備忘録として

タイトルのまま

さまよえる湖

2014-12-22 00:58:50 | 中国

「シルクロード」、「敦煌」、「楼蘭」などということばに憧れて西域本を読み漁った時期がある。たぶん、NHKの番組「シルクロード」や井上靖や陳舜臣の本の影響だったと思う。その中でも、スウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンの「さまよえる湖」はもっともロマンをかきたててくれた。楼蘭はロプノール湖畔に発展した国で、5世紀末ごろ湖の消滅とともにその姿を消す。ヘディンは1896~1901年の1回目の探検旅行では存在しなかったロプノール湖が、1921年に突然出現したという報を受け1934年再度探検にでる。ヘディンは中国新疆ウィグル地区のコルラからカヌーでクム・ダリヤ川を東へ下りロプノールを目指す。ロプ・ノール湖畔では”楼蘭の王女”と名付けたミイラを発見する。ヘディンが楼蘭の王女と呼ぶミイラは、1979年にNHKと中国合同のシルクロード調査隊が発見した”楼蘭の美女”とは別のミイラである。

写真は古本屋で買った訳本である。下巻はまだ手に入れていない。表紙に、”幻の湖ロプ・ノールは1600年周期で南北に移動・交替する湖なのである。この壮大な学説を提唱したヘディン(1865-1952)が、みずからの仮説を実地に検証し長年の論争に決着をつけるべく旅立った念願の探検の記録”とある。しかし、ヘディンはこの本の中で1600年で周期するなどとは一言も言っていないという。少なくとも上巻では触れていなかった。本にはヘディンが鉛筆書きした表紙絵のようなスケッチと写真が満載で、おそらく井上靖も初めて西域に足を踏み入れるまでは、このようなスケッチや写真で旅情をそそられたに違いない。以下は、長澤和俊『シルクロード』からの情報を中心に、司馬遷『史記列伝』の匈奴列伝、長澤和俊訳『法顕伝』と『宋雲行紀』、玄奘三蔵『大唐西域記』から該当箇所を拾った。

文献上の楼蘭

ロプノール湖の湖畔に栄えた国家が楼蘭であり、その後、中国の支配下に入り鄯善(ぜんぜん)国と呼ばれる。法顕は往路の紀元400年頃に1か月ほど滞在し、国の様子を以下のように書き残している。

その地はやせてゴツゴツしており、俗人の衣服は大体中国と同じで、ただ生地が毛織物である点が異なっている。その国王は仏法を奉じ、国内にはおよそ4千余人の僧がおり、すべて小乗学である。諸国の俗人と僧侶はことごとくインドの仏法を行っているが、内容は精粗さまざまである。この国から西方の通過した諸国は、大体みなこのような状態であった。ただ国々の言葉は同じではないが、出家の人は、みなインドの言語と文字を習っている。

6世紀始めにガンダーラへ経典を求めて行った宋雲の旅行を記した『宋雲行紀』には以下のように記す。

土谷渾城から西行3500里で、鄯善城に至る。鄯善城はもと自分たちで王を立てていたが、土谷渾のために併合され、今の城主は土谷渾王の次男の寧西将軍である。彼は3000を統べ、西方の異民族を防いでいる。

法顕が400年に立ち寄った鄯善国のすぐそばを620年頃インドからの帰路に通った玄奘三蔵は『大唐西域記』で以下のように記す。

さらにここ(チェルチェン)より東北へ行くこと千余里、納縛波の故国に至る。すなわち楼蘭の地である。

長澤和俊『シルクロード』によると、楼蘭の名が史上はじめて現れるのは、紀元前176年、漢の孝文帝に送られた匈奴の冒頓単于の手紙だという。そして7世紀の初めころに滅んでしまったと思われると書いている。張騫が西域に派遣されたのは紀元前135年頃なので、それよりも40年程前のことである。史記の匈奴列伝を紐解くと、冒頓単于が孝文帝に送った手紙があった。

天がお立てになった匈奴の大単于は、敬(つつ)しみて皇帝に挨拶を送る。お変わりはないか。----(中略)----(わが匈奴の)軍官兵卒はすぐれ、戦馬は力強く、月氏を滅亡させ、全員を斬り殺したり降伏させたりした。楼蘭、烏孫、呼掲(こけつ)およびその近辺の26か国を平定し、すべて匈奴の領土とした。

法顕、宋雲、玄奘三蔵はいずれもロプノール湖に言及していない。

カローシュティー文書

20世紀初頭にヘディンやイギリスのスタインが楼蘭付近でカローシュティー文書と呼ばれる文書を発見し、その解読によって国の歴史が徐々に明らかになる。カローシュティー文書はインドのサンスクリット文字の方言で書かれ、中央政府からの命令を伝えたものであることがわかった。文書群の大半は木簡に書かれ、ほかに若干の皮、紙、絹の文書が残っている。文書には王名と在位年が記されており、研究者はそれと中国との交渉史を比定して絶対年代を推定している。研究者によって比定された年代は若干異なるが、いずれも3~4世紀の文書とする。この時期の楼蘭は、インド・クシャン朝の植民王国であったことは確実視されている。400年に法顕が立ち寄ったときの、”みなインドの言語と文字を習っている”と符合する。クシャン朝のカニシカ王は楼蘭の西の于闐(ホータン)出身という説もあるという。

文書には、行政組織、町や村の税収単位、奴隷制度などが記されている。法顕が見たように宗教は仏教で、僧侶は妻帯が認められ官職にも就き、土地・奴隷を持ち豊かな生活を送っている。ロプ・ノール南方のミーラン遺跡からは多数の仏塔や僧院が発見されている。西方文化であるグレコ・ローマン(ギリシャ・ローマ)風の有翼天使像やフリギア(トルコ)帽の乙女像の壁画が出土している。 

考古学上の楼蘭

ヘディンはロプノール湖の西北岸に楼蘭城の廃墟を発見し、カローシュティー文書や漢文木簡や紙片を発見した。また、同じ頃、スタインも楼蘭の西端にあるニヤ遺跡や楼蘭遺跡を発掘し多数の古文書を発見した。1979年に発見されたミイラはDNA鑑定により、漢人と白人の混血女性ということが判明している。また、同位炭素法で判明したミイラの年代は紀元前19世紀だった。

楼蘭王国の滅亡

 6世紀の梁の職貢図に、近くの于闐(ホータン)や高昌国や亀茲(クチャ)からの使節はいるが、楼蘭あるいは鄯善国からの使節はいない。楼蘭は、5世紀中頃には中国に支配され独立性を失っている。5世紀末には相次ぐ遊牧民の侵入で街は荒れ果て人々は故郷を捨てる。そして楼蘭はいつしか砂漠に埋もれ人々の記憶から消えてしまう。

Google検索するとロプノール(罗布泊)は今はなくなっていた。wikiによるとロプノールは20世紀半ばまで水があったが、タリム川につくったダムなどによって干上がったという。地図の中の水色の四角は、貼りついた写真によるとロプノールを再現した人口の湖(プール?)のようである。今やロマンは消え去り、ロプノールは記憶の中だけの”さまよえる湖”になってしまった。ヘディンや井上靖が生きていたら何と言っただろうか。


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