伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

頭隠して尻隠さず

2021年04月25日 | エッセー

 頭隠して尻隠さず、雉の草隠れともいう。草叢に頭だけツッコんでも尾っぽが外に出ていたんじゃ見つかってしまう。「悪事や欠点の一部だけを隠して、全体をうまく隠しおおせたつもりでいるさま」と岩波国語辞典には載っている。
 朝日新聞4月23日付1面には、
〈温室ガス46%削減、表明 30年度目標 首相「50%へ挑戦」
 オンラインによる米主催の気候変動サミットに出席し、日本政府の新たな目標を各国の首脳に伝えた。〉(要録)
 とある。随分な気炎である。しかし7面には、こう報じている。
〈削減目標の達成には、排出量の約4割を占める電力部門での大幅削減が欠かせない。政府は今夏、「エネルギー基本計画」の改定を予定しており、30年度の電源構成も見直す。自民党では今月、原発の新増設を推進する議員連盟が発足。顧問には安倍晋三前首相や甘利明・元経済産業相が名を連ね、「カーボンニュートラルの達成には原子力はマストだ」(甘利氏)と強調した。〉
 威勢のいい啖呵で頭を隠したつもりでも、原発復権の尾っぽが途端に露わになった。加えて、やれ原発だ、改憲だとの声がするとまたしても安倍がしゃしゃり出てくる。病気ですっ込んだのではなかったのかい。政治学者白井 聡氏はこう抉る。
〈河井夫妻の審理は進行しており、安倍自身に刑事責任の追及が及ぶ事態は現実味を帯びてきた。要するに、この半月(引用者註・昨年8月)ほどの健康不安をめぐる演出は、「民意によって追い込まれての退陣」という現実を誤魔化し否認するための手の込んだ工作にほかならなかった。この工作は、安倍個人の自己保身という次元をはるかに超えて、深刻に罪深いものだ。というのは、そこに懸けられているのは、民衆の力を否認し、民衆に自らを無力だと感じ続けさせることにほかならないからである。〉(「主権者のいない国」から抄録)
 森友の巨悪は高級官僚という頭は隠せても、近畿財務局職員(赤木俊夫さん)という権力機構の尾っぽから露見した。かつて日本会議に鋭く斬り込んだジャーナリスト青木理氏は安倍の本質を「空疎と空虚、そしてそれと不釣り合いに高いプライド」としたが、稿者はこれに「嘘」を加え『アンバイ四欠陥』としたい。してみれば、「手の込んだ工作」は合点が行く。普通一国のトップリーダーが病院へ行くのに大層な車列を組んで行くか。しかも適当にリークしてマスコミに撮らせるか。内外ともに求心力を損じる愚策だ。あの時、変だなと首を傾げたものだ。これなぞ差し詰め「頭隠して尻『も』隠さず」だ。「あんな男」でも、否だからこそ悪知恵は人一倍働くらしい。
 3度に及ぶ緊急事態宣言もそうだ(実は今度で5回目、先月の拙稿「仏の顔も4度」を参照されたい)。やってる感の頭は隠せても、路上呑み、公園呑みの尾っぽは隠せない。若けーもんばかりを狙い撃ちにしても尾っぽは隠せない。いやむしろ尾っぽにされた若けーもんの反逆といえなくもない。
 19世紀後半のニューヨーク、アイルランド移民で料理の腕前が優れ「子どものように善良な人」と讃えられたメアリーという名のメイドがいた。ところが20歳のころ、小規模な流行だった腸チフスを拡散させたとして以来23年間も隔離された。実は、彼女は感染はしているが発病はしない健康保菌者(不顕性感染)だったのだ。「チフスのメアリー」、「無垢の殺人者」と呼ばれる。この「チフスのメアリー」を引いて、生物学者の池田清彦氏が近著「近代優生学の脅威」(前回も徴した)で次のように語っている。
〈まさに今「未発症者を介した感染拡大」という現実に直面する私たちにとって、「チフスのメアリー」・「無垢の殺人者」と呼ばれたその女性の身に降りかかった悲劇は大きな教訓となります。原因は何より「無症状の感染者」という未知の存在を、社会が正当に扱うことができなかったことに尽きると思います。メアリーへの非人道的な行為は、彼女一人の問題ではありません。新型コロナウイルスの感染拡大が続く現代においても、そうした状況はまったく変わっていないからです。人間は「未知の存在」に直面したとき、対象を隔離・排除することで安心します。チフスのメアリーや新型コロナウイルスの感染者のように、見えている「誰か」を危険な存在だと見なし、排除することで、目に見えない病気の恐怖から逃れようとする心理が働くのです。〉(上掲書より抄録)
 途轍もなく甚深な達識である。劇的な頂門の一針である。ウイルスの排除と人の排除をどう断ち切るか、類的アポリアでもある。池田氏はフランスの哲学者ミシェル・フーコーの言を引きながら重要な警告を発する。
〈近代的な権力は医学・公衆衛生と相互に依存し合いながら発展してきました。臣民の生を掌握し抹殺しようとする君主の「殺す権力」を一つの特徴とする君主制のような古い権力に対し、近代以降の権力は「生活や生命を向上させる公衆衛生の管理・統制を通じ、福祉国家という形態で出現する」わけです。人びとの生に積極的に介入し、それを管理することで民衆の支配を行う、こうした特徴をもつ近代の権力を、フーコーは「生権力」と言います。今回の新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言は憲法が保障する個人の自由や権利を制約するものでした。いわば、国家による公衆衛生の管理と個人の人権とがぶつかり合ったかたちです。〉
 現代の国家権力は公衆衛生を口実にして国民を支配しようとする。つまりはそういうことだ。ヨーロッパの箴言に「地獄への道は善意で敷き詰められている」とある。百歩譲って善意であるにしても、ベクトルは確実に地獄へ向いていることだけは夢寐にも忘れてはなるまい。隠せない尻から断じて目を離してはなるまい。 □