備忘録として

タイトルのまま

則天武后

2015-01-25 23:22:20 | 中国

21日、陳舜臣が90歳で亡くなった。陳舜臣の『小説十八史略』や『中国の歴史』で知った中国の故事はどんな小説よりも面白かった。それまで、吉川栄治の『三国志』や大学の図書館に籠って読んだ『水滸伝』、『聊斎志異』、『紅楼夢』などで中国の物語には興味を持っていたのだが、歴史そのものに興味を持ち始めたのは陳舜臣の一連の歴史小説に負うことが大きかった。『中国の歴史』全15巻は新刊が出るたびに購入し読んだ。いつの頃からか『風よ雲よ』や『秘本三国志』など時代小説の中の虚構が受け入れられなくなって陳舜臣の小説からは離れていったが、その後も思い出したように『録外録』や『耶律楚材』、『敦煌の旅』などを読んでいた。

 李勣碑

陳舜臣が亡くなったニュースが流れたとき、たまたま中公新書の外山軍治著『則天武后』を読んでいた。則天武后は『小説十八史略』巻5に出てくる。則天武后は中国歴史上、最大の悪女、あるいは、劉邦の呂后、清の西太后に並ぶ三大悪女といわれる。唐王朝を簒奪し、周を建て自らを則天武后と称した。

  • 645 玄奘三蔵がインドより戻る
  • 649 太宗没、高宗即位
  • 655 武照儀が皇后となる
  • 663 白村江の戦い
  • 666 高宗は武后とともに泰山で封禅をする
  • 668 高句麗滅亡
  • 674 武后は天后と称する
  • 675 武后が実子で皇太子の李弘を弑する
  • 680 武后の実子の李哲を皇太子とする
  • 683 高宗没、中宗(李哲のち李顕)即位、すぐに廃位し、弟の叡宗(李旦)即位
  • (686 天武天皇崩御、690 持統天皇即位
  • 690 国名を周とし、武照儀は皇帝・則天武后となる。
  • 705 則天武后没、高宗の乾陵に埋葬される。同年、中宗が再度即位し唐に復する
  • 710 中宗は偉皇后により毒殺され、叡宗が再度即位
  • 712 玄宗即位
  • 716 吉備真備阿倍仲麻呂が遣唐使として長安に滞在

このころ偶然か必然か、日本では、斉明(655-661)、持統(690-697)、元明(707-715)、元正(715-724)、孝謙(749-758)と女帝が続いていた。

則天武后の名前は武照儀で、もともと唐の2代目皇帝太宗(李世民)の後宮にいた。649年太宗没後、息子の李治が3代目皇帝・高宗となり王氏を皇后とした。王氏には子供がなかったことから、高宗は男児を生んだ簫淑妃を寵愛する。これが気に食わない王皇后は対抗馬として出家していた武照儀を後宮に迎える。武照儀は聡明で、当初は王氏に献身的に仕え簫淑妃を追い落とすことに成功する。その間、武照儀は徐々に高宗の寵愛を受けるようになり、今度は官僚の多くを味方につけ王皇后から皇后の座を奪うことを画策する。皇帝側近の李義府は高宗の外戚(太宗の皇后の兄)である長孫無忌(ちょうそんむき)に嫌われたが、王皇后を廃し高宗お気に入りの武照儀を皇后とするよう上表し保身を図ろうとする。外山軍治は、家臣は職を賭して諌言することがあるが、李義府は甘言で職を守ったとダジャレで批判している。廃后について、太宗時代からの4人の重臣は皇后廃后の会議でそれぞれ異なる対応をする。長孫無忌と褚遂良(ちょすいりょう)は廃后に反対し、于志寧(うしねい)は態度を明白にせず沈黙し、李勣(りせき)は会議を欠席する。会議で廃后が決まらなかったため、高宗は李勣を訪ね意見を聞いたところ、”陛下の家事だから臣下は関知しない”と答えた。これによって高宗は廃后を決意し武照儀が皇后になる。皇后になった武照儀は、王皇后、簫淑妃を投獄したのち四肢をはね弑し、重臣4人のうち李勣を除く3人を左遷したのち死に追いやる。かつて李勣は太宗によって左遷され、高宗のときに都に呼び戻されたことがある。しかし、実はこれは太宗が我が子高宗を心配し、優秀な李勣に高宗に恩を感じるように仕向けた芝居だと言われる。外山は立皇后のときの李勣について、一度試された人間はその後自分の地位に保守的になると分析している。また、長孫無忌や褚遂良である文官を武官の李勣がこころよく思っていなかったことも二人に同調しなかった理由ではないかとする。後者の理由がより説得力があると思った。その後、李勣は高句麗戦で活躍し生を全うし太宗の陵墓である昭陵に陪葬される。上の写真は昭陵にある李勣碑で亀趺になっている。

高宗は即位後、性格が弱く健康にもすぐれず武后が政治を摂政するようになり、反対派を粛清し唐王室を簒奪する。その間、武后は一族の武氏を登用し、妖僧の薛懐義や美少年の張兄弟を寵愛する。薛懐義は大雲経に天女が即位するという一説があることから、武后は弥勒仏の下生(生まれ変わり)であり帝位につくべきだと言い始める。武后は即位すると仏教を優遇し全国に大雲経寺を造営する。武后と薛懐義の関係は、孝謙天皇と道鏡に重なり、大雲経寺は聖武天皇の国分寺建立に重なる。しかし、武后は薛懐義が図に乗ってくると彼を見限り始末したように単に気まぐれだったように思うのだが、外山は彼女のバランス感覚が優れていたとする。

則天武后は”君を弑し国を奪った”権勢欲のかたまりであるとして一般的に評価は低いが、中には人材登用を進め唐帝国を発展前進させたと評価するものもある。外山軍治は、武后がけたはずれに聡明で周到に準備して自身の描く目的を達成し、自分の帝国を築くことに成功したとする。そして、文化面での貢献を高く評価する。王羲之に代表される書の発展、仏教保護、則天文字の発明、四字年号の採用、官庁や官職の改名など、武后によって独創的な唐文化が花開いたとする。確かに即物的短期的に賢い女だったとは思うが、結局、彼女一代限りの王朝で、一族はその後粛清されたことから、大局的には問題の多い帝王だったと思う。


最新の画像もっと見る