備忘録として

タイトルのまま

長安

2015-01-10 16:30:44 | 中国

昨年の初詣は水天宮で盛りだくさんのお願いごとをし、ほぼ願い事が叶ったので本来ならお礼参りに行くべきところ、今年は1月2日に仙台から上京してきた友人夫婦と待ち合わせして亀戸天神へ行った。天神さんは学業成就だけでなく、社殿に掲げられたご利益は家内安全、商売繁盛、交通安全、病気平癒など10以上に及び、考えられる願い事のほとんどすべてを網羅する心の広い庶民の神様なのである。八方美人的な天神さんのご利益を疑うわけではないのだけれど、お賽銭の多寡はご利益に無関係だという新聞記事にも勇気づけられ、さらには魔法のランプの魔神なら願い事を確実に叶えてくれるはずだなどと不謹慎な事を考えながらお参りをした。そして『アラジンと魔法のランプ』の舞台が長安だったことを思い出していた---本題に入るために少し強引で誇張はあるけれど、そういうことにしておこう。

アラビアンナイトの舞台は当然バグダッドなどのペルシャ地方の話だと思い込んでいた。絵本の挿絵やディズニーのアニメでは、砂漠やモスク風の丸屋根の宮殿を背景に、ペルシャ服を着てターバンを巻いた若者やベリーダンス衣装の美女など朱髯緑眼(しゅぜんりょくがん)の人々が活躍するのだから当然である。ところが、昔子供たちに買った絵本に”長安の仕立て屋の息子アラジンはーーー”とあり大変驚いたものだった。アラジンが実は中華風の長安の街で大活躍し、最後は(唐の?)姫君と結ばれるとは想像もできなかった。なぜ長安なのか。最近読んだ長澤和俊『シルクロード』にそのヒントが書かれていた。

第十章 唐代のシルクロード

ゾグド人の隊商の通商活動によって、唐の長安にはさまざまな西域文化が流行した。7~8世紀のアジアでは西のバグダードとともに東の長安が、世界的に最も繁栄した国際都市であった。数々の西方の珍貨を積んだ朱髯緑眼のソグド人の隊商は、はるばる西域から敦煌をへて、唐の長安にやってきた。これによって宝石、香料、金銀細工、象牙細工、織物、薬品など、唐人の珍重するササン朝ペルシャの物産が輸入された。長安の市場にはソグド人やウイグル人も珍しくなく、酒場へ行けば胡姫が胡酒(ぶどうしゅ)をすすめたと詩に歌われるほど、盛唐時、とくに開元天宝時代の長安は、ペルシャ・モードにあふれていた。(胡=異民族)

『旧唐書』輿服志によれば、”開元年間以来、----太常(宗廟の儀式を司る官命)の薬は胡曲を尚び、貴人の食事はことごとく胡食を供し、士女は皆競って胡服を衣る”ようになったという。

李白 ”何れの処にか別れをなすべき 長安の青綺門 胡姫 素手もて招き 客を延(ひ)いて金樽(よきさけ)に酔わしむ ---” 「斐十八図南の嵩山に帰るを送る」

このように、唐代の長安では、ペルシャ文化が大流行していたのである。さらに、

 7世紀中葉、ササン朝ペルシャの滅亡により、多数のササン朝の遺民が長安に亡命したと推定されることである。ササン朝ペルシャは642年、ネハーワンドの戦いに敗れて以来、アラブ軍に支配され、その遺民はトハリスタンに逃れた。674年にササン朝の王子ペーローズは直接長安に来て請兵救援を求めた。ペルシャ遠征を試みるが叶わずまもなく長安で病没する。ササン朝王族とともに多くの家臣、工芸家、芸術家が行をともにしたことは当然であろう。

『旧唐書』楊貴妃(719~756)伝によると、”宮中の供貴妃院は織錦刺繍の工およそ700人、彫像鎔造も数百いたーー”とあり、その中には多数のササン朝の遺民工芸家が含まれていたであろう。

唐の長安には実際にペルシャ人が大勢移り住んでいた。アラビアンナイトはササン朝時代の中世ペルシャ語で書かれ、8世紀ごろバグダッドで成立したと言われる。その後、多くの説話が付け加えられ、現在のアラビアンナイト物語集は成立当時の姿の何倍にも膨らんでいる(wiki)。『アラジンと魔法のランプ』は長安に住んだペルシャ人が作った説話だったに違いないと思うのである。姫君は中国人の可能性があるが、アラジンが中国人だったというわけではないと思う。

ササン朝ペルシャはイスラム教の創始者ムハンマド(570~632)の後継者(3代目カリフ)によって651年滅亡する。ササン朝の王子ペールーズが遺民を引き連れて長安に救援を求めるのはその後674年のことで、その時の唐の皇帝は第3代・高宗である。高宗のとき、倭が百済を助けるため唐と新羅の連合軍と戦った白村江の戦い(663年)があり、敗れた百済は滅亡し、ほどなく新羅が朝鮮半島を統一する。第9代・玄宗の治世は712~756年で、吉備真備が1回目の遣唐使として唐に渡ったのは716年、2回目は750年だった。阿倍仲麻呂が唐に滞在したのは716~770年で、彼らはペルシャ文化花盛りの長安の空気を吸ったことになる。アラジンが長安で活躍し、奈良の正倉院の宝物にもペルシャ文化の影響がみられるように、東西世界が密接に関連しあっていることがわかる。


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