子きっと呑んべえになるね』

と赤い顔した叔父さんは、私の父に言った。


この数年後に父が亡くなり、祖父も他界したので、

私の家は急速に変わっていった。

私の周囲の家々も時代の波が押し寄せ、

このような風習は、消えた去った・・。
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マッカーサー元帥。

2005-02-11 18:09:34 | 幼年・少年時代の想いで
朝鮮戦争前の私が幼児の時だった。

いたずら子だったので、父親、祖父から
『そんないたずらばっかしてると、マッカーサーの所にやるからなぁ』
と言われた。

私にとってのマッカーサーとは、
幼児からの想像はナポレオンが赤いマントを羽織ったようなイメージを描いていた・・。


小学校六年の時、授業中、マッカーサーが戦後直後、
厚木飛行場でタラップからサングラスでコーンパイプを咥えた人の写真を先生が、『マッカーサー元帥です』
と言った。

『先生、嘘だぁ~い』
と私は言った。

『何を言うだ、君・・マッカーサー元帥に対して失礼だ』
と先生から怒られました。


私は、その晩の夕食は
『ご飯いらない・・』
と母に言った。

マッカーサーがあんなかっこうだ、と今更言われても、
あのマントはどおしてくれるんだょ、と
涙をためました・・。
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