備忘録として

タイトルのまま

The Path

2016-09-10 19:00:06 | 中国

カナダにいる娘が贈ってくれた本書のタイトル『The Path』は中国哲学に限定すれば、道家の道(Tao)の英訳である。儒家と道家の道は異なる概念なのだが、副題が”What Chinese Philosophers can teach us about the good life"とあるように、本の目的が中国哲学から人生訓を学ぶということなので、人生訓=道と考えればいいのだろう。

本はピュエット教授が教えるハーバード大学での講義を書き起こしたもの(訳者:熊谷淳子)で、卑近な例を引いて中国の哲学者たちの教えをわかりやすく解説してくれる。それぞれの解説はわかりやすいのだが、儒家や道家の思想で聞きなれた中庸、性善説、性悪説、無為自然などの語句がなく面食らってしまった。ただ、宗教や哲学は、身近なものとして人生の道しるべにならなければ意味がないということに気付かされる。これまで中国哲学を単なる知識として詰め込んでいただけで、それを人生の中でどう活かしていくか、実践していくかという視点にまったく欠けていた。若い頃、荘子の万物斉同を知らないまま五体満足について友人と熱く語り合ったあの感覚を思い出していた。すなわち、万物斉同説などという難しいことばよりも、五体満足について真剣に考えて実践することに、より大きな意味や価値があるのだということである。そして哲学はその議論を深め行動するために補完的な知識を与えてくれればそれでいいのである。

ビュエット教授は、西洋哲学は、トロッコ問題のようなパラドックスに普遍的な答えを見出そうと躍起になったが、中国哲学は、トロッコ問題など日々の暮らしを生きるのに何の役にも立たないと断じたとする。孔子は弟子が死後のことを尋ねたとき、”いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん”と答え、今ここでできることに集中すべきだという姿勢を貫いたように、中国哲学は抽象的な西洋哲学よりもはるかに実践的なのである。先進世界で急増する不満や広がる格差社会、地球規模の環境破壊や人道上の危機に直面しているのに、西洋哲学は解決策を示せていない。中国哲学を日々実践することで我々が世界を変えられると本書は述べる。

孔子

これまで自分らしく生きること、あるがままの自分を受け入れることが重要だと考え、孔子が重視する儀礼的、形式的な礼には意味がないと思っていた。ところが、ビュエット教授は、あるがままの自分を受け入れることこそが無条件に自分にレッテルをはり自己をパターン化し向上心を失くすことになるという。”いくら自分探しをしても、単一の真の自己など存在しない”というのだ。礼こそがパターンだと思っていたが、礼が自分を変えてくれる。どういうことかというと、礼によって自分を仮の型にはめ、仮の役割を演じることで少しづつ自分が変わる。日常実践するあいさつや丁寧な言葉遣いを続けることで、感情を抑えることができるようになり、まわりの人に親切にするすべを感じとる能力が身につく。この能力が、””、すなわち人間の善性である。孔子は仁を定義せず、弟子たちにその都度状況に応じた仁を説いた。ドイツの哲学者カントはどんな人にもどんな状況にも当てはまる普遍的な法則になりうるような行動をとるべきだと論じ、カントにとっては、たとえ真実を述べて身内を不利にする状況であってもウソを禁じることが絶対だった。しかし、孔子は仁を実践するためにはウソをついてもいいとする。現実世界は複雑でそれを凌駕する普遍的な道徳や倫理は存在しないというのだ。

孔子の”七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)をこえず”と言う言葉は、礼を意識せずとも仁を実践できる境地のことだろう。

孟子

孟子は自身の挫折体験から世界は転変するものととらえた。だから複雑な世界において全容を見極めて決断を下すには、状況を見抜く能力を培う必要があると考えた。その能力は感情と理性の双方を合わせたもの、すなわち心でなければならない。人間はそもそも善の素質を持って生まれてきた(性善説)から正しい決断を下す能力を持っている。井戸に落ちた子供を救うというような単純明瞭な状況下だけでなく、もっと複雑な状況下でも、日頃訓練を積んでおけば心のままにものごとを広く大局的にとらえ正しい決断を下すことができるようになる。世界は転変し不安定だから、人生がどう進展するか予測不能である。しかし、それを運命として受動するのではなく、能動的に積極的に関わっていくことで、人生の岐路で心のままに正しい決断をし運命を方向づけることが可能になるのだ。そうすることで不安定だった世界が、無限の可能性に満ちた世界に見えてくる。

孟子”人事を尽くして天命を待つ”とは、運命を受容するという受動的消極的なことばではなく、能動的に天命に働きかけることだったのだ。

老子

老子はいかなる状況下でも、もっとも影響力のあるのは無為を実践する人だという。真の影響力は、あからさまな強さや意志ではない。影響力は、あまりに自然でだれも疑問を持たないような世界を作り上げる。それを実行した歴史上の人物として、リンカーンやルーズベルトをあげる。リンカーンは、すべての人が平等であるという概念はアメリカ建国の理念だとゲティスバーグの演説で聴衆に訴えたが、独立宣言にそのようなことは書いてないのに今やアメリカ人の一般通念になっている。それどころか独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンは奴隷を所有していたという。世界恐慌のときルーズベルトはかつてない累進課税を課し経済を規制し金融機関を監督し、社会保障と福祉制度を導入し高齢者や貧困困窮者を救済し、その後アメリカは景気拡大期に突入した。しかし、多くのアメリカ人は政府が経済の規制や金融機関の監督に果たす役割を限定すべきだと考えている。そうした規制や監督が経済成長を鈍らせると信じているからだ。二人とも国民に気づかれないうちに国の方針を大変換したのだ。

老子第十七の無為自然の政治とは 儒教的な仁愛の政治も法家的な刑罰の政治もだめで、民衆に政治を意識させない政治が最上だとする。

荘子

荘子にとっての道とは、たえまなく流転し変化するあらゆるものと完全に一体化することである。理性は道との一体化を阻害する。訓練した自発性が身につけば、意識的な理性から自由になれる。これは、テニスプレーヤーがゾーンに入った時、無意識に絶妙のロブをあげるようなものである。自分中心から脱却し、自分の見方だけが唯一の見方ではないことを常に意識し、ものごとを違った目で見る。視点を変えれば、新鮮さと情熱をもって人生を経験できるようになる。区別や差別のない視点でものを見られるようになれば、人生のあらゆる局面をいとおしんで受け入れられる。死でさえも、道の終わりなき循環の一つにすぎないとして受け入れられる。らしい。

荘子の道において、差別と対立は人間の心が生じさせるもので、本来万物は斉(ひと)しい。だから、貴賤も賢愚も禍福も有用無用の区別もないのである。人間社会の価値体系そのものが絶対不変ではないのである。変化は無限に展開していく。だから、偏見を去り執着を捨て、さらには人間という立場をも捨て去り、世界の外からふりかえるとき、もはや生死の区別さえもが消え去るのである。

荀子

荀子は人為的に構築された世界をつくりだす人間の能力をよいものととらえていた。人間の自然への介入は、時に多くの危険な結果をまねく。しかし人間はずっとそうしてきたし、多くの問題を抱えているけれども、だからといって世界をよりよいものに変える人の力を放棄すべきではない。この世界を構築したのはわたしたちなのだから、わたしたちなら変えることができるとビュエット教授は述べている。

荀子もビュエット教授も自然は統御すべきものという考え方である。梅原猛山折哲雄も宮沢賢治も、このような西洋的(荀子は東洋だけど)な自然観を捨て、もっと自然に謙虚であれと、声を高くするのである。 


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