備忘録として

タイトルのまま

史記の世界

2015-07-27 01:12:50 | 中国

大奥話でさらに視聴率が芳しくない今晩の『花燃ゆ』に船橋屋の羊羹がでてきた。厳密には亀戸天神前にある船橋屋はくず餅が有名で何度も食べている。それはおいといて、高校の文化祭で演劇部が、洞窟のなかの飢餓で極限状態の人間を描く『ひかりごけ』を演じた。武田泰淳を知ったのはこのときだったと思う。おふざけ喜劇が多い中でのシリアスな出し物だったので印象に残っている。武田泰淳の『史記の世界ー司馬遷』は、史記の解説書である。

私のような読者が史記を読む楽しみは、本紀や列伝に登場する人物の人間味いっぱいの物語に心躍らせる即物的な楽しみである。伍子胥や屈原や孫子や始皇帝や劉邦や張良や韓信や李陵の物語はいずれも実話とは思えないほど小説的である。個々の物語は登場人物の個性に大きく依存してはいるものの、史実である以上、当時の社会情勢や思想哲学を背景とし、歴史的な意義や意味があるはずなのである。作者の司馬遷は各伝末尾の大史公自序で人物評をしているのだが、それは個人的な感想としかとらえられず歴史的な意義は読み取れなかった。それは単に読者の知識不足や読解力不足に起因するのだが、武田泰淳の解説書は、読者の浅学を補い司馬遷の視点を解説してくれた。

第一編・司馬遷伝

司馬遷の父である司馬談が泰山での武帝の封禅の儀に参加できず悲憤のうちに死に、自分のかわりに史書を完成させるよう司馬遷に遺言したこと、『任安に奉ずるの書』で宮刑を受けた身で史記を書くことに執着する自分の心情を吐露することで、大史公という歴史家の立場や司馬遷が史記を書いたときの状況がわかる。この任安への手紙は、史記にはなく、後漢書や文選に残っている。任安は知己の司馬遷に手紙を書き、朝廷での立場を利用し有能な人材を推挙することを説いた。ところが司馬遷は公務に忙しく何年も返信を出せずにいた。そのうち司馬遷は李陵の禍で宮刑に処せられ、さらに返信が遅れる。しかし任安が反乱の罪を得て投獄され、死刑を待つ身となったことから、返信しないままで死なせられないと、獄中の任安にあてて書いた手紙がこの『任安に奉ずるの書』である。手紙には、宮刑の恥辱と憤怒の中で史記を完成することに執念を燃やしていることが書かれている。直接的ではないが、自分や任安に罪をかぶせた武帝に対する怒りが見える。

当時の学問は、六派にわかれていた。陰陽家、儒家、墨家、名家、法家、道(徳)家である。司馬談は、「道家は、人の精神を集中させて乱さず、行動すべて無形の道にかない、万物をみち足らせる。その術は、陰陽自然の大きな道理にしたがい、儒家墨家のよきところをとり、名家法家の要旨をつまみ、時とともに移りうごき、物に応じて変化し、習俗をつくり、世事を施しても、すべてよろしく、そのおもむきも簡単で扱い易く、面倒もなく、効果が多い。」と述べ、道家がすぐれているとする。これは史記の列伝の大史公自序第七十に記されている。武田泰淳は、歴史家の仕事は、歴史的事実を前にして、何物にも規定されず無為自然、老荘の思想で臨まなければその仕事は為し難いと読み解く。

任安への手紙の中で、智、仁、義、勇、行の五つの徳が語られる。修身は智のしるしであり、施しを好むのは仁のきざしであり、取ること与えることは義のあらわれであり、恥辱は勇を決するところであり、名を立てるのは行の極みである。これらは論語や儒教の徳であり、司馬遷は儒家の董仲舒に師事したので儒家の思想の中にいることがわかる。しかし、父の司馬談は儒家を批判し、史記の中でも孔子や儒家は他家からさんざんに批判されている。

第二編・「史記」の世界構想

本紀

武田泰淳の述べる「人間の個性などは、激しい大きな歴史の動きの中では、まことにはかない微小存在に見える。」という感覚は、人間が生きていく中で誰もが感じる感覚だと思う。それでも司馬遷は、「人間個性のはたらきに眼をそそぎながら、歴史を書こうとしている」とする。秦の始皇帝や劉邦や項羽や呂后を世界の中心にすえて本紀を書いた。史記は本紀を太陽とすれば、その周りを列伝がまわっている図である。

世家

世家は分裂世界の一家一家の興亡を記し、ひとつの宇宙を構成し、それぞれの世家は相互に影響しあっている。その中で国を持たない孔子世家は特異である。なぜ司馬遷は孔子世家をつくったのだろうか、列伝でもよかったのではないかと武田泰淳は問う。孔子が魯の政治に悲嘆し、「喪家の狗(そうかのいぬ)」として諸国をさまよった。他の世家を否定することで自己の世家を主張しているとする。そして孔子世家は、列伝のいたるところで批判され列伝に連なっている。この部分の武田泰淳の説明は難解なのだが、孔子世家は政治的な一家ではなく思想上の一家としてひとつの宇宙を構成しているということを武田泰淳は言っているのだと思う。

列伝

列伝の最初に置かれた伯夷、叔斉は周の武王が義なく殷を滅ぼしたことに反対し世捨て人となった。司馬遷は自分の境遇と重ね、天さえ見捨てた人を歴史家である自分が拾い上げ歴史に名前を残すことができると宣言していると武田泰淳は解釈する。さらに列伝第一に純真無垢な精神主義の伯夷列伝を配し、最後第六十九に極端な物質主義の貨殖列伝をおいて対比させ、両者の間の列伝の登場人物が精神性と物質性のはざまで浮遊し徘徊する姿を描いているという。これを読んで張良のことを思いだした。張良はその功績に似合わないわずかな禄をもらい「仙人に従って遊びたい」と第一線から退き潔く身を処したように、劉邦亡き漢の宮廷にあって精神性と物質主義を絶妙にバランスさせた。

史記は思想史ではないが、思想を巧みに取り込む。老荘申韓列伝では、孔子が礼について質問すると、老子は「きみが言っている人たちはその骨とともに朽ちてしまった。ただその言葉だけが存在する」と答え、その形式主義、理想主義を批判した。この列伝では老子荘子、申不害、韓非子の黄老派(道家)の思想家が活躍する。司馬談の思想も道家系統である。一方、司馬遷は仲尼弟子列伝で孔子のことばである論語の中身を、”は人を愛すること、智は人を知ること”と簡潔に述べている。孟子荀卿列伝で、孟子は実務では役立たずだったので孟子七編を書いたと司馬遷に言われている。孟子とは対照的に、そのあとに出てくる科学者の騶衍(すうえん)は主人の心に合うように物事を考え実行したので政治的な成功を収めた。孔子も孟子も世俗におもねり主人の心に合おうとしなかったから主人を去らなければならなかったと司馬遷は批判する。

史記の文学者はことごとく政治家である。司馬遷の時代では丞相として武帝に取り入り権勢を誇った公孫弘を激しく非難し、同じ儒家で自身の師だった董仲舒の学問に及ばないと述べている。対照的に自分の提言が入れられず失脚した屈原が疲れ果て、世を怨み、自身の文学を述べた『離騒』は、「その志を想い見るに、日月と光を争うものと称して、さしつかえない」(功績が太陽や月の光と比較できるほど素晴らしい)と司馬遷は絶賛する。司馬遷は屈原に自分を重ね合わせ、佞人を重んじる武帝を間接的に批判する。

列伝の中心は英雄豪傑の武人たちである。思想家や文化人たちに比べ、武人たちの列伝は戦い、殺人、陰謀、反逆の繰り返しで殺伐としたものなのだが、武人たちは多様な個性を持ち、司馬遷は史記列伝で彼らの人間論、歴史論を展開する。史記の中で司馬遷は、武人たちが争いで命を失うことに「ああ悲しいかな」ということばを何度も発し彼らの運命を憐れみ嘆ずる。匈奴列伝は李陵事件を思いながら読むべきであるように、司馬遷は歴史の単なる記録者ではなく、歴史の批評家であり、政治に関わらずにはいられなかったのである。

史記に込められた司馬遷の感情や思想が示されたので、史記を再読すればより深みのある読書ができそうである。 


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