備忘録として

タイトルのまま

張騫

2014-10-23 01:05:39 | 中国

先に法顕玄奘三蔵について書いたが、根本史料である『大唐西域記』と『法顕伝』を読んでのものではなかった。その二書をずっと大型書店や古本屋で探していたが結局見つからずアマゾンで中古本を購入した。購入したのは東洋文庫『法顕伝・宋雲行紀』長沢和俊訳注と、平凡社中国古典文学大系22『大唐西域記』玄奘著水谷真成訳である。『法顕伝』と『仏国記』は、隋書の史伝部で『法顕伝』、地理部で『仏国記』と別名が使われているが中身は同じである。『法顕伝』は短かったのですでに読み終えたが、『大唐西域記』は大書のため、相当の覚悟で読み進めなければいつ読破できるかわからない。

法顕は西暦400年頃、玄奘三蔵は西暦620年頃に長安を出発し、敦煌を通り西域を経由してインドすなわち天竺を目指した。彼らよりはるか以前の紀元前135年頃、張騫(ちょうけん)は漢の武帝の命を受け西域に入り大月氏に向かった。張騫のことは史記列伝第63の大宛列伝に書かれている。漢の武帝は匈奴撃滅のため、その西に位置する月氏と協力して匈奴を挟撃しようと考え、月氏に使者を送ることにした。郎という漢の役人だった張騫は使者に応募し採用された。張騫は敦煌を出たあと匈奴に捕えられ、その地に10年留め置かれた。隙を見て逃げ出した張騫は、そのまま月氏を目指し、大宛、康居を経由し、大夏にいる大月氏の王に会うことができた。しかし、大月氏は漢の地が大夏からは遠く離れていることと匈奴と戦いたくなかったため、張騫は結局大月氏よりいい返事をもらうことはできず帰途につく。張騫は帰り道で再び匈奴に捕えられ1年余り捕虜となったが匈奴の相続騒動の混乱に乗じて逃げ出し、13年目にして長安に帰り着くことができた。同盟はできなかったが張騫は西域の貴重な情報を持ち帰った功績を認められ太中大夫となった。 

下は、英語版Wiki”張騫(Zhang Qian)”と日本語版Wiki”楼蘭”にある西域の地図である。

青い地名 中国=China、匈奴=Xiongnu、大宛=Dayuan(フェルガナ=Ferghana)、康居=Kangju(ソグディアナ=Sogdiana)、月氏=Yuehzhi、大夏=Daxia(バクトリア=Bactria)

その他の地名、楼蘭=Loulan、姑師=Gushi、干=Khotan、小月氏=Lesser Yuehzhi、烏孫=Wusun、羌族(チベット系とされる)=Qiang、蜀=Shu、身毒(天竺)=Shendu(インド)、安息=Anxi(パルティア)、条枝=Tiaozhi(シリア) 

張騫が長安に戻ったあとの紀元前123年、武帝は衛青を大将軍として匈奴討伐を命じ、部隊長として同行した張騫は水や牧草のあるところを知っていたので作戦は成功する。紀元前121年再び李広将軍(李陵の祖父)とともに匈奴を攻撃したが、張騫は李将軍と合流する期日に遅れたため失脚し平民となる。平民となった後も武帝はたびたび張騫を召し出し西域のことを尋ね、張騫もまた様々な進言を行った。武帝は張騫の”匈奴を圧迫するため烏孫と連合すべき”という進言を受け入れ、張騫を復権させ再度西域に派遣する。張騫は烏孫に赴くと同時に、烏孫以西の安息、条枝、身毒などの国々にも部下を送った。烏孫との交渉は成功し、烏孫以外の国々も次々と漢と交易を始めた。西域からもたらされた代表的な物品は馬と葡萄酒で、漢からの主要な交易品は絹だったため、シルクロードは張騫によって開かれたともいわれる。一方、政治的には匈奴と漢の力関係が流動的で、楼蘭などの西域諸国は友好と離反を繰り返し、漢はその都度、使節と軍隊を送った。同時に漢は酒泉から玉門関、さらには西方の塩水(楼蘭のロプノール)に至るまで要所要所に守備隊の物見台を置いた。

法顕や玄奘は立ち寄った西域の都市の宗教や僧侶の数、仏跡などを細かく書きのこしているが大宛列伝は宗教について触れていない。仏教が正式に中国に伝搬するのは後漢の時代とされているので、西域各都市の宗教はまだ仏教ではなかったかもしれない。また、紀元前3世紀のアショカ王は多くの遺跡を残すが仏像はなく、ガンダーラ(上図バクトリア内にある)などに見える仏像は2世紀のカニシカ王の頃から作られ始めたと言われる。カニシカ王はホータンの小月氏の出身だという説があるらしい。

大宛列伝の最後、”太史公曰く、『禹本紀』に黄河は崑崙の山から源を発する、--としるされる。ところが張騫が大夏に使者として赴いたあと、ひとはついに黄河の水源をきわめた。かれらは、--崑崙の山など見つけはしなかった。だから--『尚書』の記述が真実に近いことになるのである。『禹本紀』や『山海経』に書かれている奇怪な物どもについて、わたしは語ろうとは思わない。”と、司馬遷はいつものように迷信や虚構にとらわれず現実主義である。

ところで、井上靖の原作を映画化した『敦煌』でウイグル(干闐ホータン付近に住む)の女王役だった中川安奈が亡くなったというニュースが数日前に流れた。この映画でデビューし、エキゾチックな顔立ちの美人だったので人気が出るだろうと思っていたが、当方はシンガポールに住んだ所為なのか以降映画やテレビで見かけることはなかった。合掌。

今日シンガポールはヒンズー教の祭日ディーパバリである。


最新の画像もっと見る