備忘録として

タイトルのまま

2015-05-10 13:34:10 | 中国

写真は数年前の誕生日プレゼントに長女が贈ってくれた『Confucius Analects』論語の英語訳である。もらったときに数ページを読んだあとは放り出し、学生時代に買った『論語』金谷治訳のとなりでほこりを被っていたのを本棚から引っ張り出してきた。論語はこのブログで断片的に引用していたが全体を通して読んでみようと思ったからだ。この四書(論語、大学、中庸、孟子)筆頭の書は松下村塾の塾生たちの必読書だからだ。ここでは、『Analects』と『論語』を比較しながら、松陰や孔子が命を懸けるに値すると言った仁について述べた箇所を拾った。

吉田松陰の『留魂録』に、「成仁の一死、区々一言の得失に非ず」という一節が出てくる。命を捨てて仁を成し遂げようとしているときに、些末な一言にこだわる必要などないのだと自分を戒めるこの松陰のことばは、以下の「論語 衛霊公第十五 九」に由来するという。

子曰 志士仁人 無求生以害仁 有殺身以成仁

志のある人や仁の人は、命惜しさに仁を害するようなことはしない、時には命を捨てても仁を成し遂げるという意味である。松陰や孔子が命を懸けてでも成し遂げる価値があるとする仁とはいったい何なのだろうか。国語辞典を引くと、仁は、”他者へのおもいやり、情け”などと説明されている。

前出の論語の一節の英語訳をみると、以下のように仁は”Goodness"、すなわち”親切”や”やさしさ”と訳されていた。

Tha Master said, "No scolar-official of noble intention(志士) or Good person(仁人) would ever pursue life at the expense of Goodness(仁), and in fact some may be called upon to give up their lives in order to fulfill Goodness"

この英語本には主要な用語の索引があり、”Goodness(仁)"の項では、”benevolence”という単語を使っている。この和訳は”慈悲”で、国語辞典の”他者への思いやり、情け”と似てはいるが微妙に違うような気もする。孔子の頃の仁は、慈悲だけでなく、もっと広い意味があったが、孟子の頃に”慈悲”と意味が狭まった、あるいはより具体的になったと『Analects』に書かれている。

巻第一 学而第一 三

「子曰 巧言令色 鮮矣仁」 先生は、ことば上手の顔よしでは、仁の徳はほとんどないものだと言われた。(巻第九 陽貨第十七 十七に重複する。) 『Analects』によると、巧言令色を弄する者は佞人(ねいじん)として、孔子はよほど嫌っていた。仁の反対語として佞を置き、仁が真実で内面の美徳とすると、佞は外面の虚飾とする。

巻第二 里仁第四 十五

「子曰 参乎 吾道一以貫之哉 参子曰 唯 子出 門人問曰 何謂也 曾子曰 夫子之道 忠恕而巳矣」  孔子が我が道はひとつのことだけで貫かれていると言ったことを聞いた門人が、どういう意味ですかと曾子に尋ねると、先生の道は忠恕のまごころだけだと答える。忠はうちなるまごころにそむかぬこと、恕(じょ)はまごころによる他人への思いやりで、忠恕は仁そのものと言われる。 『Analects』によると、忠はRoyalty(忠誠)よりもDutifulness(忠実)と訳すべきだとする。なぜなら、君主に背いても原則に忠実であることが忠だと論語にあるからである。恕はunderstanding理解と訳す。他者を理解することである。

巻第三 公冶長第五 十九

「未知 焉得仁」 誠実であっても清潔であっても、智者でなければ仁とは言えない。

巻第三 雍也第六 三十

「子貢曰 如能博施於民 而能済衆者 何如 可謂仁乎 子曰 何事於仁 必也聖乎 (中略) 夫仁者己欲立而立人 己欲達而達人 能近取譬 可謂仁之方也巳」 子貢が先生に、人民にひろく施しができて多くの人が救えるというのなら仁といえますかと尋ねたところ、仁どころかそれは聖だと答えた。そもそも仁の人は、自分が立ちたいと思えば人を立たせてやり、自分が行き着きたいと思えば人を行き着かせてやる、他人のことでも自分の身近に引き比べることができる、それが仁の手立てだといえる。孔子は、子貢にどうすれば仁の徳を持てるかを説明している。『Analects』は、この一節が仁をより具体的に"benevolence"慈悲に近い徳のように述べている点において、後年の孟子での完成形に近いと解説する。

巻第六 顔淵第十二 一

「顔淵問仁 子曰 克己復禮為仁 一日克己復禮 天下帰仁焉 為仁由己」 顔淵の問に先生が答えて、わが身をつつしんで礼にたちもどるのが仁というものだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界中が仁になつくようになる。仁を行うのは自分しだいだ。顔淵がその要点をさらに問うのに対し、先生は、「非禮勿視 非禮勿聴 非禮勿言 非禮勿動」と答える。礼にはずれたことはするなと言うのである。『Analects』によると、これは、後年の猿の彫刻”見ざる言わざる聞かざる”のもとになったという。

巻第六 顔淵第十二 二

「仲弓問仁 子曰 出門如見大賓 使民如承大祭 己所不欲 勿施於人 在邦無恕 在家無恕」 仲弓が先生に仁について尋ねると、先生は、家の外で人に会うときは大切な客にあうかのようにし、人民を使うときは大切な祭りを行うかのようにし、自分の望まないことは人にしむけないようにすれば、国にいても怨まれることがなく 家にいても怨まれることがないと答えた。

巻第六 顔淵第十二 二十二

「樊遅問仁 子曰愛人」、樊遅が先生に仁について尋ねと、孔子は人を愛することだと答えた。『Analects』では、この”愛人”の部分を「Care for others」と訳している。他人を慈しむこととでも訳せばいいだろうか。正しい人を人の上につければ、「不仁者遠矣」不仁の者はいなくなる。

巻第七 子路第十三 二十七

「子曰 剛毅木訥近仁」 先生は、剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)は、仁に近いと言われた。金谷治は、剛毅朴訥を、正直、勇敢、質実、寡黙と訳す。『Analects』では、resolute(丁寧)、decisive(果断)、straightforward(率直)、reticent(寡黙)と訳す。

巻第七 雍問第十四 五 

「子曰 有徳者必有言 有言者不必有徳 仁者必有勇 勇者不必有仁」 先生は、徳のある人は必ずよいことばがあるが、よいことばのある人に徳があるとは限らない。仁の人にはきっと勇気があるが、勇敢な人に仁があるとは限らないと言われた。『Analects』では、本編の番号は14.4で、雍問第十四の二が抜けている。金谷が参照した原本と異なっているのだろう。本節は学而第一の三の「巧言令色 鮮矣仁」に通じる。

巻第七 雍問第十四 三十

「子曰 君子道者三 我無能焉 仁者不憂 知者不惑 勇者不懼」 先生は、君子の道に三つあるが、わたしにはできない。仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者はおそれないと言われた。『Analects』14.28で、本節は、孔子が門人に徳の習得には限りがないことを示したのだと解説する。

巻第九 陽貨第十七 二十二

親が死んで3年間喪に服さないのは、「不仁」だと孔子は言う。 『Analects』17.21 では「不仁」をbenevolence(慈悲)に欠けると解釈しているが、喪に服し親の恩に報いることは明らかなので、「不仁」は孝や忠に欠ける行為を指している。だから、仁の徳は、孝、悌、忠をも含むと思われる。三年喪に服すことは実務的ではないため孔子の弟子たちの間でも議論されてきたという。後年、孟子はこれをさらに発展させたらしい。

巻第十 子張第十九 六

「子夏曰 博学而篤志 切問而近思 仁在其中矣」 子夏がいった、広く学んで志望を固くし、迫った質問をして身近かに考えるなら、仁はそこにおのずから生まれるものだ。仁の習得方法が示されているのだが、この金谷治の訳ではよくわからない。『Analects』の次の説明の方がよくわかる。仁を身に着けるためには、広く学問し、学んだことを確実に自分のものとし、人の質問への答えが的を射て身近な出来事に反映できることである。

Explanation of ”Goodness (ren 仁)” in 『Confucius Analects』

Goodness refers to the highest of confucian virtue.(中略) One of Confucius' renovations was to transform this aristocratic, martial ideal into an ethical one. Ren仁 in the Analects refers to a moral, rather than physical or martial ideal. In post-Anallects texts, it has the more specific sense of empathy or kindness between human beings---especially for a ruler toward his subjects---and in such contexts is therefore usually translated as "benevolence". (中略) it is more commonly used there in the more general sense of "Goodness", the overarching virtue of being a perfected human being, which includes such qualities as empathetic understanding (shu 恕) or benevolence (hui恵).

仁は儒家の最高の徳とされる。孔子は、仁が貴族や戦士の物質的な理想であったものを、道徳と解釈した。論語以降、仁はより具体的に人間どうしの共感や親切とされた。それは特に支配者が被支配者に対してのものであり、その意味では慈悲(benevolance)とも訳される。通常、もっと一般的な感覚としては、親切(Goodness)という意味で使われ、完璧な人間の徳を包含し、その徳は共感や慈悲のような特質を含んでいる。

これまでの文節から、『論語』の設立時点で、仁をひとことで言うと、他者への”思いやり”だと思う。それは、他の徳である忠、孝、悌、恕、恵をも含むため、最高の徳だとされている。仁は、智で支えられ、礼で実践する。智と礼を学ぶには学問が大切なので、だから後年、大学や中庸の重要性が言われた。しかし、仁が思いやりや慈悲だとしても、孔子や松陰が言うように、それに命を懸けるだけの価値があるのかどうか、まだよくわからない。後年、孟子が仁を具体化したと『Analects』に書いてあったので『孟子』を読めばわかるかもしれない。以前、貝塚茂樹の解説本『孟子』を読んだが、孟子をかなり批判的に書いていたので、そればかりに着目してしまったため、仁や至誠に注意が回らなかった。松陰をはじめ幕末の志士たちは論語よりも孟子をより引用しているように見えるので、別の孟子本を読んでみたいと思っている。


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