備忘録として

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江戸庶民の教養

2016-10-02 21:13:34 | 江戸

前回、「江戸時代の庶民の教養は高く、それは日本の隅々にまで行き渡っていたと想像できる。」と書いた。辻達也『江戸時代を考える』(中公新書)にその例が列挙されていた。江戸時代の史料『孝義録』、『続編孝義録料』、『御府内備考』、『忠孝誌』をもとに池上彰彦がまとめた論文を紹介したものである。

  • 寛政3年(1791) さよ 28歳 あんま春養養女 家が貧しく武家に奉公し手習い・琴を学ぶ。読書を好み給金の余りで四書五経を求めて読む。暇をとってのち近所の女子に読み書きを教える。
  • 寛政3年 忠七 28歳 春米屋養子 養父が事業に失敗し奉公に出て養父母を養う。母は家計のたしに近所の子に読み書きを教える。
  • 寛政3年 市郎左衛門 34歳 家主 母に貸本などを読んでやる。自分も読書を慰めとする。
  • 寛政3年 伝六 56歳 質屋 読書を好み昌平坂学問所に通う。
  • 寛政8年 いわ 42歳 離婚し豆腐屋を営む。父が好きなので読本などを借りて読んでやる。
  • 享和元年 岩次郎 34歳 彫物師 父に貸本などを読んでやる。
  • 享和2年 又右衛門 父は古い書物を読み、近所の者に教諭する。
  • 文化8年 さの 64歳 住み込み奉公 主人の子供に仮名の手本を書いて読み習わせ、本を読んで聞かせる。
  • 文化10年 善太郎 16歳 漁とむき身の商い 商いの合間に手習いし弟にも教える。
  • 文化11年(1814) 嘉兵衛 45歳 書役 給金だけでは不足なので、写本や写物をして稼ぐ。

ざっとこんな感じで、18世紀の江戸時代の町人、奉公人、職人、婦人など武士ではない広い階層の人々、貧しい庶民に強い知識欲があったことがわかる。これらの人々はそれにとどまらず、人に読み書きを教える能力さえ持っていたことがわかる。渋江宙斎のような医者なら納得できるが、28歳の奉公人”さよ”がおそらく漢文で書かれていたであろう四書五経を読んでいたのだから驚きである。自分は、さよの倍以上の年齢を重ねているのに、現代語に読み下した四書五経の半分さえ読めていないのだから情けない。

左:奥村政信画 遊女の読書 右:同 徒然草を子供に教える婦人 奥村政信は18世紀初めの浮世絵師 (国立国会図書館資料より)

北斎 手習い (手元にある北斎絵事典より)

庶民の読書熱を反映して18世紀中頃の江戸には本屋と貸本屋が林立し、「貸本戸800、書店老舗50、画草子店50」という数字が寺門静軒の『江戸繁盛記』に記録されている。本の売値は高く貸本屋が流行った。19世紀初頭、江戸に貸本屋が656軒、大坂に約300軒、名古屋に62軒あったという。上表の文化11年(1814)に嘉兵衛が写本をして稼ぐとあり、それは写本を貸本屋に売っていたということである。そういえば、池波正太郎『剣客商売』の佐々木三冬の実母の実家は下谷の和泉屋という書物問屋だった。剣客商売は田沼意次の時代だから18世紀中頃の話である。

本問屋が取り扱う本は、軍書、歌書、暦、噂事、人之善悪、好色本、儒書、仏書、神書、医書、往来物、俳諧書、小説、物語、名所記、役者や遊女の評判記などで、庶民生活における教養、実用、娯楽など多方面にわたる書籍が刊行された。さらに印刷技術の発展とともに浮世絵が流行り販売された。『江戸時代を考える』によると、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』は1帙(=布を張った本)が銀20匁以上だった。米1石(150㎏)の値段が銀60匁なので、とうてい庶民が手を出せる値段ではなかった。『南総里見八犬伝』の出版部数は500程度でほとんどを貸本屋が買ったという。枚数の少ない草双紙類や浮世絵は庶民も買ったらしいが、庶民の読本は貸本が頼りだったのである。貸本代金は銀3~4分(1匁=10分)だったという。同じく18世紀末を舞台とした『殿、利息でござる!』では1000両=3億円としていたので、金1両=銀150匁=30万円、3匁=6000円だから、貸本代の3分から4分は600円から800円ということになる。大坂の米10kg=銀4匁=8000円ということになるので、魚沼産コシヒカリ並みの値段だったのである。

 

左:北斎 絵草紙店 右:斎藤長秋著 長谷川雪旦画 江戸名所図会より本問屋 (いずれも国立国会図書館資料)

北斎 貸本屋 (北斎絵事典より)

辻達也『江戸時代を考える』の”知的市民社会”という章に、蛮社の獄で有名な渡辺崋山が結成した蛮学社中に参加した人々、杉田玄白の解体新書に関わった人々が列記されている。いずれも洋学者、医者、儒学者らであり、旗本、諸藩の武士、藩医、町医、農民などの幅広い身分の人々が、同じ目的で”共有された知”を背景に交際していたことがわかる。

渡辺崋山と交際のあった滝沢馬琴は、交遊録に様々な職業と身分の人物100人ほどの名前を残していて、『江戸時代~~』はそのうちの主要人物を紹介している。その中に交流があったと思われる浮世絵師として、広重や歌川豊広の名前が見えるのだが、なぜか蔦屋重三郎版元の読本をコンビで出し、かつ自宅に居候していた北斎の名がない。辻達也が北斎をことさら取り上げなかったとは考えにくいので、馬琴は交遊録から北斎の名前をあえて外したのではないかと思う。馬琴はある時期、北斎と仲違いをし絶交した可能性があると言われている。北斎は相当変人だが、馬琴も負けていない。馬琴の変人ぶりについては、いずれ書くつもり。


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